五感恋愛

たかた ちひろ

第1話

「別れよう」

それは私、十亀摩耶にとってまさに青天の霹靂だった。いざ言われるまで、全く思ってもみなかったし、言われた今でさえその意味するところが分からないでいる。

いつもと同じような、なんの変哲もないデート後のことだった。大きく変わったことはしていない。せいぜいあるといえば、ショッピングモールで買い物をしたあと、いつもは行かない沖縄料理屋に行ったこと。そこで、豚足揚げや海ぶどうを肴に、一杯だけの苦いハブ酒を飲んだ。ただそれだけ。

そのあとのことも私は考えていたのだけれど、彼が「明日は月曜日だから」と言うから、その言葉どおり少し早く帰ることにして、駅まで見送りにきた。

そうしたら、この仕打ちである。

「……なんの冗談?」

「本気だよ。じゃあ、そういうことだから。ごめん」

「ちょっと」

彼は狼狽える私を置いて、早足で改札の奥へ去っていく。私は思わず手を伸ばしかけて、思い直して引っ込めた。大きなターミナル駅だ、始終を見ている人もいるかもしれなかった。だとすれば、その目に映る私はあまりに惨めで未練がましい。

ため息一つ。せめて何事もなかったように、と気取って自らの乗る電車の方へ歩き出す。六月も後半、既に熱帯夜続きのこの頃なのに、今日ばかりは肌を撫でる夜風が冷たく思えた。煮え返るように熱いのは、頭の中だけだ。

お酒のせいではないのは明白だった。なにが原因だろう、なにかしたかしらとはっきり答えの出ない逡巡を繰り返すせい。不思議なことに、悲しいというほどの感情は沸いていなかった。目頭は乾いたままで、夜風と同じだけ冷めきっていた。明日からまた仕事が始まるというのに、最後になんてことしてくれたのだろう。そんなことを恨めしく思う気持ちの方が大きかった。

きっと恋心自体はとっくに冷めていたのだ、実際のところ。遅かれ早かれ、いつかはこうなる定めだった。

そう自分に言い聞かせて、宥めすかす。けれど、喪失感や後ろ髪を引かれる気持ちはやはりあって。出来るなら、今しがた「彼」ではなくなった男への恨みつらみをこの都会のど真ん中で叫んでやりたい。

今度はよく耐えている、と思っていた矢先だった。表立った揉め事には発展しないよう努めてきたし、その甲斐あって先月の末には付き合って丸四年を迎えていた。これは私の中ではもっとも長い。それが、たった一言であっさり切り捨て御免。文句の一つや二つ言いたくもなる。

気づけば、改札のすぐ手前まで来ていた。考えてみたところで時間も関係も戻りはしない。残額数百円のICカードをかざして改札を通り、ちょうど発車メロディの鳴る電車に走って飛び乗った。

もう三十路をすぐそこに見据えている、少し急いだだけで息切れがひどい。それでも、たいていは一駅もあれば治るのだけど、今日は勝手が違った。いくら景色が流れても、胸はハブがのたうち回るように跳ねて、手足はその毒が回ったようにわななく。飲まれた恨みを、胃の中でまで晴らそうとしているのだろうか。抑えようとすればするほど、その蛇は全身の筋肉を強張らせて抵抗した。震える手を見てみると、驚くほど血の気が失われて真っ白だった。

なんとか紛らわすため、私はスマートフォンを取り出す。何気なく開いたのは、野球の速報。贔屓にしている埼玉西武は千葉ロッテ相手に大敗していた。恋が終わる時はいつもそうだ、ライオンズも同調したかのように負ける。

詳細を見る気もなくなったので、代わりにとSNSを開く。こんな時はひとまず不特定の誰かへ向けて近況報告だ。それで落ち着くこともあるかもしれない。とはいえ、もうこの歳、直接的に書くのは幼稚な気がして躊躇われた。ちょっと考えて、私は画面をフリックして打ち込む。

『今度こそ苗字変わると思ってたんだけどなぁ~』 『またライオンズ負けてる~』

と連続で二つ。伸ばし記号は深刻と思われないための緩衝材である。

反応はすぐにあった。昔からの友人たちが数人『どうしたの?』『なにかあった?』とコメントをくれる。そのままSNSで言うわけにもいかないので、次はメッセージアプリに移って、一人ひとりに『彼氏と別れた』と送っていく。その文面を見て、ようやく振られたという事実がたしかな感触で持って降りてきた。

ありがたいことに絶え間なく来たメッセージの返信をしているうちに、家に着く。月曜日まで残りあと二時間、仕事の始業時間までも半日を切っていた。寝なければとは思うのだけど、家に帰っても全く鼓動が落ち着かなかった。気休めにならないかとシャワーを浴びてもそれは同じ事だった。

こんな時の「追い」アルコールだ、たかがハブ酒一杯ではとてもじゃないが酔えない。部屋を暗くして、テレビを明かりの代わりにする。これまで棚に飾っていた、木箱包装の日本酒を開けるなら今日みたいな日に限る。たしか去年、友人の結婚式で頂いたお高い代物だ。栓を開けたら、銘柄も濁りも見ないまま直に呑む。再び遠ざかった私の結婚式からをも、目を逸らしやり過ごすつもりで。

いつになったら、綺麗な花嫁になれるのだろうか。ふと、こんな恋愛ばかりしていては、いつまで経ってもその日はやってこない気がした。


私の恋愛は、人に話せば、ほとんど全員が「難アリ」と口を揃える。私としてはそんな自覚はなくて、ただ普通に恋をしてきただけなのだけど。

私の恋は全て「五感」に集約されるのだ。そのまま視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。どれか一つでも飛び抜けていいところがあったら、すぐに人を好きになる。

最初の彼氏は、視覚から。ルックスがずば抜けて格好よくて、街で見かけた時にピンときた。一目惚れでその場で声をかけ猛アタックして、無事に付き合うこととなった。その時、私が高校生で、彼はフリーター・二十六歳。初彼氏が嬉しくて、私は舞い上がり興奮気味に友達に話したけれど、誰もまともに取り合ってはくれなかった。一番の親友たちでさえ口を開けば、忠告ばかり。実際、その忠告は当たっていた。長くは持たなくて、一ヶ月で別れた。部屋に連れ込まれた時の、欲に血走った顔が醜くて耐えられなかった。

二番目は、聴覚。大学の時、英語を話せるようになりたいと思って、英会話レッスンの体験に行った。そこで講師をしていた外国人に恋をした。名前は、ジョンソン。渋い声で、拙い日本語を話すのが私の好みの隙間を突いてきた。続いた期間は少し伸びて二ヶ月。行為に及んだ時に、英語で喘ぐのが生理的に受け付けなかった。その英会話教室も二ヶ月でやめた、もちろん今も英語は話せない。

その次は、触覚。これが最も酷い、と友達全員から大不評を買った。社会人になって一年目、運動不足解消のためと通い出したジムでふた回り近く年上のおじさまに恋をした。タンクトップ一枚で、ダンベルをあげていた右腕に触れさせてもらった瞬間だった。これは、三ヶ月後に不倫であったことが判明して別れた。今冷静に考えれば、最初から分かりそうなことなのに、その時はどうも判断力が鈍っていた。

さらに続くは、味覚。たまたま飲みに出かけた、個人居酒屋の若い店主に惚れた。もつ煮込み丼の味に一口でノックアウト。これは一年保ったけれど、五股をかけられていたことが分かって別れた。「お前なんか五本指で言ったら、小指だから」とは、そいつの最後の言葉だ。

そして、今日終わった恋が嗅覚からだった。元はといえば数ヶ月に一度通っていた整体の術師さんだった。いい匂いを身体全体に漂わせていた、それも変にフレグランスや柔軟剤ではなく自然と甘い香り。たった一回、整体をしてもらっただけで好きになった。毎週のように通い詰めて、ついに籠絡した。以来どれだけ腹が立つことがあっても、その匂いを嗅いだら許せてしまって、今日までやってきた。

そういえば、もうその整体にもいけなくなってしまう。次はどこにしようか。


どうしても「感覚」だけで恋愛をしてしまう。私にとって恋愛とは、携帯を見ながら歩いていたら不意に見知らぬ脇道に迷い込んでしまったように予期せず訪れるものだ。しかし反面、真ん中の恋路を大手を振って歩きたい気持ちは人並みかそれ以上にあった。そんな題材の青春物語や小説を何篇も読むほどには憧れている。

だのに、いざ「感覚」を前にすると、いともあっさりその憧れは立ち消える。私は、また横へと逸れていく。

ただそろそろ次の段階へ行くべき頃合、いわば恋の踊り場を迎えているのかもしれない。そこで催されるのは、楽しい街中ダンスパーティではなく、真剣に結婚相手を探す求愛ダンスだ。

少し酔いが回っている程度では、むしろ頭が回転していけない。私は瓶を引っ掴んで喉奥へと酒を流し込んだ。

携帯電話が暗闇に通知で光るのを見て、思い出したように開いてみたらたくさんの連絡が入っていた。今度はたしかにアルコールのせいで震える手を動かして返信する。話の流れで、慰め会を開いてくれることにもなった。やはり持つべきは友達だと思った反面、少し悲しかったのは、反応をしてくれたのが最後まで女友達だけだったこと。

相談に乗るから久々に会おう、とかそんな展開にも少しは期待していたのに。

ただ、そんなことを考えられる時点で思ったより、私は平常運行だ。そういうことにしておいて、深夜の通販番組が始まったテレビを消したらそのまま横になって眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る