こころことのは〜心言葉〜

わたなべ りえ

黄昏


 イズー城の尖塔の影が、すっかりと中庭を覆い尽くす。

 黄昏だ。

 小さく切り取られた空が染まってゆく。

 エーデム王は、ただ一人、色の変化に見入っていた。

 魔の島に咲くあらゆる花を集めた自慢の中庭も、この時ばかりは褪せた花で埋め尽くされる。

 花というものは、光を浴びてこそ、色とりどりに美しいのである。 

 この時、王が摘んだ花は、美しい銀薔薇ではない。美しさを争う花々を引きたてる霞草かすみそうである。

 まるで王を守る銀の結界のように、花は王の腕の中で揺れた。


 エーデム王・セリス——。


 王位についた後の幾多の困難が、涼やかだった彼の瞳に影を落とす。

 時は少しずつ確実に、幸も不幸も、王の瞳に焼き付けていく。

 しかし、古の時代の血を濃く残す王の美貌に衰えはない。

 それどころか、晩成の彼には、年月をかけてエーデムの血がよりあきらかになっていくようである。

 かつて、ガラルの巫女・フィーマが予言していたように、セリスは、古代の血により長い寿命が約束されているのだ。

 それが事実であるとばかりに、長い銀糸の髪も、透き通るような肌も、時の侵蝕を受けていないかのようだ。


 ここ数年、王を煩わせるような大きな戦争はなかった。

 王の結界に守られたエーデムは、平和そのものだった。

 時折聞こえる争いの蹄の音も、それは遠くのサーガにすぎない。


 苦難の時代があったとはいえ、後の世の人々は、セリスの時代を平和というだろう。

 エーデム魔族・最後の輝きの時代とも、安らぎの時代ともいわれるであろう。

 そして、セリスをかつての名君「セルディ・エーデム」と並び賞することであろう。



 しかし、今日この時、王の気持ちは黄昏のように沈んでいた。

 王が花を摘んだのは、ただ一人、王妃に捧げるためだった。


「セリス様……」


 か弱い声が、天蓋の架かるベッドから聞こえた。

 普通の人ならば聞き取らないであろう声を、エーデムリングに属する能力を持って、王・セリスは聞き届けた。

 薄暗い重々しい石作りの部屋の片隅に、セリスは灯りを灯す。

 そして、かつてはよく王妃が自分にしてくれたように、摘んできた花を枕もとに飾る。


「……気がついていたのですか?」


 天蓋の中から力なく伸ばされた手を、セリスは握り締めた。

 わずかな灯りだったが、王妃はそれでも明るすぎるとばかりに、顔をそむけたままだった。

 天蓋の中に持ちこまれた小さな燭台は、再び天蓋の外に出て、霞草の向こうにおかれて、花を雲のように浮かび上がらせた。

 熱でかすかに香り立つ。


「……申し訳ありません。私は……もう、あなたと歩むことが……」


 王妃の声は震えていた。それ以上は声にならない。


 王妃・エレナはエーデム族といえど、平民である。

 王と同じ年数を生きる運命にはない。

 セリスは握り締めた手を、愛しげにさすった。

 それは、深い皺と骨ばった手で、王の繊細で美しい手とは対照的なものだった。

 時は容赦なく王妃を痛めつけ、ここしばらくは外に出ることさえままならない。

 そして今、王妃は死の床に臥しているのであった。


「私が逝ってしまいましたら……ガラルからフロル様をお迎えしてくださいませ。そうしていただけましたら……私も安心して参れます」


 老いに侵蝕された頬を潤すかのように、エレナが涙を流すのを、セリスは見逃さなかった。

 ここ数年、色あせていくことに苦しんで、王妃は人目をはばかるようになった。

 もともと地味で目立たない王妃である。

 人々はエレナの存在よりも、王妹・フロルを、重く見ていた。

 エレナのあとに、王が妹・フロルを王妃として迎えるのではないかという噂は、何年も前からイズーでささやかれている。

 それはセリスも知っている。

 だから、最愛の妹がエレナに遠慮してイズーを去ることを、セリスは認めた。


「エレナ、あなたはうそつきですよ。もっと素直になりなさい」


 セリスは微笑んだ。

 手を伸ばして、以前は輝くような金髪だった白い髪を撫でた。


「あなたの手には、私を癒してくれた数だけの印が刻まれている。金色であっても白であっても、この髪にふれることほど、安らげたことはない。私の妻は、私が今までの倍の時間を歩もうと、あなた一人だけです」


 知らない者が見ていたら、親子……いや、祖母と孫に見えるだろう。

 それでもセリスは、添い寝でもするように体を寄せた。


「それとも、あなたは私と歩んできた日々を、悔やんでいるのですか?」


 エレナは驚いて、弱々しくも体をセリスのほうに向けた。


「辛いことが……たくさんありましたね。私とともに歩まなかったら、そのような苦しみも、今のあなたの苦しみもなかったかも知れません」


 少しだけ悲しい目をしたセリスを、エレナは見つめていた。

 暗がりの中、日々を過ごしているエレナにとって、久しぶりに見つめる瞳。

 やはり、そこには確実に時間が刻まれていた。


「私の妻は、私が今までの倍の時間を歩もうと、あなた一人だけです」


 うそつきで素直ではなかったのかもしれない。

 セリスの言葉がうれしくて、エレナはかすかに微笑んだ。

 私は私なりに、せいいっぱい生きてきた。この人と共に……。

 悔いはない。


 かつての微笑がエレナに戻ったのをみて、セリスは耳元でささやいた。


「明日……久しぶりに中庭に出ましょう。いいえ、もう歩かなくてもいいのです。側にいてくれるだけで。そうだ、花冠でも作ってみましょう。まだ作り方を覚えているといいのですが……」


 かすかにセリスの髪を揺らすエレナの息が薄くなり、やがて安らかな眠りが訪れた。


*** 

 

 エーデム王・セリスの在位は長く続く。

 王妃の死後、セリスは約束通り独身を通した。

 それは、王妃と共に歩んだ時間よりも、遥かに長い時間だった。



 =了=

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