《決闘都市》
「先生、この資料はこっちにしまっていいですか?」
「ん? どの資料だい?」
「えーと、“ガスの普及による他国との格差”です」
「あぁ、それは――」
バートと夕食を食べた翌日。
ユアンはいつものフード付き外套にくたびれたシャツと色褪せたズボンではなく、丁寧に皺がのばされたシャツに薄手のベスト、濃紺のパンツという服装で富裕層の住む地区に来ていた。
そこに住む若き学者の手伝いが今日の仕事だからである。
「……先生の散らかし方はもはや才能を感じますね」
一度手を止めて改めて部屋を眺めると、思わず苦言が出てしまう。元々広いはずの部屋は床の至る所に本や紙束が積み重ねられ、ユアンには読めないような書きなぐりのメモがあちこちに散らばっているのだ。
この仕事場でやることは主に三つある。
一つは先日の話にあるように、勉強を見てもらうこと。二つ目は資料探しや文章の推敲、計算といった彼の研究の小さな手伝い。
そして三つ目に、部屋の片付けである。
「ご、ごめんよ。集中しちゃうとどうしてもね……」
一人の青年が資料を仕分けしながら謝ってくる。
気の弱そうな(実際に弱いが)顔立ちに古びた丸眼鏡をかけており、猫背気味でわかりづらいが身長がかなり高い。百七十センチ弱のユアンの目線に肩がくるのだから、おそらく百八十センチ以上はあるのだろう。しかしあまりにもひょろひょろすぎて、パンチ一つで吹っ飛ばせそうな印象だ。
彼が件の学者、ジェフリー・マクレガーである。
「ほ、ほんとにユアン君には感謝してるよ。家政婦を雇ってもいいんだけど、彼女らは勝手にメモを捨てたり変なところに資料を置いたりするから困るんだ」
「家政婦からすれば床に置いてある方が変なんですよ。さ、後三十分で片付けますよ!」
「はい!」
――三十分後、なんとか床にあった本や資料は全て棚に収まり、メモ等の整理を終えることができた。
ジェフリーは疲れた様子で椅子にもたれ掛かり座っていた。彼の後方斜め横にも椅子が置かれており、そこがユアンの定位置だ。先ほどまで本が積まれていたが。
「先生、コーヒーをどうぞ」
「ありがとう。じゃあ宿題の方を見させてもらおうかな」
「はい」
持ってきていたノートを渡すと、ジェフリーは素早く目を通し赤インクの万年筆で丸や修正すべき点を書き加えていく。数分もしない内にそれらは終わり、ノートを返された。
「うん、今回もよくできてるよ。小さな計算ミスはあるけどやり方はまちがってないし、化学の方はかなり式を覚えたようだね。生物学はもう教えられるところないかもなぁ、僕専門外だし」
「えっ、俺結構好きだったのに。でもそっか、先生は化学分野専門ですからね……。なんかすみません」
「いいんだよ、知ってる範囲で教えてるだけだから」
生物学は人体の造りや簡単な植物についての知識、生体内での化学変化などを学んでいた。考えてみれば、専門外なのにそれだけ教えられるジェフリーはかなり博識だ。
「そもそも外国だと化学の概念自体なかったりする所もあるからなー。外国行ったらユアン君はもう
「はっ? えっと、俺が習ってるのってまだ基礎ですよね?」
ジェフリーの何気ない一言にユアンは目を丸くした。
あれ、言ってなかったっけ、とジェフリーはきょとんとしている。
「外の国だと専ら精霊信仰……全ては目に見えない精霊が作用しているって考え方ね。これで人体や自然現象の説明をつけちゃう国もあるんだ。ていうか後進国はそれがほとんどかな」
化学の原理を理解するとなんだか途方もない話である。幼い頃から教え込まれるとそれが当然になるのだろう、とどこかで納得する。
「ああ、でも噂じゃ海を挟んでかなり遠くに、《魔導》ってものが発展した国があるって聞いたことがある。なにやら人間個人に備わってる見えない力を色んな事象に変換するとかで……」
「胡散臭くないですか? それ」
あまりにも荒唐無稽である。そもそも、この都市は国外の話――特に情勢についてはあまり情報を流していない。新聞にもほとんど載ることはなく、移住してきた人から近隣の国について多少聞く程度だ。
「僕もそう思う。まぁ、興味深くはあるけど僕はこの都市が一番だと思ってるよ。世界で一、二を争うほど科学が発展しているし、貴族制度はないし社会保証もまともだ。外国人の受け入れには寛容だし、スラムはあるけど無償の教え所や配給があるから最低限の暮らしは保証されている。《決闘祭》っていうチャンスもあるしね」
ジェフリーはとても嬉しそうに語る。よほどこの都市が好きなのだろう。
「ときどき乱暴な奴とか流れてくるけど、俺もここはいい国だと思います」
先日の強盗まがいの詐欺を思い出し苦笑する。
確かにゲールにあるスラム――第五ブロックでは都市で教師を雇って簡単な教育を行ったり、週に一回ほど炊き出しを行っている(一般市民用の初等学校は別にある)。勿論税金をスラムのために使うのは無駄だと断じる人々も市民の中にはいる。しかし、第二ブロックの商店街や第四ブロックの工業地帯においてスラムの住人は必要不可欠な労働力だ。彼らの教育水準が高いことに越したことはなく、ほとんどの市民は今の体制に大きな不満はないようだ。
ジェフリーに先日の一騒動について説明したところ盛り上がり、ふと時計を見ると十五時半になっていた。
そろそろ研究の方を、と言うとジェフリーはそうだった! と推敲が済んでいない研究発表用の原稿と文献のリストをユアンの前に積んでいく。 発表会目前の今日はかなり仕事が多そうである。
――バートとの鍛練もあるし、頑張って終わらせるか。
ユアンは養父と過ごす時間のために紙の山にとりかかるのだった。
「ただいまー」
返事は、ない。
今まで着ていた好青年風の服を脱ぎ、動きやすい服装に着替える。
十八時の鐘が公衆放送で鳴っている間に帰ってくることができたが、家の中には誰もいないようだ。
「なんだ、せっかく急いだのに……」
バートはまだ「個人的な調査」とやらを続けているのだろう。となるとバートがいつ帰ってきてもいいように、作り置きできる夕飯を作って一人で食べるほかない。
手早く野菜と鶏肉を缶詰めのトマトと水で煮込み、具沢山のトマトスープにし、保存しておいたチーズとパンで胃を満たした。美味いが、やはり一人で食べる夕飯はどこか味気なかった。
皿洗い等を済ませたら、次は鍛練の時間だ。
護身術と体力作りの名目で行われていたバートとの日々の鍛練は次第にエスカレートし、何故か銃とナイフの扱いまで覚えさせられた。習慣とは恐ろしいもので、バートがいなければ自主練習をするのが常だ。
まず基礎体力維持のために第三ブロック内をランニングし、腕立て伏せ、腹筋などの各種筋トレを行う。終わったらナイフの素振りと銃を抜き構えるまでの動作の練習。バートがいれば組手も行う。帯銃が違法ではないこの都市でも銃声が住宅街に響くのはまずいので、狙いを定める訓練のみ行う。射撃練習は市民向けの射撃場で週に一回だけ行くようにしている。何て言ったって弾代が惜しい。
夜とはいえ今は夏。鍛練が終わったユアンは滝のような汗をかいていた。長い髪が肌に張り付き気持ち悪い。
「あっつ……」
水、水と呟きながら台所の蛇口をひねり、コップに水を満たす。二回ほどそれを煽ったらやっと一心地ついた。
次いで、火照った身体をシャワーでほどよく冷まし、清める。ゲールでは
シャワーから上がり、濡れた髪をタオルで適当に拭って歯を磨いたらあとは寝るだけ。
ゲールの夏は湿気が少なく、昼は暑く夜は涼しくなる。今日もぐっすり寝れそうな気温だ。
二階の自室に上がりベッドに潜り込みめば、瞼はすぐに落ちていった――が。
突然、小さな金属音と木が軋むような音がした。
「バート……?」
思わずユアンは布団を持ち上げ起き上がった。
今のは鍵で玄関の扉が開く音だ。合鍵を持っているのはバートしかいない。しかし、こんな時間に彼が帰ってきたことは、一度もない。家以外で酒を飲むことはほとんど無く、(少なくとも見た限りでは)夜遊びの類いをしない男なのだ。
――まさか盗人? そんなに鍵の型は古くないが、ピッキングされる可能性はゼロではない。もし侵入者がいたら、銃で撃つのはまずい。暗視での命中率はまだ高くないし、下手に跳弾したら自分も危ない。
そこまでをほんの一瞬で思考したユアンは、机の上に置いていた鞘に収まるナイフを手に取る。足音も気配もなるべく消し、階段をそっと降りていく。
勝手知ったる自分の家だ。どこを踏めば床が軋むかなんてわかりきっており、すぐに一階に着いた。
家具のシルエットがギリギリ把握できる暗闇の中、リビングに立つ人影。
丁度背を向けていたので、背後は簡単にとれた。
「動くな」
ナイフの柄を相手の背中に押し当てる。背中の神経は鋭くない。侵入者は銃口だと勘違いするだろう。
さあ、どうでるか。
固唾を呑んで侵入者が口を開くのを待った。
「――ユアンか?」
「はっ? バート!?」
なんてことはない、よりにもよって普通に同居人だった。ユアンの身体から一気に緊張が抜けた。
遅くに帰るなら事前に言ってくれればいいのに、と不満混じりにため息も出る。
しかし、バートが放つ言葉に、ユアンの安堵は打ち砕かれた。
「急いで仕度しろ。――この都市を二人で脱出する」
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