第5話 捨て猫を拾う

 そいつは、陰潜虎トリスティスと呼ばれる大型モンスターだった。この森林に潜む最強の獣である。

 足裏の肉球で足音を消すことに優れたモンスターで、獲物に気付かれぬまま一気に死角から狩ることで知られている。漆黒の毛並みは環境によって色が変化し、自分を周囲の景色に溶け込ませる。卓越した聴覚で敵の位置を探り出して襲う、森林生態系の頂点に君臨するハンター。


「面倒なヤツに出会ったな」

「えっ……ぐぇっ!」


 カジは戦闘態勢へ移行するため、脇に抱えていた女冒険者と狙撃銃をその辺に投げ捨てた。

 そのまま彼女が逃亡してしまうかもしれないが、今は仕方ない。女を抱えたままだと逃げ切るのも難しいし、迎撃もままならない。自分の身を守ることが最優先だ。


 魔獣の視線はキッチリとカジに刺さっている。大きな鼻でスンスンと彼の匂いを嗅ぎ、飛び掛かるタイミングを窺いながら徐々に距離を詰めてくる。


「グオオオオオオオオッ!」


 地を揺るがすような咆哮とともに、前脚の爪が振り下ろされた。

 カジはそれを後ろに飛んで避けると、爪は地面へ深く突き刺さった。鎌のように巨大で切れ味の優れた爪は、硬い岩石をも簡単に裂く。


「グルルルァ!」


 敵は間髪容れずに、次々と俺に向かって爪を下ろす。その度に地面に何本もの爪痕が残っていった。爪が横へ薙ぎ、巨木の幹も一瞬にして倒される。巨躯に似合わず素早く、獲物を逃がさんと執拗にカジを追いかけ続けた。


「今度はこっちからやらせてもらう」


 カジは瞬時に重い一撃を爪に当てて軌道を逸らすと、その隙を突いて魔獣の頭部に渾身の力を込めた拳を食らわせた。強靭な牙が折れ、敵は血を流しながら吹き飛ぶ。


「襲う相手が悪かったな」


 この陰潜虎は、カジが魔王になる前、何度か遭遇したことのあるモンスターだった。


 陰潜虎はしばらくビクビクと痙攣しながら落ち葉の上に横たわっていたが、やがて動きは止まり、白目を剥いて動かなくなった。


「全く、さっきから邪魔ばかり――」

「グルルァッ!」


 その瞬間、カジは背後から迫る強烈な殺気に気付いて振り向いた。


「チッ、もう一体いたか」


 この陰潜虎トリスティスつがいだったのだ。カジが一体に気を取られている間に、もう一体が死角から狩るという算段だった。

 仲間を倒された憤怒からか、もう一体の敵は倒した個体よりも凄まじい剣幕をカジに見せつける。目が充血し、牙が大きく剥かれていた。


「獣風情が……!」

「グオオオオッ!」


 大気を震わせるほどの咆哮に、カジも肌にビリビリと痛みを感じた。

 長い魔王任期を終えてからの初仕事。兵士として前線にいた頃の感覚をまだ取り戻していないのか、カジは自分の動きに鈍さを覚えていた。

 昔の自分なら、もっと迅速に対処できていただろうに。

 今の自分では、どうも苦戦を強いられる。


 そのとき――。


「伏せて!」


 そんな女の声と同時に、カジの背後から爆発音が轟いた。

 陰潜虎トリスティスの右目に小さな穴が開き、血飛沫が噴出する。


「グオオオオオオオッ!」


 右目の視力を失った痛みに巨大な獣は悶え苦しみ、再び大きな咆哮を上げた。バタバタと地面を転げ回り、巨木に体をぶつけていく。頭上から大量の木葉がパラパラと降り、その衝撃の強さを物語っていた。


「今のは……!」


 間違いなく、さっきのはあの女の狙撃だった。

 カジが声のした方向へ振り向くと、そこにはスコープを覗き込みながら銃を構える彼女の姿が見える。


 カジが先程加えた攻撃の痛みがまだ残っていて走れなかったのだろうか。彼女がいる場所はここからそんなに遠くない。彼女の表情には痛みを堪えているような苦しさが窺える。

 逃げることに集中していれば、カジをおとりにしてもっと遠くまで行けたはずだ。それなのに、なぜまだ近くに留まっているのか。カジには疑問だった。


「お前、俺を助けたつもりか!」

「……」


 彼女は答えない。スコープ越しに獣を見つめ、次の魔力弾を装填する。


「グルルルゥ!」

「もう復活しやがったか」


 やがて陰潜虎トリスティスが痛みを堪えられるようになる。ヤツの残った左目は女勇者を捉えていた。完全に狙いを俺から彼女に変え、一気に高く跳躍すると女へ飛び掛かった。


「あがぁっ!」

「グルルルァ!」


 ほんの一瞬の出来事に、女冒険者は身構えることもできずに敵の牙を胴体に受け入れてしまう。鋭利な牙の先端は彼女の背中に深々と突き刺さり、胸部へと貫通していた。


「ゲホッ! ゲホッ!」

「さっさと逃げないからだ、馬鹿が」


 陰潜虎は彼女を咥えたまま激しく頭部を振り、傷口を広げようとしていた。その動きに合わせて、鮮血が噴水のように飛び散る。カジの頬にも、ピチャリと温かい雫が当たった。


「ったく……!」


 冒険者を貪るのに夢中になっている陰潜虎トリスティスに向けて、カジは渾身の蹴りを食らわせた。

 攻撃は虎の腹に命中し、その衝撃によって牙から冒険者がようやく解放される。彼女は地面へ叩き付けられ、地面へ転がり、仰向けになって止まった。


 一方、虎は蹴りで内蔵を大きく損傷し、その場に蹲ると、先程殺した個体と同じ運命を辿った。


 こうして、ようやく森林に静寂が戻る。


 カジは周辺を見渡して他にモンスターがいないことを確認すると、血だらけで寝転ぶ冒険者に近づいた。彼女のすぐ傍に立ち、意識が朦朧としている表情を見下ろす。


「おい」

「……」

「どうして俺を助けた?」


 女は答えない。代わりに血の混じった息が口から漏れるだけだ。胸にポッカリ大きな穴が開き、肺にダメージを負っているのだろう。


「そのまま逃げていれば、そんな傷を負わずに済んだだろうに」

「……」

「冒険者としての生命力がなければ、即死していたぞ」


 ギリギリのところで彼女は命を取り留めたが、このまま長時間放置すれば確実に死ぬ。この女の命も長くはないと、カジには分かっていた。


「それでも、もうすぐお前は死ぬ」

「……」

「誰も手当てしなければ、の話だが」


 ただし、今すぐ応急措置を施せば延命できるかもしれない。完治まではいかなくても、本格的な治療を行うための時間は稼げるはず。

 ふと、カジの頭にそんな考えが過った。


 しかし彼女は人間族であり、魔族の敵だ。

 彼女には仕事を妨害させられた屈辱があるし、さっき会ったばかりで大した義理もない。

 それに、手持ちの回復薬で完治できるような傷でもないし、彼女を治すとなれば街で薬の買い出しが必要になる。


 ここは見捨てよう。

 例え彼女の命が失われたとしても、自分に大きな損失はない。救おうとすれば手間隙がかかる。

 放置するのが一番合理的だ。


「もうお前みたいな面倒くさいヤツとは関わりたくねぇんだ。そもそも、冒険者は皆殺しにする予定だったしな」

「……」

「じゃあな」


 彼女は生気を失いつつある虚ろな瞳で、カジの顔をじっと見ていた。血だらけで表情は読めないが、どこか微笑んでいるようにも感じる。


「何を笑っているんだ」

「……」

「お前は。俺の命が助かったことを喜んでいるのか」


 カジは踵を返して歩き出した。


 別にこれでいいのだ。

 人間は魔族の敵。彼らの命を救おうだなんて馬鹿げている。敵が一人消えてラッキーではないか。自ら戦闘に介入しておきながら自分の身を自分で守れなかった自業自得だ。後は森のモンスターが彼女の肉を食い散らかし、土へ還っていくことだろう。


 自分は当初の討伐計画に戻り、冒険者の殺害を実行していく。これからはあの女の邪魔が消え、思うように実力を発揮できるはず。


 心の中でカジは理由をいくつも挙げ、自分を納得させようと試みる。


 しかし――。


「何なんだよ……!」


 彼女から離れようとする足は止まり、カジはそこから進めなくなった。

 そして、なぜか彼女の元へ戻りたいという気持ちに駆られてくる。


「ああ、もう! 馬鹿なのか俺は!」


 自分は冒険者を殺しに来たんだぞ!

 分かっているのか?

 命を張って加勢してくれたことが、そんなに嬉しかったのか?


 カジは「珍しい冒険者だから生かしたまま研究すれば価値になるはずだ」という適当な理由を脳内に掲げ、駆け足で女のところへ戻っていく。


「ったく、おい! 起きていろ!」

「……」


 彼女は目を閉じ、もがくこともなく静かに死を待っていた。失血が激しく、意識を保つのが困難になったのだろう。

 カジはコートのポケットから止血用魔法薬を取り出して傷口に振り掛けると、今度は包帯で穴を塞いでいく。


 カジはそんなことを日が暮れるまで続けた。

 彼女は一命を取り留めたが、ずっと意識は失ったままだった。

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