こころことのは〜心言葉〜
わたなべ りえ
黄昏
*
イズー城の尖塔の影が、すっかりと中庭を覆い尽くす。
黄昏だ。
小さく切り取られた空が染まってゆく。
エーデム王は、ただ一人、色の変化に見入っていた。
魔の島に咲くあらゆる花を集めた自慢の中庭も、この時ばかりは褪せた花で埋め尽くされる。
花というものは、光を浴びてこそ、色とりどりに美しいのである。
この時、王が摘んだ花は、美しい銀薔薇ではない。美しさを争う花々を引きたてる
まるで王を守る銀の結界のように、花は王の腕の中で揺れた。
エーデム王・セリス——。
王位についた後の幾多の困難が、涼やかだった彼の瞳に影を落とす。
時は少しずつ確実に、幸も不幸も、王の瞳に焼き付けていく。
しかし、古の時代の血を濃く残す王の美貌に衰えはない。
それどころか、晩成の彼には、年月をかけてエーデムの血がよりあきらかになっていくようである。
かつて、ガラルの巫女・フィーマが予言していたように、セリスは、古代の血により長い寿命が約束されているのだ。
それが事実であるとばかりに、長い銀糸の髪も、透き通るような肌も、時の侵蝕を受けていないかのようだ。
ここ数年、王を煩わせるような大きな戦争はなかった。
王の結界に守られたエーデムは、平和そのものだった。
時折聞こえる争いの蹄の音も、それは遠くのサーガにすぎない。
苦難の時代があったとはいえ、後の世の人々は、セリスの時代を平和というだろう。
エーデム魔族・最後の輝きの時代とも、安らぎの時代ともいわれるであろう。
そして、セリスをかつての名君「セルディ・エーデム」と並び賞することであろう。
しかし、今日この時、王の気持ちは黄昏のように沈んでいた。
王が花を摘んだのは、ただ一人、王妃に捧げるためだった。
「セリス様……」
か弱い声が、天蓋の架かるベッドから聞こえた。
普通の人ならば聞き取らないであろう声を、エーデムリングに属する能力を持って、王・セリスは聞き届けた。
薄暗い重々しい石作りの部屋の片隅に、セリスは灯りを灯す。
そして、かつてはよく王妃が自分にしてくれたように、摘んできた花を枕もとに飾る。
「……気がついていたのですか?」
天蓋の中から力なく伸ばされた手を、セリスは握り締めた。
わずかな灯りだったが、王妃はそれでも明るすぎるとばかりに、顔をそむけたままだった。
天蓋の中に持ちこまれた小さな燭台は、再び天蓋の外に出て、霞草の向こうにおかれて、花を雲のように浮かび上がらせた。
熱でかすかに香り立つ。
「……申し訳ありません。私は……もう、あなたと歩むことが……」
王妃の声は震えていた。それ以上は声にならない。
王妃・エレナはエーデム族といえど、平民である。
王と同じ年数を生きる運命にはない。
セリスは握り締めた手を、愛しげにさすった。
それは、深い皺と骨ばった手で、王の繊細で美しい手とは対照的なものだった。
時は容赦なく王妃を痛めつけ、ここしばらくは外に出ることさえままならない。
そして今、王妃は死の床に臥しているのであった。
「私が逝ってしまいましたら……ガラルからフロル様をお迎えしてくださいませ。そうしていただけましたら……私も安心して参れます」
老いに侵蝕された頬を潤すかのように、エレナが涙を流すのを、セリスは見逃さなかった。
ここ数年、色あせていくことに苦しんで、王妃は人目をはばかるようになった。
もともと地味で目立たない王妃である。
人々はエレナの存在よりも、王妹・フロルを、重く見ていた。
エレナのあとに、王が妹・フロルを王妃として迎えるのではないかという噂は、何年も前からイズーでささやかれている。
それはセリスも知っている。
だから、最愛の妹がエレナに遠慮してイズーを去ることを、セリスは認めた。
「エレナ、あなたはうそつきですよ。もっと素直になりなさい」
セリスは微笑んだ。
手を伸ばして、以前は輝くような金髪だった白い髪を撫でた。
「あなたの手には、私を癒してくれた数だけの印が刻まれている。金色であっても白であっても、この髪にふれることほど、安らげたことはない。私の妻は、私が今までの倍の時間を歩もうと、あなた一人だけです」
知らない者が見ていたら、親子……いや、祖母と孫に見えるだろう。
それでもセリスは、添い寝でもするように体を寄せた。
「それとも、あなたは私と歩んできた日々を、悔やんでいるのですか?」
エレナは驚いて、弱々しくも体をセリスのほうに向けた。
「辛いことが……たくさんありましたね。私とともに歩まなかったら、そのような苦しみも、今のあなたの苦しみもなかったかも知れません」
少しだけ悲しい目をしたセリスを、エレナは見つめていた。
暗がりの中、日々を過ごしているエレナにとって、久しぶりに見つめる瞳。
やはり、そこには確実に時間が刻まれていた。
「私の妻は、私が今までの倍の時間を歩もうと、あなた一人だけです」
うそつきで素直ではなかったのかもしれない。
セリスの言葉がうれしくて、エレナはかすかに微笑んだ。
私は私なりに、せいいっぱい生きてきた。この人と共に……。
悔いはない。
かつての微笑がエレナに戻ったのをみて、セリスは耳元でささやいた。
「明日……久しぶりに中庭に出ましょう。いいえ、もう歩かなくてもいいのです。側にいてくれるだけで。そうだ、花冠でも作ってみましょう。まだ作り方を覚えているといいのですが……」
かすかにセリスの髪を揺らすエレナの息が薄くなり、やがて安らかな眠りが訪れた。
***
エーデム王・セリスの在位は長く続く。
王妃の死後、セリスは約束通り独身を通した。
それは、王妃と共に歩んだ時間よりも、遥かに長い時間だった。
=了=
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