おわりとはじまりのとき
月詩龍馬
おわりとはじまりのとき
僕にはまだ、名前はない。ここがどこかも知らないし、なぜ僕がここにいるのかも知らない。気が付いた時には、僕は果てしない花畑の中にいた。
だが僕は、ここで一人の少女と出会った。
僕は彼女と一緒に遊び、僕たちは二人だけの時間を過ごした。蝶を追い、花を探して、草原を駆け回る。それはとても幸せな時間だった。
そんな僕たちにも、ひとつだけ知っていることがある。
花畑の真ん中にある、石造りの時計。その金色の針が真上に来たとき、僕たちはすべてを忘れ、ここから旅立たなければならないのだ。
その時まで、あと五分。楽しかった彼女との時間も、終わってしまう。
「もうすぐ、だな」
時計のほうをちらりと見て、僕は俯く。
「もうすぐ、だね」
隣に座る少女は僕のほうを見て、少しだけ寂しそうに答えた。
僕らを囲む花畑には穏やかな風が吹き抜け、色とりどりの花が呼吸を合わせて揺れる。まだここには、静かな時間が流れていた。
「怖いの?」
彼女の言葉に、僕はゆっくりと頷く。
「怖い。怖いさ。君のことを忘れたくない。一人になりたくない」
この世界に来た理由も、自分の名前も、まだ何も分からない。でも、彼女との時間はかけがえのないものだった。いつも彼女と一緒にいられることが、たった一つの幸せだった。
もしかしたら、自分はそんな彼女との思い出をすべてを忘れ、ただ一人、冷たい場所で震え続けるだけの存在になってしまわないだろうか。
肩を震わせる僕の手を、彼女はそっと握った。
「怖い……よね。私も怖い」
彼女の頬を流れた一滴の雫が、風にさらわれ、輝きを残して消える。
「でも、大丈夫。私たちなら、離れ離れになっても、どんなことがあってもきっと乗り越えられる。そんな気がするの」
はにかむ彼女の手から伝わる、優しい温もり。その暖かさが、僕らは今、確かにつながっているのだと教えてくれる。
「だから、信じよう」
「信じる?」
「そう。私たちは、きっと二人とも幸せになれるって」
彼女の自信がどこから湧いてくるのか、それは僕には分からない。けれど、ずっと一緒にいた彼女の言葉だからこそ、信じられる気がした。
そして、時を告げる鐘が、静かに、力強く鳴り響く。
もうすぐ、ここにいる僕たちは消える。ここであったことも、すべて忘れてしまう。
でも、これは終わりじゃない。これからずっと続いていく物語の、始まりにすぎないのだ。
「さ、行きましょ。私たちの居るべき世界へ」
「ああ」
空から降り注ぐまばゆい光に、僕たちの体は溶けていく。それは暖かくて、優しくて、そっと僕たちを包み込み、空高くへと導いてくれる。
「じゃ、またな」
「それじゃ、またね」
別れの言葉を、消えゆく心にしっかりと刻んで。確かめあうようにうなずいてから、最期に僕らは、想いのすべてを託して叫ぶ。
「どんなことがあっても、きっと大丈夫。二人なら、きっと大丈夫だから」
今日、『僕』は生まれる。
彼女の兄として、あるいは弟として。
おわりとはじまりのとき 月詩龍馬 @t_tsukishi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます