決意の代償②

 ○ ◎ ●



 ”兎と人参亭ラビット・アンド・キャロット”前の海辺の歩道には、既に手掛かりは残されていないように見えた。


 普段から人気ひとけなど殆ど無く、“兎と人参亭ラビット・アンド・キャロット”の営業時間も過ぎている今となっては、周囲に人影の類は全く見えない。無機質な白い光を落とす街灯が等間隔に並んでいるが、その光の下に見知った双子の姿は無かった。


「ヒナギク!」


 呼び掛けるシンの声は、自然と大きなものになっていた。


 聞こえて来る潮騒の音は、いっそ嫌味な程に穏やかだ。街灯の灯りでも照らしきれない海は夜の闇と完全に同化していて、見据える者を呑み込もうとポッカリ口を開けているようにも見える。


 仮にヒナギクとホタルがあの中に落ちてしまったとしたら、見付けられる可能性はかなり低いだろう。


「……ッ、ホタル!」


 寂れた歩道に、シンの叫び声は虚しく響くだけだった。


 右に進めば“複雑怪奇な港街ポート・エリア”。夜はまだ始まったばかりだと言わんばかりに煌々と灯りを灯し、働く人間や遊ぶ人間で溢れているに違いない。


「……」


 以前、ティセリアから対人恐怖症だと評されたあの双子が、そんな人気ひとけが溢れている場所へ自ら向かうとは考えにくい。だとすれば右の道は候補から除外し、さっさともう一つの道へ探しに行くのが正解だろう。


(……しかし、こっちは……)


 身体は迷わず、その場から飛び出していた。


 右の道とは正反対の、漆黒の闇へと続いていく道。


 何も無い訳ではなく、ただ建物のシルエット“だけ”が少し離れた所に見えている。


 詳しくは知らない。ただ、ティセリアやプリッシラとの会話の何処かで、チラリと聞いた覚えがある。


 既に街の一部として機能していない、近代の古い街並みだけが残された小規模な区画。一本の大通りを中心に、全部で三層から成るその区画は、嘗ては再開発の話も出ていたらしいのだが、今ではどういう理由からか完全に放置されているのだと言う。


 通称“荒廃した無人街スラム・エリア”。黒い影の幽霊が住み着いていると噂される、人の子どころか猫の子一匹すら見掛けない場所だとの事だった。


「ったく、アイツら……!!」


 ロクに整備されていないのか、街灯の灯りが暗かったり付いてなかったりしている古い歩道は、全体的に暗い。行き先も真っ暗だし、普通の子供だったら恐ろしがるのではないだろうか。ヒナギクとホタルは本当にこの道を通っていったのだろうか。


 そもそも二人は、どうして部屋を抜け出したりしたのだろう。


 不安が思考を呼び、その思考がまた不安を呼ぶ。巡る思考で集中力は阻害されてしまい、その所為で一瞬、シンは“それ”に気付くのが遅れた。


「……ッ! お前ら!」


 居た。


 シンの前方、少し離れた所に立っている街灯。その足元に投げ落とされる光の円の中に、黒と白の衣の端が翻るのが確かに見えた。


 奇妙な紋様が刺繍された東洋風の私服ではなく、それらと色を合わせただけの質素な寝間着。いつもの裾がヒラヒラした服に比べれば、特徴が薄くて見落としがちだったが、それでも何とか見付ける事が出来た。


 寧ろ、問題だったのは──


「!?  おい、待て……!?」


 逃げられた。


 白黒の服、金と銀の髪が一瞬見えただけで、次の瞬間、彼女達はシンから離れるように闇の中へと飛び込んでいった。


(何でだ!?)


 逃げられる意味が分からない。


 最近の彼女達からは予想していなかった行動に、シンは硬直してしまう。


「……待て!」


 だが、ほんの僅かな間だけだ。


 気を取り直し、シンもまた彼女達を追って闇の中へ飛び込んで行く。二人に逃げられた理由は分からないが、とにかく彼女達を捕まえてみないと話にならない。


「ヒナギク! ホタル!」


 白と黒、光と闇が交互に並んでいる歩道。木霊するのはシンの叫び声と、その合間を縫う潮騒の音だけだ。


 真っ黒な廃虚に向かって走ってる所為だろうか。段々と現実味が薄れていっているような、此岸からどんどん外れていっているような、そんな感覚に襲われた。足の長さや回転速度で遥かに勝る筈のシンが、双子に中々追い付けなかったのも不可解だった。


 予想よりもずっと長く、シンは闇の中を走らされる羽目になった。


 漸く双子を捕捉出来たのは、廃虚街の入口へ足を踏み入れてしまった後の事である。


「……! 何やってんだお前ら!」


 体調が悪いクセに走ったりしたからだろう。廃虚の入口、古びたビルの残骸に挟まれている大通りの真ん中で、二人は力尽きたように蹲っていた。


 急いで駆け寄り、シンは二人を助け起こすべく彼女達の脇に膝を突く。熱に浮かされたような掠れた声が聞こえたのは、まさにその瞬間の事だった。


「……きちゃ……ダメ……」


「はぁ!?」


 こんな時に何を言っているのだろう。問答無用で手を伸ばし、シンは折り重なるように倒れていた二人の内の一人を助け起こす。


白服金髪。ヒナギクだ。


新雪のような白い肌に、奇妙な赤みが差しているのが夜目にも分かる。喘ぐような呼吸は荒く、抱き上げた細い身体は吃驚する程に熱い。苦痛を堪えるように双眸はギュッと閉じられており、それなのに喰い縛った歯の隙間からは、絞り出したような声が途切れ途切れに聞こえて来るのだ。


「……きちゃ、ダメ……こない、で……」


「もういい黙れ。詳しい事情は戻ってから聞く」


「……にげ、て……」


「いいから。大人しくしてろ」


「……。……おつきさま、が……」


 うっかり力を込めればへし折ってしまいそうな、華奢で小柄な身体。ホタルも一緒に抱き上げる為、恐々とヒナギクを抱え直していた最中に、シンは彼女が奇妙な言葉を呟くのが聞こえた。


 おつきさま。お月様?


 つられるように頭上を見上げれば、見事に真ん丸な輪郭を持つそれが、古い建物によって四角く切り取られている夜空の中に、ぽっかりと浮かんでいるのが見えた。


「……おつきさまが……まっかなの……」


「……あかい、あかい……おつきさま……」


「……あかい……あかい……」


「……あかい……あかい……」


 別に、月は赤くない。熱に浮かされて、彼女達には幻覚でも見えているのだろうか。


 ヒナギクの身体を片手で抱え、シンは空いたもう一方の腕でホタルを抱き起こす。多少負担を掛けてしまうかもしれないとは思ったが、とにかく一刻も早く“兎と人参亭ラビット・アンド・キャロット”へ戻るべきだと感じていた。とにかく彼女達の事が心配だし、捕獲に時間を掛け過ぎた。外に居ればそれだけ雷獅子やその仲間達に見つかる可能性は高くなるというのに、シンは声まで上げ続けたのだ。


 ここから先は、とにかく迅速に、目立たないように兎と人参亭ラビット・アンド・キャロットまで戻るべきである。多少動転しているシンにも、それくらいの事は分かる。


「……」


 けれど、何故だろう。


 何か、奇妙な感覚があったのだ。


 人形のようにダラリと力が抜けたホタルの身体。譫言のように紡がれるヒナギクの声。


 姿形はシンの知っている彼女達のものだが、放つ気配が何時もと違う。


 まるで彼女達の中身だけが、別の何かと入れ替わっているかのような。




「「──のどかわいたぁ」」




 ぶわ、と全身が総毛立つのをシンは感じた。


 腕の中の二人が、シンの顔を見上げて来たのだ。彼女達に共通する紅い目が、月の光を反射してが爛々と輝いているのが見て取れる。熱に浮かされたようなトロリとした目付きなのに、その光に薄ら寒いものを感じてしまうのは何故だろう。


「……!?」


 どうかしている。どうしてシンが、この双子相手にそんな感情を抱かなくてはならないのだろう。


一旦目を閉じて、シンは纏わり付いて来る悪寒を振り切るように何度か頭を振った。その間にも二対の視線がジッと見上げて来ているのは感じていたが、それは敢えて気付かないフリをする。


「──ああ、いたいた」


 背後から柔らかい声が聞こえて来たのはその時だ。


 ハッとなってシンが背後を振り向くと、其処にはティセリアの姿があった。軽く息を乱しているので、もしかしたら走ってシンの後を追い掛けて来たのかもしれない。


 呼吸を整える為だろう。膝頭に掌を乗せ、体重を預けたまま二、三秒。顔に掛かった前髪をはねのけるように顔を上げ、彼女はいつも通りののんびりした調子で口を開いた。


「良かった。見つかったんだ」


「ああ」


 シンの背中によって遮られ、詳しい様子が確認出来ないのだろう。ティセリアが双子の様子について言及してくる気配は無い。


 どうしよう。伝えるべきだろうか?


 シンが迷っている間にも、双子はもそもそと動き続けている。シンの腕を這い上がるように身体を起こし、肩に頭を乗せるようにしながら鼻面を首筋に擦り付けて来る。


 甘えられている等といった呑気な考えを抱くには、その感覚は冷た過ぎた。双子の体温そのものは燃えているように熱いのに、背筋からは氷のような悪寒が這い登って来るのである。


「────」


「……シン?」


 口を開いても、肝心の言葉が出て来なかった。流石に異変を察知したらしく、ティスが怪訝そうな声を上げる。


 その間にも背筋から這い上がって来ていた悪寒が、やがて首筋に到達。擦り付けられる双子の熱と混ざり合い、溶け合い、そして──そして、破裂した。


「痛──!?」


 首筋に、ジクリと痛みが走るのを感じた。


 自身の身に何が起こったのか分からず、シンはただただ硬直する事しか出来ない。


 “噛みつかれた”。


 少し遅れて何が起こったか理解したシンの耳に、熱に浮かされたような、或いは酒に酔ったような、そんなとろけた声が這い登って来たのはその時だった。


「ふるえているの?」


「おびえているの?」


「トクトク、トクトクってなってるよ」


「ふるふる、ふるふるってなってるよ」


「「かわいい」」


 それはきっと、捕食者が獲物を愛でるようなものだったのだろう。


 その気になれば肌を突き破り、赤い血潮に濡れていたであろう彼女達の牙は、シンの肌の臨界を越える手前で引っ込められていた。やがて来るであろうその瞬間をより深く味わう為に、自らを焦らして楽しんでいるみたいに。


「……」


 心臓がドクドクと暴れている。頬や背中が冷や汗で濡れている。


 以前、ティセリアにされた事とは全く違う。此方は、本当の意味での”捕食”だ。双子を此処で放り出すべきなのか、グッと堪えて我慢すべきなのか、シンにはどのような行動を取るべきなのか分からない。


 いつもだったらさり気なく助言をくれるティセリアでさえ、状況が呑み込めていない所為か何も言わない。注目するように、或いは観察するように、シンの背中をジッと見つめているのが気配で分かった。


「はふ……」


 恍惚としたような双子の熱い息が首筋に掛かり、そして同時にシンの生存本能が最大限の警鐘を鳴らす。


 考えての行動ではない。気が付けば、シンの身体は勝手に動いていた。



「──あ……」



 夢から覚めたようなその声は、ヒナギクとホタルのどちらが洩らしたものだったのだろう。


 その声を聞きながらシンは素早く身体を捻り、双子をやや荒っぽく放り出していた。


「いた!?」


「きゃん!?」


 ティセリアの方へ投げ出された彼女達にはもう目もくれず、シンは代わりにそこらに放って置いたものに手を伸ばす。


 相も変わらず持ち歩いていた物。双子の代わりに、一旦この場に置いて行こうとした物。


 雷獅子とも一緒に戦ってくれた、愛用の倭刀である。


「──疾……ッ!!」


 一閃。


 夜の闇の中に火花が咲いて、金属が弾ける甲高い音がした。ビリビリと手首に返って来た衝撃は思った以上に大きく、シンは思わず顔を顰めてしまう。


 狙撃だ。


 弾丸が上空から襲い掛かって来た所から察するに、恐らく狙撃手はそこらの廃ビルの上にでも陣取っているのだろう。どの段階で嗅ぎ付けられたのかは分からないが、シンや双子の命を狙って来る連中と言えば一つしか心当たりが無い。


「──シャアッ!!」


 息も吐かせないタイミングだった。空気を引き裂くような殺意の声と共に、複数の殺気の塊がシンの間合いの中に飛び込んで来る。


 前、右、左。全部で三人。此方を包み込むような扇状の陣形だが、間合いに入って来るタイミングが微妙にずらされている為、一太刀で纏めて対処するといった事が出来なくなっている。


「……ふん」


 とは言え、この程度だったらまだ何とかなるだろう。


 最初の弾丸を弾いてから直ぐに鞘の中に納めていた倭刀の柄を握り直し、シンは下腹に意識を込める。肩から力を抜き、代わりに気を練り全身に充実させて、そしてそれが臨界に達した所で一気に解放する。


「──破!!」


 幾重にも重なった斬閃は、刃の色が貪欲に月の光を反射して、目に焼き付く程に紅かった。


 三つの短い悲鳴と共に黒っぽい液体がパッと弾けて、シンの顔面に遠慮する事無く降り掛かって来る。


 ……生臭い。


「下がれ!!  壁を背中に背負うんだ!! 囲まれてるぞ!!」


 刃を滑る血糊を振り払いつつ、シンは背後の三人に向かって怒鳴る。


「早く行け!!」


「二人共立って。シンの言う通りにしよう?」


「「……」」


 三人の気配が退いて行くのを感じる。シンの指示通り、壁際に寄って背後を取られるのを防いだようだ。すかさずシンもそれに続いて後退し、彼女達を庇う位置に陣取って、周囲に油断無く視線を走らせる。


 シンの仕事は、襲い掛かって来る脅威から彼女達を守る事。そして、隙を見つけ出して彼女達を逃がす事だ。


 難しい仕事になりそうだが、やらなければ彼女達が殺されてしまう。泣き言なんか言ってられなかった。


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