第138話 不安定な先輩

 カジが自分の屋敷に帰って来たのは、その日の深夜のことだった。

 馬車から降り、フラフラと安定しない足取りの彼を、ラフィルが横で支えながら屋敷の玄関へ向かっていく。


「先輩、家に着きましたよ」

「あぁ……」

「しっかりしてください」


 ラフィルがドアの取手を掴むよりも先に、扉が内側から開かれる。玄関でカジの帰りを待っていたシェナミィが表に停まった馬車に気付き、出迎えてくれたのだ。


「カジ、それにラフィルも……どうしたの、大丈夫?」

「すまない、先輩を寝室まで連れて行きたいんだ。手を貸してくれ」

「うん……」


 シェナミィとラフィルはカジの両肩を組み、階段を上がって行く。

 こんなにぐったりとするカジを、シェナミィは初めて見た。

 二人でカジをベッドに寝かせると、彼はすぐに蹲り、何も喋らなくなった。


 クリスティーナを連れ戻しにユーリングの工房へ行ったはずのカジが、今はこんな状態で帰宅した。クリスティーナの姿がないところを見ると、何か問題が発生したのだろう。


「あの、ラフィル……クリスティーナさんは?」

「今もユーリングのところにいるんだろうな」

「クリスティーナさんは、今どうなっているの?」

「分からない。だが、あまり良い状況でないのは確実だな」


 魔王城の執務室にカジが現れたとき、『クリスティーナがされていることと同じことをしてやる』と叫び、それからアルティナを犯そうとした。その言動から察するに、彼はクリスティーナとユーリングが肉体を重ねている場面を目撃したのだろう。


「カジに何があったの?」

「それは……」


 ラフィルは言葉に詰まった。

 先輩の名誉を保つためにも、正直に言わない方が良いだろう。


「言えないことなら、言わなくても大丈夫だよ」

「すまないな……ご覧の通り、今の先輩は普段通り会話できる状態じゃない。今夜は先輩のことを頼む。何かあったら、すぐ俺に連絡してくれ」

「分かった」

「お前なら、先輩を立ち直らせることができるような気がするんだ」


 ラフィルはそう言い残すと、馬車に乗り込んで去っていく。

 カジを立ち直らせてくれるという妙な期待を寄せられてしまい、シェナミィは少し困惑していた。カジとの付き合いはラフィルの方が長いだろうに。


「カジ、教えてよ。クリスティーナさんに何があったの? ユーリングのところで何があったの?」

「……言いたくない」


 シェナミィはベッドの近くに立ち、カジの体を揺するも、彼は起きない。

 正攻法で聞き出すのは無理そうだ。こうなったら、遠回しに聞き出すしかない。


「そう言えば、夕食は食べて来た? まだ食べてないなら、私が作ってあげる」

「食欲がない」

「そうだ! もうお風呂に入った? お湯に浸かって綺麗さっぱり――」

「別にいい」

「お酒! 色々あったときは、お酒を飲むのが一番!」

「俺、下戸だから……」

「ああもう! 面倒くさい!」


 シェナミィはグシャグシャと頭を掻くと、カジの隣に寝転んだ。背後から彼の肩に手を回し、力一杯に抱き付く。


「覚えてる、カジ? 昔さ、私が落ち込んでいたとき、こうやって抱き締めてくれたよね?」

「ああ……」

「もしカジが落ち込むことがあったら、私からもこうやって励ましてあげたいな、って思ってた」


 ギルダが街を襲った後、深夜の小屋で、カジは彼女を背後から毛布で包み込んだ記憶がある。今はその立場が逆だ。細い腕と柔らかい胸が、カジをぎゅうぎゅうと押してくる。


 彼女の体は、こんなに温かっただろうか。

 雨で冷え切ったカジの体は、彼女の温もりをより熱く感じ取っていた。

 シェナミィがこんなにも心配してくれているのに、それに応えられない自分が情けなく思えてくる。


「俺のことなんか、別に励まそうとしなくていいんだぞ?」

「励まそうとしているのが分かってるなら、少しはそれに応えてよね」

「簡単に立ち直れたら苦労しないよ。だが、これは俺だけの問題じゃない」

「クリスティーナさんを救いたいのは、私も一緒なんだけど。もしカジがこのまま不貞寝するつもりなら、私だけでユーリングのところに殴り込みに行くからね」

「ったく、お前はいつも無茶なことを言う……」


 カジは彼女の言葉に呆れながらも、振り向いてぎこちない笑顔を見せた。





     * * *


 一方、ユーリングの工房では、長かった魔力融合に一区切りついていた。

 薄暗い部屋の中、クリスティーナの荒い吐息が聞こえる。

 ユーリングは抱き合っていた彼女をベッドの上に離し、一人立ち上がって畳んであった服を纏った。


「ひぎぃ……!」

「ようやく種子が完成したな」


 へその上に浮かび上がった魔法陣。クリスティーナの魔力を極限まで濃縮した種子が、彼女の体内から押し出されるようにして魔法陣からポロリとシーツの上に落ちた。ユーリングはそれを満足そうな笑みを浮かべながら拾い上げると、種子内の魔力を安定させるために小さなカプセルへと収納する。


「それにしても凄まじい魔力だな。普通のギフテッドの十数倍の魔力放出量がある上に、ここまでほとんど魔力切れを起こさない。これは僕の作業も捗るというものだ」

「いっ……ぎっ……」


 クリスティーナはあまりの刺激に気を失っていた。白目を剥き、口からは泡を吹く。時折、体が痙攣し、死にかけた虫のように手足が動いていた。

 魔力を大量に奪われ、流石に彼女もこれには魔力切れ寸前だった。


「この魔力と僕の術が合わされば、王都も一気に陥落させられる……か。皮肉なものだ。王国を滅ぼすために、王族の力を借りねばならんとは」


 今回作った種子は以前ユーリングが人間族の農村に使用した種子の改良版だ。従来の種子に込められた魔力は、量が少なく質も悪かったために、育った森林はすぐに枯れてしまった。

 だが、今回の種子は魔力量も多く、短期間で一気に搾り取った新鮮な魔力を使用しているため、かなり生き生きとした森林を形成することが期待できる。


 しかし、王国の領土は広い。王国を完全に滅ぼすには、今手元にある種子だけでは不十分だ。

 クリスティーナとの魔力融合を何度も繰り返し、大量生産しなければならない。その件についてはすでにアルティナに予算の増額を頼み、効率化するための資材や設備の発注は済ませておいた。今後はペースを上げて種子を生産できるだろう。


「しかし、流石に僕も疲れたな……」


 長時間同じ姿勢で魔力の調整に神経を尖らせるのは、ユーリングにとっても苦痛だった。これからすぐに休みたい。彼は大きく欠伸をした。

 周辺を見渡すと、ベッドや実験器具がクリスティーナの体液で汚れていた。それらを見てユーリングは舌打ちをする。今からこれを綺麗に洗うのは面倒だ。


「ほら、出番だよ。アリサ」

「……」


 ユーリングの呼び出しに応じ、奴隷首輪を着けた女性――アリサが廊下から姿を現した。


「この雌猿の出した汚物を掃除してもらおうか」

「クリスティーナ……」


 誇り高い剣士だった頃の欠片もない彼女の姿に、アリサは愕然としていた。自分が何者なのかも忘れ、偽りの愛を植え付けられ、その挙げ句交尾に夢中になり、いいように扱われている。哀れなこと、この上なかった。


「聞こえる? クリスティーナ!」

「ギッ……イッ……グッ」

「思い出してよ! アタシのこととか、あなたが王女だったこととか!」


 記憶を持ったまま苦痛に耐える自分と、偽りの記憶で苦痛を快楽に代えた彼女。対照的だが、一体どちらが残酷なことをされているのだろうか。彼女のように記憶を消してしまえば、楽になれるのだろうか。


「困るな、余計なことを吹き込んでもらっちゃ」


 突然アリサの首輪が締まり、呼吸ができなくなった。


「カッ……ハアッ、ハアッ!」

「君は命も記憶も失うのは惜しいだろう?」


 木の根のような形をしたユーリングの魔槍――その先端が触手のように動き、鞭で打つ如くアリサを叩き付けた。バチンバチンと、鋭い音が鳴り響く。アリサの白い肌には一瞬にして何本もの赤い線が浮かび上がり、微かに血が滲んだ。


「あっ……はっ……!」

「それとも、君の故郷にはまだご両親が生きていて、大事な一人娘の帰りを待っているという記憶でも植え付けてあげようか?」

「よくも、そんな残酷なことを……!」

「分かったら、そこに散らかる汚物を拭くなり舐めるなりして綺麗にしたまえ」

「こんなの舐めるわけないでしょ……!」


 アリサは傷跡を軽く摩ると、ベッドや魔法陣の汚れを片付け始めた。

 この首輪が有る限り、この工房を抜け出すことはできない。逃亡の鍵となるクリスティーナに、何とかして記憶を取り戻してもらうしかなかった。

 絶対にここを抜けて、故郷を奪った亜人種ダイロンと、この森人に復讐する。そのためには、この命と記憶は絶対に失くすことはできない。アリサの目がギラリとクリスティーナを睨んだ。

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