刹那の休息⑩

 ○ ◎ ●



 斧を振り下ろして薪を叩き割るのならば幾らか楽だ。


 刀を振り回して敵と戦うのも――それが良い事なのか悪い事なのかは別として――そんなに苦ではなかった。


 だが、“これ”は難しい。


 対象を常に捉え続ける集中力。対象をうっかり握り潰してしまわないような包容力。それから、腰に来る重圧に耐え続ける忍耐力。


「……あっ」


 手の中から、泡にまみれた皿が勢い良くすっぽ抜けていく瞬間をハッキリ知覚して、シンは心臓がキュッと音を立てて縮むのを感じた。その間に、皿は泡の尾の放物線を電灯の白い光にキラキラと輝かせながら、シンの頭上を飛び越えて行ってしまう。


「……っ」



 ──……彼は疲れていたのだ。来る日も来る日も熱い料理を被せられ、人間達の食事に付き合わされる。其処に尊厳プライドは許されず、ただ黙々と道具のように扱われるしかない。


 ならば、いっそ。


 それならば、いっそ。


 仲間達のように心まで人間の道具に成り下がるくらいであれば、この男の手の中から飛び出して、永遠の自由を手に入れてやる──!



「お?」


 軽く驚いたような声に、シンは我に返った。


 振り返った視界の先に、丁度室内に入って来たらしいティセリアが立っていた。軽く驚いた様子で目を見張り、自らの胸元に視線を落としている。質素なTシャツの生地を臨界寸前まで押し上げ、突っ張らせていたその場所の谷間には、泡だらけの皿が無遠慮に突き刺さっていた。


「セクハラかな?」


「……自由とは……」


「はい?」


「あ、いや、何でも」


 本気で気分を害した様子も無く、キョトンと首を傾げる彼女を見て、シンは慌てて口を噤む。自我を得た皿の決死行の物語——ではなく、美女の胸に埋もれに行ったエロ河童の物語など、話した所で誰も得しないだろう。


「大丈夫? ちょっと疲れてるんじゃない?」


「いや、別に。ただ、ずっとやってると腰に来るな、これ」


 ”これ”とは、皿洗いの事である。つまり、プリッシラが営む定食屋の下働きだった。ただで匿って貰っているのはやはり居心地が悪いので、せめてと思って始めたのがこの仕事なのだが、これが中々どうして難しい。


 一片の汚れも見逃してはならないのは勿論、割らないように気を遣わなければならないし、何より今言った通りに腰に来る。


 もう何度同じ事を考えたか分からないが、やはり外で斧や倭刀を振り回している方がまだ楽だ。


「シンは背が高いもんね。そういう時はこうやって──」


 隣にやって来たティセリアが、肩幅程度に足を開く。真似すればいいのかと直感し、何気無い気持ちで立ち方を変えれば、途端に腰の辺りに蹲っていた痛みが嘘のように消えて無くなった。


「……おお?」


「ね、楽になったでしょう?」


「ああ」


 驚くと言うよりは感心してしまった。視線に尊敬の念を込めると、彼女は何処か冗談めかした仕草で「どうだ」とばかりに胸を張って来る。


 そのまま彼女はズイと寄って来てシンに場所を詰めさせると、適当なスポンジを泡立て、山積みになっている未洗浄の皿をあれよあれよという間に洗い始めてしまった。追いやられてしまったシンは、必然的に泡を洗い流す係だ。正直、彼女のスピードに付いて行けるか今から不安である。


「あの二人だけど……」


 いやもう、スタートからしてシンとはまるで手際が違った。瞬く間に二枚、三枚と重ねられていく泡塗れの皿の処理に追われ、その所為でティセリアの言葉に対する反応が遅れてしまった。


「……ん? 何だって?」


「だから、あの二人だよ。ヒナギクとホタル」


「ああ……」


 チビ二人は熱を出した。今朝、まだ日も登っていないような時間の話である。


 シンがベッドで寝ていた所を誰かに起こされたかと思えば、ティセリアと一緒の寝室で寝ている筈の彼女達が其処に居た。


 何事かと聞けば、喉が渇いたと言う。


 ひょっとしてチビ達だけで暗い廊下を歩くのが怖いのかと思い、仕方無く下の厨房まで付いて行ってやったのだが、いざ水を与え始めると何時まで経っても満足する気配が無い。


 暫くするとお腹いっぱい、でも喉渇いた、等とよく分からない事を言い出して、その時になって漸くシンも二人の様子が変だという事に気付いた。何処かボンヤリした彼女達の額に触れると、これが燃えるように熱かった。


 丁度双子が居ない事に気付いて店内に降りてきたティセリアを捕まえ、状況を説明。


 相談の結果、双子は早急にベッドに戻される事になったのだった。


「体力が尽きたんだろうね。やっと眠ってくれたよ。暑がって全然眠ろうとしないからちょっと不安だったけど、取り敢えずは一段落……なのかな?」


「そうか。……すまんな、任せっきりで」


「ううん。こっちこそ今日一日お仕事任せっきりでごめんね。まだ慣れてないのに、大変だったでしょ?」


「いや、いい練習になった」


 症状としては熱と、それに伴う喉の渇きだ。昼間は日の光を嫌うようにコンコンと眠り続けていたが、日が沈んだ途端に目を覚まして喉が渇きを訴えて来る有り様だった。


 ティセリアは一切表に出さないが、きっと大変だったに違いない。本来ならシンが双子の面倒を見るのが筋だったのだろうが、「じゃあ実際、どうやれば良いのか分かってる?」と冷静に聞かれて大人しく引き下がる他無かった。今日一日、ティセリアが抜ける食堂の仕事の穴を出来る限りでカバーするのが、自分に出来る仕事だと思ったのである。


「……本当は、ちゃんとしたお医者さんに診せるべきだと思う。何の病気か分かれば、もっと上手く対応出来るんだろうけど……ごめん」


「いや、凄く助かった。頼むから謝らないでくれ」


「むぅ……」


 納得がいかないように唸るティセリアだったが、皿洗いの手は止まらない。シンが一枚の皿から完全に泡を落としている間に、一枚二枚と魔法のようなスピードで新たな処理済みの皿が積み上げられていく。


 きっと、身体が覚えているのだろう。数え切れないくらいの鍛錬を積み重ねて来たからこそ、今の彼女がある訳だ。


「大体、意識不明の重態って訳でもないんだ。環境が目まぐるしく変わった疲れが、きっと今になって出て来たんだろう。直ぐに元気になるさ」


「うーん……」


 ティセリアの返事は煮え切らない。きっと心配しているのだろう。


 勿論、シンだって言葉や態度程に余裕がある訳でもなかった。


 どうして気付いてやれなかったのか。もう少し注意して彼女達の事を見ておくべきだったのではないか。


 後悔を挙げ始めれば湧き水のようにこんこんと湧き出して来てキリが無く、その濁流に呑み込まれてしまい何も出来ない。ティセリアが落ち込んでいるのを見なければ、取り乱していたかもしれなかった。


「……とにかく、今は様子見だ。治ればそれで良し、治らなかったら俺が医者に連れて行く。それでいいだろ?」


「……。うん」


 もしかしたら、ティセリアにはシンの心情など全てお見通しだったのかもしれない。彼女は暫く黙っていたが、やがて表情を緩め、シンに向かってそっと微笑わらい掛けてきた。


「まぁ、確かに、何処かが痛いとか、苦しいとか言ってる訳じゃないもんね。寧ろホタルなんか、眠るまでは大暴れだったし。ねーむーくーなーいー、って」


「アイツは元気良いもんな」


「運動神経も良いんだよ? この間、私うっかりコップを落としちゃったんだけど。あの子がこう、結構離れてたのに滑り込みでサッと」


「ほー」


 お前もそういう失敗するんだなとか。そんな滑り易い状態の手で皿を掴んだまま、激しめの滑り込みのジェスチャーするなよとか。


 言いたい事は色々あったが、積み上がった処理済みの皿の山がシンに突っ込む事を許してくれない。


 楽しそうに話してながら皿を泡立てているティスと、手元の皿を睨み付けながら仕事に集中しているシン。傍から見れば、さぞかし噛み合っていない二人に見えるのだろう。


「ヒナギクは大人しいけど、その分冷静でお利口さんだよね。でも、口や表情に出さない分、ちょっと行動に出やすい所があるかな」


「行動?」


「すり寄って来たり、抱き付いてきたり。シンが一番多いと思うけど?」


「そうかぁ?」


「そうだよ。シン懐かれてるなぁって、ちょっと羨ましく思う事あるもん」


「あー……」


 確かにヒナギクは、気が付いたら其処に居る、というのは多い気がする。服の裾を掴まれて拘束されるというのは、シンも何度か経験したと思う。


 別にシンに不自由を強制してくる訳じゃない。彼女はただ一緒に居てやれば満足らしく、その間何をするかはシンの自由らしい。それはホタルにしても同じ事で、シンはあの二人から我が儘も言われた事はあまり無い。


 きっと、まだまだ遠慮があるのだろう。


「しかし、良く見てるよな」


「え?」


 思わず呟いたシンの言葉に、ティスがキョトンと不思議そうな顔をする。


 割ってしまわないように皿を取り上げて慎重に水に流しつつ、シンは僅かに残った余裕を以て補足を付け足した。


「お前が、あの二人をだよ。アイツら造りそのものは一緒でも、配色同様中身は全然違うからな」


「配色って……」


 どうやら合点がいったらしい。言い回しに軽く苦笑いを浮かべながらも、ティセリアはシンの言葉に相槌を打った。


 修道院で近隣の人々の話相手をやっていた事もあってか、彼女の聞き役のスキルは滅法高い。彼女自身は何も言わなくても、彼女の纏う雰囲気が続きを促して来て、自然に言葉を紡いでしまうのだ。


「例えば、ヒナギクはピーマンが嫌いだがホタルは人参が嫌いだろ?」


「ああ、時々こっそり交換とかしてるねぇ。今度見つけたら注意しないと」


「ヒナギクは冒険とか英雄とか男子っぽい所に、ホタルは逆にお姫様とか色恋沙汰とか女子っぽい所に反応するよな?」


「絵本とか読み聞かせてる時でしょ? 最初は私もちょっと意外だった」


「ホタルはあちこちをちょろちょろ動き回るのに比べて、ヒナギクはその辺でジッとしてる事が多い」


「まるで子犬と子猫だよね。あ、いや、衛星かもしれないよ?」


「は?」


「シンが星で、あの二人が衛星。こう、シンを中心にして、ぐるぐる~って」


「お前は居ないのか?」


「──」


 あまり、深く考えての台詞ではなかった。記憶を失ったシンからすれば、ティセリアは双子と同じく、目を覚ましてからずっと一緒に居る存在だ。"彼女が居ない"という感覚は、シンにとっては不自然な状態になりつつある。


 大体、があったのだ。今更"赤の他人"は通らないだろう。


 彼女の真意は分からないし、今の所はあやふやだが、少なくともシンはいずれ白黒ハッキリさせて、責任を伴った行動に移りたいと思っている。


「私は……私は、何だろうねぇ?」


 感情の読みにくい声で、ティセリアは言った。横目でチラリとその様子を伺うが、シンより背の低い彼女は微妙に顔を背け、伏せている為に表情を見る事は出来なかった。


「星の事とか全然詳しくないからなー。ネタが切れちゃった」


「……じゃあ、俺が決めてもいいか?」


「えっ」


 ティセリアが、思わずと言った様子で此方の顔を見上げるのをシンは。顔を皿から動かさなかったのは、シンもまた余裕が無かったからである。


「俺にとって、お前は何者なのか。お前がハッキリさせないなら、俺が決めるぞ」


「それって……」


 どんなに察しの悪い奴にだって、分かる話だ。


 ティセリアはシンは、恐らく修道院で出会ったのが初対面ではない。過去に恐らく何かがあって、彼女はシンに良くしてくれるのだろう。


 残念ながら、シンはあまり高潔な人物ではない。美人が居れば鼻の下を伸ばすし、その美人に思わせ振りな行動を取られたらグラッと来る。だが、それだけで彼女に踏み込むのは違うだろう。彼女の行動がシンの過去に起因するなら、シンも過去の自分を取り戻さなくてはならない。 


「……」


「……」


 妙に張り詰めた沈黙の中、蛇口の水の音と皿の鳴る音だけが妙に大きく響いている。お互いに喋らないまま、横目で腹の内を探り合うような、奇妙な時間が暫く続いた。


 そのむず痒くなるような沈黙を打ち破ったのは、突然聞こえて来たバタバタと慌ただしい足音だった。


 シンちゃん、シンちゃんと切羽詰まったプリッシラの声。直後、その声の主が扉を突き破らん勢いで厨房に飛び込んで来る。


「大変!! 大変よ!!」


 気まずくも甘い沈黙を惜しむような雰囲気ではなかった。プリッシラに視線を投げて、シンは何も言わずに続きを促す。


 余程動揺していたのだろう。プリッシラは若干息切れ気味になっていたが、それすらも捻じ伏せるように言葉を紡いだ。


「あのコ達が……!!」


 瞬間、自身を取り巻く世界そのものが凍り付くのを、シンはハッキリと自覚した。


「あのコ達が、何処にも居ないの……!!」


 プリッシラの言葉を背中で聞きながら。


 シンは既に、厨房から飛び出していた.




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