想。「河童」

皿なぞついていないけれど、わたしは河童のようなモノでして。と言ってもてんで意味が分からないか。説明を求められるなら答える所存。


三十一歳で合コンにもなかなかいけない年齢になってしまった。今勤めている中小企業に入りたての頃は、お局様に毎日説教をしていただきながら、仕事に恋に励む日々。


しかしいつの間にか、お局ポジションはわたしに変わってしまった。


知り合いに対して「いい人知らない?」と聞いてみても、なかなか良い返事は返ってこない。


帰る家には誰もおらず、片手には出来合いの惣菜と缶ビール、それと白飯が入っている。

スーツを脱ぎ、風呂に入る。風呂から上がってスエットに着替え、特に面白くも無いゴールデンタイムの番組を見ながら、ご飯を椅子に座り食べる。


そのとき、ふいに涙が止まらなくなることがある。気がついたらベッドの中でも泣いているときもある。


河童は皿の水が零れると、河童は憔悴してしまう。若しくは死んでしまう。


わたしも涙が枯れるころ死ぬのだろうか。親は孫を見せろとせびり、親戚は全員結婚して子供もいる。

嗚咽混じりの梅雨の夜、一睡もできないまま夜を寂しく過ごした。


次の日になり、クマができた状態で出勤する。ぺたんこのパンプスを履き、少しファンデーションを濃く塗って、クマをカモフラージュ……できているかは分からないが、それでも今日は平日なので、会社に行かねばならない。こういうとき、自営業の人間が酷く羨ましい。


曇天の空の下、住んでいるマンションの最寄り駅につき、人がひしめく中を歩く。わたしの歩調はいつもより早くて、苛立っているのが自分でも分かる。

そのイライラが沸点に達し、ふいに眠れることのできない夜を思い出し、目から熱い水がこぼれそうになった。


目頭が熱くなった瞬間、あともう少しで涙が垂れそうになったとき、一人の男性がわたしの足を踏んづけた。思いっきり。



「いったあ!」



わたしが奇声を発した瞬間に、数多の好奇の目がわたしへ集中する。


止めてください見ないでくださいそんな顔しないでください。わたしは河童じゃないのに、どうしてこんなに見られないといけないの?


その場でわたしは少しパニックになり、通行人も気にしないで座り込んでいると、足を踏んだ男性もパニックになり「あ、わわわっ!」とわたしの前で膝をついて慌てた様子で、「大丈夫ですか!?」と尋ねてきた。


手前ェのせいでこうなったんだろうが! と一発怒声をあげようかと思いきや、あらま、目の前の男は思ったより好青年ではないか。



「すみませんすみません。あの、どうしましょうか?」

「いや、どうしましょうって言われても……」

「パンプス、汚れましたよね。買いなおさないと」

「いや、あの。わたし急いでいるので」



と、立ち上がり踵を返して改札へ入ろうとすると、駅員のアナウンスが聞こえた。

『お客様に申し上げます。落雷による信号機の故障により、運転を上下線共に見合わせております。お客様に……』


急いてはことを仕損ずる。そんな言葉が脳裏に過ぎる。彼はまだその場から動いておらず、わたしのことをぽかんと見ていた。その抜けている感じが気に入った。



「パンプス買うより、喉が渇いたわ。喫茶店に行って飲み物おごってよ」



男はまだ呆けていた。言葉が脳に伝達するまでラグがあり、到達すると「え、あ! はい、よろこんでー!」と言った。

この人なら、もしかしてなってくれそうな気がする。わたしの流れる涙を受け止めて、決して水が枯れないようにしてくれる受け皿のような人に。


曇天の雲間から、スポットライトめいた光が漏れている。

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