雨の匂い


 乾燥のひどいゲールの夏に似合わない、湿気を含んだ重い大気。この時期、こういう鉛色の空模様のときは大雨が降るので、察しのいい商人はもう路上の店を畳んでいる。


 ユアンは決闘場コロシアムにいた観衆が帰路につくのに逆らうように、人波を進んでいく。マークを連れたエヴァはどうしても到着に時間がかかりそうだったので、ユアンとリンのみが先行した。もしかしたらユアン一人でどうにかなる敵ではないかもしれないが、リンが撹乱してくれればヴィンセントを連れて逃げるくらいはできるはずだ。


 ――ヴィンセントさんはどこだ!?


 決闘場の中はまだ一般客が多くいるため考えにくい。《剣聖》を襲うのだったら重武装で取り囲むはず。そんなことをしても目立たない場所……


 考え込むユアンの頭上が、ふと暗くなる。


「おい、避けろ!」


 肩にのるリンが耳元で叫ぶ。襲撃か、と拳銃に手を伸ばしながらその場を飛び退いた。


 しかし、ぐしゃりと不快な音をたてて落ちてきたのは、人間だった。


「っ……こいつ、鷹か!」


 かつて見た装備と似通っているが、男は額を撃ち抜かれて死んでいる。一緒に落ちてきた狙撃銃を見るに、ヴィンセントを狙った狙撃手だろう。


「下から撃たれた入射角だな。決闘場の屋上から狙って、銃弾を跳ね返されたのか」

「たぶんそうだ。あそこから狙える場所……修練場か!」


 ユアンの声が弾む。ヴィンセントの居場所もわかり、生存していることも掴めた。


 修練場まで、約二百メートル。普段なら気にならない距離が、今はもどかしい。

 角を曲がり修練場の扉が見えた――と思えば、扉が開く。ちらりと見えた修練場の中は、死屍累々。鷹と思われる者達の死体だらけだ。その中から出てきたのは、ヴィンセントだった。


 ――全部ヴィンセントさん一人で倒したのか!


 驚嘆と共に安堵したつかの間、ふらりと、彼の身体が傾いでいく。


「――ヴィンセントさん!?」

「……ユアン、君」


 一気に加速して、倒れた彼を受け止める。ユアンの服が、手が、ぬるりと濡れた。夥しい量の出血。修道服に似た、ヴィンセントのゆったりとした服をあちこち捲って出血点を探る。大腿、腹部、上腕――あまりにも多すぎる!


「出血が……! リン! どうにかできないか!?」


 自分に使った余りの包帯で縛れる箇所は縛っていくが、その間にも血の水溜まりは拡がっていく。ヴィンセントの顔色は、あの日のバートのようで。


 すがるようにリンを見るが、白い頭が横に振られた。


「私の治療を受けた貴様ならわかるだろう。止血でも一ヶ所に十分はかかる。疑似血液を術式で造るすべもあるが、私の術式出力では数十ミリリットル造って限界だ。何より、この出血量では、もう、」

「――なんでだよッ!」


 ユアンの怒号。

 リンに向けてでは、なかった。


 いつもいつも、無力なのは、自分だ。


「なんで、俺はまた何もできないんだよ……!」


 圧迫止血する手の上に、ぼたりぼたりと熱い雫が落ちる。余計にあの日のバートがフラッシュバックした。

 あの日と何も変わらない。この状況を予測することも、ヴィンセントを治してしまえるような術も使うことはできない。


「……そんなことは、ないよ」

「ヴィンセントさん!」


 意識を保つことも難しいはずなのに、ヴィンセントは穏やかに笑みを浮かべユアンを見ている。今ここにないはずの、輝く太陽や月を見るかのような、眩しいものを眺める表情で。


「君は、マークを救った。きっと……これからも、君の手が、たくさんの命を……」

「そんなのッ、俺はあなたを巻き込んだ! 孤児院にはあなたを慕っている子がたくさんいる! なのに……!」


 いいんだ、と蒼白な口元が言葉を紡ぐ。


 ――あなたまで同じことを言うのか。


「この刀を……君に託す。孤児院のことは、マークに……。すまないね、女の子の君に・・・・・・……背負わせて、ばかりだ」

「っ!? いつから……」

「――ああ、雨、だ」


 ぽたり、とユアンの涙ではないものがヴィンセントの頬にかかる。とうとう降りだしたのだ。一滴を皮切りに、次第にシャワーのように二人に降りかかる。

 せめて建物の中に動かそうと、腕に力を込めるとグレーの濡れた頭髪がふるりと揺らされた。ここでいいと、頭を振ったように見えた。


「……ふふ、雨は、好きだよ。妻が……庭が喜ぶと……笑っていたから……」


 ヴィンセントは、力なく愛おしげに雨を受ける。体温を下げさせてはいけないことは理解しているが、そんな彼を雨から遠ざける気には、なれなかった。


「だから、お前のオドからは雨の匂いがするのか。草と木と土が濡れる、恵みの匂いだ」


 黙していたリンが口を開いた。リンの言うそれは、きっと悪人からはしないものなのだろう。言葉には少しばかりの称賛が滲んでいた。

 ヴィンセントは猫が喋ったことに驚くでもなく、「ありがとう」と満足げに微笑んだ。それきり、途切れ途切れだった言葉も、浅い呼吸も聞こえなくなる。弱く、速く脈打っていた鼓動もぴたりと止まった。


「…………」


 ユアンは静かに彼の薄く開かれていた瞼を閉じさせる。そして、びしょ濡れになりながら立ち尽くした。


「ユアンっ、ここに――これ、は……」

「院長ッ!! ぁ、ああああああ、嘘だ、そんなっ!」

 

 遅れてやって来たエヴァとマークが何事か言っているが、ユアンの頭には入ってこなかった。


 自分と関わった人間がまた一人失われた事実。都市への怒り。無力感。託されたものと使命。


 ――絶対に前には進むから、今は向き合う時間が欲しかった。







 準決勝戦、そしてヴィンセントの死の二日後。昨日の新聞の一面にはヴィンセントが決闘後急な病で死亡したと載せられていた。

 簡易に葬儀を済ませたあと、どこから聞きつけたのか孤児院に新聞記者が押し寄せマークに詰め寄ったそうだ。事実を言えば都市に消されると判断した彼は、咄嗟に死因を誤魔化した。その上、ユアンとの決闘が遠因ではないかと勘ぐられないよう、「ヴィンセントには誰にも言っていない不治の持病があった」と記者に伝えたらしい。賢明な彼に感謝しかない。


 この二日はうってかわり晴天だ。まるで、一昨日のことが嘘のように。


 今いるのは、第三ブロックの北側、農耕地帯の端に位置する都市の共同墓地だ。多くの市民はここに眠ることになる。

 ヴィンセント・キリアム――真新しく名が彫られた墓石を前に、花を供えてユアンは長いこと佇んでいた。


「…………」

「貴様はいつまでここにいるつもりだ。死者を悼むのが無駄だとは言わん。ただ、貴様が生き残るために今やるべきことは別にある」


 肩に乗っていたリンが、墓石に跳び移り、ユアンを正面から見据えて言う。彼――暫定的にオスだと思うことにした――は、なんだかんだ面倒見がいい。言葉はキツイが。


「……そう、だな」


 ユアンは苦笑し、墓石に背を向け歩きだす。再び肩に跳び乗ったリンに「いい加減自分で歩けよ」と小言を言っている所に、遠くからユアンを呼び掛ける声がした。


「ユアンさんが、ここにいるってエヴァさんから聞いてっ」


 走り寄って来たのはマークだ。十六歳だからユアンとは一つしか違わないのだが、小柄で童顔なためもっと幼く見える。彼を居候二号と化したエヴァがユアンの家で応対したようだ。……エヴァはユアンのことをまだ男だと思っているはずだが、その辺に抵抗はないのだろうか。


「ああすまない、こんなところまで。その持ってるやつは?」

「これを届けに来たんです。鍛冶師の手入れが終わったので」


 布袋に入った細長いそれは、ヴィンセントが遺した刀だ。クセの強そうな刀剣であるため、正直決勝戦に使うかはわからないが、マークはいち早くユアンに渡したかったらしい。


「……ありがとう。ほんとは、君に恨まれてもしょうがないのに」

「そんなことありません! 貴方は命の恩人ですし、孤児院の恩人です。院長は、たぶん最初から予想していたと思います。あの人は僕たちのために生きていてくれただけで、ずっと死に場所を探すような目をしていましたから……」


 その証拠にほら、とマークが取り出したのは戸籍を記した紙だ。マークの年齢を考えると紙がまだ真新しく感じる。氏名の欄には――“マーク・キリアム”。


「養子、か?」

「ええ。決闘の前に役所で僕を養子登録していたんですよ。なんかもう逆にひどくないですか? これを知ったら、涙引っ込んじゃいました。悲しんでる暇ないだろって、頭はたかれた気分になって……。だから、大丈夫なんです」

 

 強いヤツだな、と思った。きっと彼は、ヴィンセントが見込んだだけのある男になるだろう。


「俺も次に進まないとな」

「決勝、絶対勝ってくださいね。孤児院に籠もるので応援には行けませんが……」


 キリアム孤児院はマルコムが後ろ盾となるよう話はつけてあるが、あの胡散臭い市議会議員にも準備というものがあるらしく、そうすぐにマーク達が安全というわけにはいかないようだ。ほとぼり冷めるまで身を隠してもらうしかない。


「勝つさ。そうしないと先はないしな」

「よく言う。まだ何の方策もないくせに」

「……こんの猫野郎」

「あ゛? 引っ掻くぞ貴様」


 無駄に火花を散らす一人と一匹を見て、マークは苦笑する。猫が喋ることはもう訊くまいと諦めているようだ。

 しかし、ふと彼は顔を曇らせた。


「……貴方が決勝で当たる《怪物モンスター》、短い期間でしたが、近くにいて思ったんです。彼は――文字通り化け物だ。人間らしい感情も、倫理観も持ち合わせていない……。そもそも、彼は優勝者の特典である優民権で市議会から援助されているというより、市議会に従っている見返りとして自由に振る舞っているような雰囲気でした」

「《怪物》は、市議会に飼いならされているってことか」


 優勝者と主催者側に癒着がある――そこに市議会のメリットがあるとすれば、


「優民権を悪用・・されないようにするためだろうな。ヴィンセントさんが優民権で私営の孤児院を無理やり認可させたのは、はっきり言って裏技だ。社会的に影響力のある人が、大勢の市民の前で要望を言えば市議会はそれを叶えざるをえない。叶えない方がおかしいと思われるような善行なら、尚更」


 孤児院を作るからそれを認可してほしい、なんて慈善に満ちた要望を却下すれば、市議会の支持は下がる。支持が下がれば市議会の粗を探ろうとする者も出るだろう。むしろ厭われているのはそこかもしれない。


「自分が喰い物にされるという事実を知らない脳天気な集団の方が管理しやすいからな。奴らはああ見えてかなり国民のコントロールに長けている。反政府者の発生予防と監視――それがかえって治安維持となって国民には信頼される。執政する連中はそれなりに頭のキレる集団だろうな」

「いや、褒めてどうすんだよ……」


 その頭のキレる集団が仇だというのに。だがリンの言うことに一理はある。バートが長い時間をかけてやっと尻尾を掴むに至った奴隷生産、それを察知する速さ。相手の組織としてのレベルが非常に高いからこそのものだろう。


 ――ゲールは建国からまだ五十年ほどしか経っていない。一体誰が市議会を……こんな国を造った? 


 建国史なんてものは教養に組み込まれていない。ユアンが知っているゲールの歴史は、優秀な指導者が多民族の集落を都市国家にまとめていったという、ありきたりなもの。その指導者についても謎に包まれているという。恐らく隠蔽されているのだ。

 バートが追っていた真実を、いつかは掴まねばならない。


 とはいえ、まずは優勝して都市を出ることが先決だ。


『この都市には偶然行き着いただけだから、脱出するなら私も一緒に行くわよ』

『貴様の近くにいたほうが燃費がいい。あくまで合理的判断だ。相関者エフェクターを間近で観察できるしな』


 と言い張る、当初は予想だにしなかった二人の仲間も連れて。巻き込んで申し訳ない気持ちがある反面、二人の存在は心強い。

 しかし、優民権で都市から出る権利を得るのは優勝者のみ。リンはともかく、エヴァを連れていく手立てが今のところない。


「いや……方法、無くはないな」

「なんのことだ?」

「んー、ま、この話は家に帰ってから詰めよう。エヴァと三人で作戦会議な」


 決勝戦まであと二日。


 ――きっと今が、正念場だ。


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