第156話 姉

 カジとクリスティーナは帰宅すると、汗を洗い流して浴槽で温まった。たっぷりの湯の中で足を伸ばす。寒さに冷え固まった体が解れていく感覚が、二人の心をリラックスさせた。


「あぁ、本当に気持ちいいな……」


 クリスティーナは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。

 クーデターの情報が入ってきてから、クリスティーナの表情はどこか浮かなかった。体内の魔力の流れがいつもより沈静化しており、強かった性欲も抑えられていることが、カジにも分かった。

 しかし、今回弟も無事に確保され、心配事が一つ減ったためか、魔力の流れが少し活性化した気がする。


「何で弟と仲が悪いのか、ようやく分かった気がするよ……」

「あのときは見苦しい場面を見せたな。つい自分もカッとなって……」

「まさか再会して早々、あんな喧嘩をするなんてな。でも、俺には血の繋がった家族がいないから、本当の弟がいることが少し羨ましいんだ」

「ふっ、長女の役目は大変だぞ?」


 クリスティーナは得意気に笑うと、浴槽の中で足をパタパタさせる。


「本当は、私も薄々気付いていたんだ。どうして姉弟の仲が悪くなったのか……」

「手紙を無視した、っていう話か?」

「ああ、それだ」


 クリスティーナは目を伏せ、湯の中に屈折して映る体を見つめる。そこには治癒魔術でも消しきれなかった古傷があった。


「かつての戦争で魔族を倒すために、私は国中を駆け巡っていた。弟から『両親が病気だから帰るように』と連絡を貰っても、それを無視してギルダを倒すことに没頭したんだ」

「あの頃は両陣営大変だったからなぁ……」

「もし私のいない間にギルダが仲間を傷付けていたらと思うと、なかなか帰れなくて……結局、一度ギルダを討つまで弟からの手紙を無視したんだ」


 あの戦争の中でクリスティーナはそういう境遇に置かれていたのか、とカジは彼女の新たな一面を見た気がした。当事者の語る戦いの苦悩は、同じ戦士としてなかなか興味深いものがある。カジはさらに耳を傾け、深く頷きながら聞いていた。


「帰ったら、弟の態度は一変していた。高圧的で、私のことを邪険に扱う。私の打ち出した政策の粗を探し、玉座から何度も追い払おうとした」

「家族が政敵になるなんて大変だな」


 一番近しいはずの家族が一番の政敵になるなんて、昔は絶対に考えられなかった。喧嘩の仲裁をしてくれた父も他界し、姉弟間の紛争は激化するばかり。いつまでも妥協点が見えず、戦いは平行線を辿っていた。


「今はあんなヤツだが、昔はもっと可愛かったんだぞ? なかなか王宮の外へ出られないから、モンスターの辞典を集めたりしてな。気持ちの悪い絵やら写真やらを見せられたものだ」

「それ、可愛いのか?」

「可愛いさ。だから、アイツのことも守りたかった」


 大好きな家族を守るための戦いが、いつの間にか家族を傷つけていた。もうあの頃には戻れないのだろうか。

 そのことに鬱屈としたのか、彼女が次の言葉を発するまで少し間が空いた。


「今となって、少し後悔はしているんだ。きっと弟も、あのとき本当は私の隣にいたかったのではないかと思う。今の私がカジの隣にいたいように……」

「ああ。そうかもな……」

「カジ、お前には、私と同じ過ちをしてほしくない。もし怒りや憎しみに心が支配されそうなときがあっても、家族のことを忘れないでくれ」






     * * *


 夜、カジは目を覚まし、ベッドから起き上がった。隣には妻のクリスティーナが眠っており、彼女を目覚めさせぬようこっそりと動く。

 クリスティーナに言われて気がかりだった言葉――「家族のことを忘れないでくれ」。その言葉が心に引っ掛かり、なかなか寝付けなかった。

 コートを着て、軽く髪を整える。


「カジ、出かけるのか?」


 クリスティーナも動く気配に目を覚まし、部屋を出て行こうとするカジを見つめていた。


「ああ。放置しちゃいけない家族がいることを思い出してな」

「そうか……うまくやれよ?」


 クリスティーナは微笑み、小さく手を振る。

 誰かと自分たち姉弟のような仲になる前に手を打つために、彼はどこかへ行こうとしているのは分かった。相手が誰であれ、自分の言葉が彼にそういう気持ちを掘り起こさせたのなら嬉しい。彼には自分と同じ過ちを犯してほしくなかったから――。


「ありがとう、ティー」


 カジも軽く手を振り返すと、颯爽と部屋を出ていった。

 風の音さえ聞こえない静かな夜。クリスティーナはぼんやりと窓からの景色を眺めていた。


「私も、書いてみるか」


 クリスティーナは窓際に置かれたライティングビューロに向かうと、ペンを手に取った。手紙の宛名はジュリウスとした。

 あのとき、無視してしまった手紙の返事。ペンはすらすらとは進まなかったが、当時考えていたことを全て吐き出す。

 破り捨てられてもいい。共感してもらえなくてもいい。

 ただ、彼に自分の言葉をぶつけたかった。


 誰かを仲を取り戻そうとするカジの姿に、手紙を送る背中を押されたような気がした。





     * * *


 その頃、カジは巨大な邸宅の前に立っていた。カジの屋敷よりも大きな家。まるで公園のような巨大な庭が広がり、隅々まで手入れがされている。

 敷地は強固な結界によって侵入者を阻んでいるが、カジはその解除コードを知っていた。

 多くの魔族が崇める神をモチーフとした像が並ぶ廊下を抜け、寝室らしき部屋の前で足を止める。カジは軽くノックをすると、中で気配が動くのを待った。


「久しぶりだな、アルティナ」


 ここは現魔王アルティナの家だ。

 クリスティーナを奪われた怒りのあまり、危うく彼女を犯しかけた。あれから彼女と話し合う機会もなく、そのまま生活を続けていた。

 アルティナの名を聞くたびに心の中でモヤモヤが膨らみ、胸が締め付けられた気分になる。


 魔族の魔力感知能力なら、扉越しでも相手が誰なのかは大体分かるはずだ。アルティナもカジの存在を感じているだろう。


「あのときのこと、悪かったと思ってる。ずっと自分のしたことから逃げてきてすまない……どう話しかけたら良いのか、分からなくて……」

「……」

「謝りたいんだ。このまま、うやむやにしたくなくて……」

「……」


 なかなかアルティナからの反応がなく、カジは溜め息を吐いた。彼女が扉の前に立っていることは分かるのだが、そこから動きがない。


 やはり、そう簡単に仲直りはできないか。

 カジは扉に寄りかかるようにして、部屋の前に座り込む。


「お前が人間族への対策で焦っていたのは分かるよ。『あのマクスウェルの孫だ』とか期待されてたのに、獅子鬼オーガに攻め込まれて、大変だったよな?」

「……」

「どうにかクリスティーナも無事に戻ってきた。だから、アイツのことも俺のことも心配しなくていい」

「……」

「そうだ。できたら今度、一緒に甘いものでも食べに行かないか? 昔みたいに……」

「……」

「昔はよくお前に連れ回されたよな。街で美味しそうなものを見かけると、お前は泣き叫んだり座り込んだりして、それを食べるまで動かなかった」

「……」

「大変だったんだぞ、あの頃は。でも、今となってはいい思い出だけどな」


 昔、孤児だったカジはこの家に引き取られ、アルティナの面倒を見る役目を押し付けられた。そのため彼女とは家族同然の仲であり、成長過程をずっと見ている。

 手間のかかる娘だったが、それだけ思い出も多い。例え辛い出来事があっても、アルティナとの関係をキッパリ切り捨てることはできなかった。


「カジ……?」


 ようやく扉の向こうから、か細い声が返ってきた。話し合いに応じてくれたことに歓喜しつつも、カジは穏やかなトーンを保ち続ける。


「どうした、アルティナ?」

「本当は、お主に沢山わがままを言って、両親の代わりに自分が愛されていることを、確認したかったのじゃ……」

「ああ……」

「ずっと、両親のいる家庭が羨ましいと思ってたのじゃ。でも、儂にはそれがない。だから、その欲求をお主にぶつけた――」


 そういうことだったのか、とカジは肩を撫で下ろした。


 カジもアルティナの両親について、マクスウェルから聞いたことがある。父親は特定できておらず、母親はアルティナを産むと同時に亡くなった、と。そのため、マクスウェルもアルティナが赤子の頃は育てるのに苦労したらしい。

 その苦労が、自分に回ってきていたという訳か。


「寂しかったんだな、お前も……」

「そうじゃな。儂もお主が恋しい……儂が魔王を上手くやれば、皆に認めてもらえると思っていたのに、なかなか思い通りにはいなかいのぅ……すまない、カジ」


 アルティナも扉に寄りかかり、そこへ座り込んだ。

 孤児だったカジも、両親がいないアルティナも、心の拠り所が欲しかった。王として認められれば、きっとそこが自分の居場所になる――そんなことを二人とも心のどこかで思っていた。


「ところで、さっきの話じゃが……?」

「さっきの話?」

「必ず、必ず儂に、甘いものを食べに連れて行くのじゃ!」

「ああ。分かった。約束だ」

「忘れるでないぞ!」


 少しだけ、仲直りの兆しが見えただろうか。

 アルティナを満足させるプランを考えなければ。馴染みの店に行こうか、それとも話題の新しい店に行こうか。

 カジは立ち上がり、クリスティーナの待つ自宅へ戻っていった。





     * * *


 その翌朝、アルティナは魔王城に笑顔で現れた。多くの秘書官に迎えられ、執務室へ歩いていく。


「アルティナ様、お仕事に復帰されるのですね」

「そうじゃ! 長いこと休んでおったからのぅ。溜まった仕事を片付けねばならんわい!」


 アルティナは一人執務室にこもると、目の前の書類の消化に取り掛かった。面倒くさく終わりの見えない仕事だが、またカジが外食に連れて行ってくれる約束を思い出すと気力が湧いてくる。「スイーツに釣られてしまったな」とは思いつつも、体は幼い頃の思い出をしっかりと覚えているのだ。


「久しぶりじゃのぅ、アヤツとの食事は……」


 そのとき、部屋のドアが静かに開く。どこか殺意にも似た暴力的な気配が向けられているのを感じ、アルティナは恐る恐る顔を上げた。


「お久しぶりですね、アルティナ様……」


 そこに現れたのは、行方不明になっていた森人エルフ――ユーリングだった。

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