黒曜のサナトリウム

しーた

第1章『吸血鬼』

 時は昭和五八年、夏の真っ盛りな七月上旬。

 

 舗装されたばかりのアスファルトを照り付ける日光は、昼過ぎと云うことも相まって、殺人的な熱量を発揮していました。 

 油蝉の、風流なんて微塵も感じさせない、ただ五月蠅いだけの鳴き声。

 近くの小学校から聞こえてくる、和気藹々とした子供たちの声。

 ご近所で語り草となっている、派手な外車の喧しいエンジン音――所有者の三国出さんは、最近、奥さんから購入費諸般の理由で怒鳴られたとか。

 まあ、なにはともあれ。

 一人の少女を除けば、今日の町並みは変わり映えしないものでした。


          *


「はぁ……暑い。死ぬ、蒸す、蒸せるぅ」

 と、少女はぼやきつつ、茹だるような暑さの坂道を上ります。

 片手にはビニール袋が提げられており、どうやら少女は、買い物から帰っている最中のようでした。

 しかし、そのあたりは別に変わったことではありません。

 この周辺一帯に生息しておられる奥様方と、ピチピチな年齢以外は、なんにも差異がないのです。

「おかーさん。あそこにいる女の人、どうして真っ黒なの?」

「シッ。関わっちゃいけません」

「……聞こえてるよ」

 側を通り過ぎた母子の、典型的ながらも容赦のない言動に、少女は傷つきます。

 彼女も好きで、こんな服装をしているのではないのです。

「くぅ……どうして〝制服〟だとか言われて、こんな〝コスプレ?〟みたいな恰好せにゃならんのです……っ」

 少女が着用している衣服はナース服、といえばいいのでしょうか。

 ただし、白衣の天使が纏うであろう、真っ白な制服の色彩は――彼女が着用するモノだけは例外的に、喪服も真っ青な黒一色だったのです。

(真っ青な、黒?)

 ヘンテコな日本語の使い回しに、ちょいと首を傾げる少女は愛くるしいものがありますが、そのあたりの表現については御容赦ください。

(くそぅ。このご時世に女が働くんだから、多少のハラスメントには動じないつもりだったんですけど――なんだって、こんな厄が憑きそうな衣服が制服なんだってんですか……ブラッ○ジャックだって、こんなモノをピ○コに着せるもんならキレるでしょうに)

 現在のキテレツな服装を貸し与えた、あまり趣味のよろしくない雇い主を思い浮かべながら、その少女は内心で悪態づきました。

 しかし、それ以外を除けば理想的な仕事環境です。

 給与も福利も、それなりなのです。贅沢は言っていられません。

 

           *


 という訳で。

 その美少女こそが、わたし「示方閃祈(しほうひらめき)」という人物なのです。

 え、なに? 初見じゃ絶対に読めねぇだろ、その名前って?

 わたしゃ知りませんよ、両親に言ってください。

 いや、自分を産んでくれた母親の記憶もない、怪しげな裏事情を抱えてるので……やっぱり御容赦してくださいな。

 むしろ〝ミステリアス美少女(自己申告)〟ってええやん?

 ……さてさて。

 真夏の灼熱地獄と化した帰路を行進し続けていた、わたしの視界前方に――なんとも可愛らしい女の子(わたしの次くらいには)を見つけました。

(あらら、こんな真昼間に蹲っちゃって。まさか熱中症――じゃないようですね。なんか元気に地面を弄ってますから)

 女の子はわたしに背を向けているので、これ以上の詳細は掴めません。

 もしかしたら他の、大変な事態になっている可能性も考慮すべきでしょう。

 わたしは、そっと女の子の背後に忍び寄り始めました。

 ですが手に提げているビニール袋がガサゴソと音を立ててしまい、あっさりと女の子がわたしに気付いてしまいました。

 女の子は手作業を止め、半身でこちらに振り返ります。

 その表情は明らかに不審者の類を見ているかのような、とても不安げなものでした。

(あっちゃー、やっちゃいましたよ。こうなったら、この子はマトモに取り合ってくれないんですよねぇ)

 仕方ありません。

 わたしは警戒心を解くべく、できるだけ優しい口調で女の子に尋ねてみました。

「あー、えっと。こんにちは〝暁(あきら)ちゃん〟。一体、何をしてるんですか?」

「……花を摘んでるんです」

 ふむ。返事をしてくれたのは有難いです――って。

「えっ、ちょっ、そんな。女の子がはしたないですよ――〝野糞〟なんて」

「……訂正します。花を毟ってるんです」

「ひっ」

 はしたないどころか下品極まりない言葉と意味合いで誤解してしまった、わたしに対して、女の子――あきらちゃんは酷薄としか言いようのない態度を取ってしまいました。

「あ、あのー、あきらちゃん?」

「…………」

 むぅ、こんなにも美人なお姉さんを前にして、完全に無視するつもりなのでしょうか。

 花を毟っては投げて、根が穿れれば土を払い落として同様に投げる――飽きもせずに、ただただ繰り返すばかりの、あきらちゃん。

 その結果……土の飛沫が、わたしの漆黒ナース服に掛かってしまいました。

「わっ、なにするんですか、あきらちゃん」

「そんなところで突っ立っているのが悪いんです」

「ぐ、ぐぬぬ……」

 こちらにも非があるとはいえ、すくなくとも年上に対する行為と態度ではありません。

 こういうのは早いうちに正しておくもの、叱りつけてやりましょう。

「いけませんよ、あきらちゃん。学校の先生に教わらなかったのですか? 年上の人には礼儀正しくって。わたし、お姉さんなんだから――あれ? 今日、学校あったよね?」

「……ちっ」 

 そう。実はこの子、まだ小学生です。

 しかし、なぜかランドセルはおろか、手荷物ひとつ持ってやしない訳でして。

 あたりを見渡しても、彼女の所有物らしきものは見当たりません。

「も、もしかして――学校サボってる?」

「うっさいです。どっか行ってください」

 なんということでしょう。

 思春期も反抗期も訪れていないというのに、このやさぐれっぷり。

 いますぐにでも修正が必要ですねぇ、これは。

「こ、こら。小学生で不良とか、そんな若く――というより幼くして道を外しては将来が大変過ぎます。高等教育は……ともかく、義務教育の勉強は一生必要なんですよ?」

「……今日は体育が二時限あって、ついでに道徳もある時間割です。大した痛手じゃありませんよ」

「そういうことじゃないです。いいですか? 学校という場所は勉強するだけではなく、友達と友情を育んだり、倶楽部活動に熱中したり、行事に参加して青春の汗を流しながら……隣席の男子生徒と甘酸っぱい恋をしちゃうんですよぉっ、やぁん羨ましいぃ――ッ!!」

「人の往来で、勝手に盛らないでくださいな」

 羨望の叫び声を上げた、わたしに呆れ果てたのでしょうか。

 あきらちゃんは毟った雑草を一遍に放り投げると、すくりと立ち上がって、わたしに背を向けます。そして、そのままスタスタと立ち去ろうとしました。

「あ、待って。あきらちゃん、忘れ物ですよ?」

「は? 何がです。荷物なんて、ひとつも――」

「えいっ」

 わたしは懐からハンカチを素早く手に取って、振り向いた彼女の手を握りました。

 無理に引っ張らないよう、すこし屈んで背丈を合わせてあげます。

「ちょっと、いきなり何を……」

 と、彼女は抗議し始めますが、わたしは構わず泥に塗れた小さな掌を、ハンカチで拭き拭きし始めました。

「ほら、すこしだけ我慢してくださいな。女の子は身体を綺麗にしなきゃ駄目ですから」

「嫌です、離してください」

「まあ、そう言わずに。爪、土が入り込んでて気持ち悪いでしょ?」

「そ、それは……そう、ですけど」

 ぷい、と。

あきらちゃんは互いに接近した顔を一方的に背けます。しかし、もう抵抗するつもりはないのでしょうか。わたしの手に取られた腕からは力が抜け、大人しくなりました。

 そんな彼女に安心しつつ、わたしは捩じったハンカチで、爪先の掃除を行い続けます。

「素直じゃないですねぇ。ま、年頃ってことですね」

「せ、〝せんき〟さんだって、そこまで歳は変わらないじゃないですか」

「すくなくとも、貴女より五歳ほどは年上のお姉さんです。それに自分の名前と同じくらい、難しい漢字を読める程度に大人でもありますけどね」

「む、むぅ……大人だって貴女の名前は読めません」

 あきらちゃんは、ぷくぅと頬を膨らませて、すっかり拗ねてしまいました。

 でも時折こそばゆいのか、ハンカチが爪の内側を擦る度に「く、ふふっ」と頬を赤らめながら声を漏らしています。

「おや、気持ちいいんですか?」

「べ、別に、そういうんじゃ……」

 紅潮した顔を見られるのが、恥ずかしいのでしょうか。

 あきらちゃんは俯いて、ずっと震えながら声が漏れるのを我慢し始めました。

(うーん。こういう仕草は、いじらしくて愛らしいものがありますけれども……すこし弄り過ぎちゃいましたかね?)

 幼気な女の子に大人げなかったかな、と。

 ちょっぴり罪悪感を憶え始めた頃合で、あきらちゃんが呟きました。

「……あの」

「はい? なんですか、あきらちゃん」 

「名前の読み方、教えてください。いちいち面倒なんです。貴女をどう呼べばいいのか、わからなくて」

「あー、たしかに」

「それと、私だけ一方的に名前を呼ばれるのはムカつきます。しかも馴れ馴れしく〝ちゃん〟付けしてきますし」

「やぁん。女の子に〝ちゃん〟付けは親愛の証ですよ」

「名前を教えない癖に?」

「そっ、それは……ぐぅの音も出ませんねぇ」

 自分の非を素直に認められるのが大人というものです。

 ということで、わたしは素直に自己紹介を行いました。

「――示方閃祈(しほうひらめき)、ひらめきお姉ちゃんですよ。よろしくね、あきらちゃん」

「よろしく、です」

 自己紹介を終えた頃には、すっかり手の平は綺麗になっていて。

 それから、わたしたちは互いの親睦を深めるべく、ちょっとだけ一緒に歩いていきました。

 

           *


 しばらく女の子らしい話題の会話が続いたあと、わたし達は、それぞれの帰路へと戻りました。

……いつもは〝つん〟と澄ました顔をしている、あきらちゃんですが。互いに気心が知れたあとの、わずかに綻んだ笑顔はとっても素敵なものでした。

 が、その一方で。

「げに恐ろしきは、自覚していない〝幼気な色香〟といったところでしょうか」

 地域内美少女ランキング(自作)1位の座を脅かしている新たなライバルのことを、わたしは目敏く分析していたのです。

 ――や、だって、あんまりにもご近所が〝不良美少女〟のことを噂にするもんだから、地域を代表するミステリアス美少女(自称)である自分としては、焦燥感を憶えずにはいられなかったといいますか。

「お、おのれ。数ヵ月前までは、わたしのことを〝田舎メイドさん〟などと噂にしておきながら……いまでは〝闇ナース〟だなんてレッテルを張り付けてくるとは」

 地域住民という名の愚民、いえ、審査員たちは流行とやらに弱いらしいのです。

 とにかく、わたしは何かしらの対策をせねばと思案しながら、憩いの職場へと足を運び続けました。


          *


 それから歩き続けること、およそ一〇分。

 ようやく、わたしの勤め先である診療所――〝黒曜館〟に辿り着きました。

 木造かわらぶき平家。主な特徴といえば広い庭と、わたしの園芸趣味による花壇が目に映ることくらい。ついでにいえば医療施設にあるまじき名前が付いていたり。

 診療所としても小振りな建造物と、育てた花たちを垣間見て、わたしはほっと一息つきます。

 が、しかし。

 黒ナース服は太陽さんの恩恵を過剰に摂取した結果、肌を低温火傷させかねないほど熱くなっていました。布地へのダメージも相当なものでしょう。洗濯をしたら、すこし色褪せてしまっているかもしれません。全額支給品なので、正直どうでもよかったりしますが。

 わたしといえば、もう汗で全身ぐっしょりでした。下着を含め、身に付けているものの全てが汗で滲んできています。暑さと湿気で、とても気持ちが悪いです。

(うげぇ。これは、すぐさまシャワー室に駆け込みですね。というか水、喉もカラッカラなので、まずは水を――あ。ドラッグストアで、スポーツドリンクとか買っとけば良かったです。冷蔵庫の飲料物も烏龍茶だけでしたし)

 後悔、先に立たずと言いますか。

 しかし悔やんでも、今は仕方がありません。

 わたしは〝黒曜館〟と書かれた表札を横切って、敷地内へと進みます。

 その途中〝どたどた……〟と、なにやら施設内から慌ただしい騒音が鳴り響いてきたりもしましたが、そんなことにも構っていられないのです。

「た、ただいまぁ」

 干乾びた喉から、なんとか女の子として許されるダミ……いえ美声を振り絞って。

 玄関の引き戸を開けた、そのときでした。

「おかえりっ!」

「へぁ?」

 ……玄関先で出迎えてくれたのは、わたしの御主人様(やといぬし)ではなく。

 新品の包帯を全身くまなく巻きつけている、やけに元気溌剌とした〝真っ白な好青年〟でした。包帯の間からチラチラ肌が窺えるあたり、おそらく全裸に直張りです。

 つまりはド変態。

(……ああ、わたしったら。あまりの暑さで、幻覚が視えちゃったりしてるんですかね?)

「むむっ? 大丈夫かい、〝人間少女〟さん?」

 くら、くらりと頭を振る、わたしを心配してくれたのでしょうか。

 彼はわたしの眼前まで手を伸ばして、それを左右に振り翳しました。

「あー、あへ? ミぃ、ら?」

「――ミイラ? ああ、この恰好は違うよ! あまりにも炎症が酷かったものだから、神楽坂先生から応急処置として頂いたのさ! ただ、ナニからナニまで他人任せというのも嫌だったし、自分でアレンジしながら巻いたんだ。で、どうだい? 特に、この〝股間〟部分は、日本古来の下着〝ふんどし〟をモチーフにしてみたのだけれど……?」

「そうでふか。とってもイカす味噌」

「ありがとう! って、本当に大丈夫かい? なんだか呂律が回ってないんだけど」

 ずいぶんと〝活きの良いミイラ〟なんですねぇ。

 ひょっとして、死後のスキンケアというのが実在している可能性――いえ、お肌の水分補給は若くて可愛い(重要)わたしには不必要なのです。

 ……とにかく。おそらくは客人と見受けられる彼を対処して、いち早く冷蔵庫に直行しなくては。

「だ、だいじょうぶれふ。わたし、ここのメイろ……だったっふぇ?」

「……とりあえず玄関の戸を閉めてくれないかい? 死にはしないとはいえ、いま日に当たると面倒なことになっちゃうのさ。それと、日焼け止めクリームは買ってきてくれたのかな? きみが先生から、お使いを頼まれた〝メイド〟――ではなく〝闇ナース〟さんなのだろう?」

「あ、ふぁい」

〝がらら……〟

 引き戸を閉めてから、わたしはもう一度〝ミイラさん〟を視認しました。

「そうそう。では、日焼け止めクリームを頂こうかな」

「へぁあ」

 わたしは袋から、それを手に取って差し出しました。

元気な割には、血の気が薄れている――死んだ白魚のような右腕を差し伸べて、ミイラさんがそれを手に取りました。

そのとき〝ひやっ〟とした彼の手から、わたしの指先に〝死体のような冷たさ〟が駆け巡ります。

 瞬間。

「――へ」

「ん、どうかしたのかい?」


「へ、変態だぁ――――ッ!!」

 

 冷たさで我に返ったわたしは現状を把握し、たちまち絶叫してしまいました。


          *


「変態ではない」

 先生が開口一番、わたしたちの前で発した言葉は、いわゆる弁明のモノでした。

 先生――彼の名は〝神楽坂命砥(かぐらざかみこと)〟

 わたしと〝ミイラ男さん〟の諍いを仲裁してから、わたし達を、この診察室へと移動させた〝黒曜館〟の主様なのです、が。経歴・年齢ともに不詳、わたしの次くらいにはミステリアスな雰囲気を纏った、痩身長躯の青年医師(専門の診療科目不明)という、かなり胡散臭い方なのです。

 とはいえ、もちろん先生自身の仰るとおり、彼は変態ではありません……怪しい者ではあるかもしれませんが。

 わたしの隣に居座ってやがる〝ミイラ男〟が変態なのです。

「だから、彼は変態ではない」

「えっ。じゃあ、もしかして先生が……いえ、そういう趣味をお持ちになられていたとしても、わたしは先生の傍から離れたりしませんっ! ずっと、ずっと此処で働かせてくださいっ!」

 ――素性が限りなく不鮮明な点を除いて、こんなにも恵まれた労働環境を捨てるなんてこと、わたしにはできませんっ!

「……もういい。とりあえず事情を説明するから、大人しく座っていなさい」

 先生は溜息を吐きながら、わたしに指示します。

 当然、大人しく近場の丸椅子へとわたしは着席しました――変態からは距離を取りつつ。

「あ、あれ? どうして、ぼくの席から離れるのかい?」

「灰城さん、彼女は年頃の娘さんだ。貴方の気さくな態度は個人的には好ましい。だが異性にとっては、すこしばかり緊張感を憶えるのだろう」

「あぁ、なるほど」

 ぽん、と手を打ちながら納得する包帯塗れの変態さん。

 一方で神楽坂先生は、わたしの方へと振り返り〝我慢してくれ〟というような、非常に投げやりな視線を送ったのです。

(……むぅ。これでは、わたしが子供みたいではありませんか)

 ちょっぴり納得はいきませんが仕方ありません。

 以降、わたしは口を噤むようにしましょう。

「では、改めて紹介しよう。彼の名は〝灰城折挫(はいじょうおりざ)〟という。もちろん、本名ではない。人間ではなく〝亜人〟――それも最高位の怪異であるがゆえ、だな」

「そうそう〝真名〟を教えるのは、ちょっと気が引けるかな。ぼくじゃなくて〝皆〟が危ない。ごめんね、閃祈さん。ぼくらにとって、名前というのは〝臓器ひとつ〟に等しいんだ。ぼくの場合、それに〝毒腺〟が通っているようなものでね。知られたら君らは呪われちゃうんだ」

「すまない、灰城さん。貴方の素性は把握しているから、いまは私に説明させてくれ」

「うん、わかったよ。しかし〝月夜の覇者〟たる、ぼくらの素性を把握しているだなんて――神楽坂先生、君は一体〝何者〟なのかな?」

「……それは答えられない」

「そりゃそうだ。では説明の続きをどうぞ」

「あ、あのぉ」

 堪え切れず、わたしは先生に声を掛けました。

「閃祈君。なにか疑問でも?」

「疑問とかいうレベルじゃないです。先程から言ってることの意味が不明です」

 専門用語と思しき固有名詞だらけ。

 わたしだけでなく、何も知らない人たちにとっては〝なんのこっちゃ〟としか言いようがないでしょう。

「君が変態と呼んでいる男性は、いわゆる吸血鬼だ。ちなみに実年齢は、すでに人間の寿命を遥かに凌駕しているから敬意を払うように」

「……えっと」

 ふむ。そういえば、この変態……やたらと皮膚を隠そうしたり、口元には犬歯とは言いがたい〝ちいさな牙〟が見え隠れしていたり。それでいて腑抜けた面構えであることを度外視すれば、なかなかの美形(ハンサム)ではないですか。

 しかも瞳の色、というより〝色気〟が漂っていて――っと、それはないから。

 やだ、この変態さん格好いい……だなんて。

 そんなの思いたくはありませんからっ! 

 ――じゃなくて。

 おかしいですよ、先生!

「いきなり〝吸血鬼〟とか〝ファンタジー〟なこと言われて納得できますか!? 悪質きわまりない冗談は大概に――」

「残念ながら、私は冗談を口にしていない」

「へ? あっ、ふーん」

 どうやら我が雇用主は、ひどく可哀そうな〝おかると〟に嵌られておられるそうです。

 しかし。だからといって、先生を一方的に〝キチガイ〟だと否定してしまうのは、いささか良心の呵責に苛まれることでしょう、たぶん。

 ですから、ここは憐憫の情をもって話を合わせてあげましょう。

 という訳で、ひとつ質問してみたのですが

「――ここって、田舎の鄙びた診療所ですよね?」

「〝そういうことにしてある〟」

「おいィ? なんだか不穏な言い方でしたよぉ!?」

「とにかく、ここは〝一般的〟には〝ただの診療所〟だ。しかし、それらは仮初に過ぎない」

 騒ぎ始めたわたしを、先生は手の平を翳して落ち着かせます。

 それから一拍置いて、黒曜館の真相を暴露しました。


「〝亜人共同体〟という〝人外または、その関係者による自衛組織〟の出資から設立された、いわゆる〝人外(モンスター)対象の特殊診療所〟――それが、黒曜館の正体だ」

 

 くらぁり、と。

 あやうく眩暈で、床へ倒れ伏しそうになりました。

 あらら。私の躰、一体どうしちゃったんでしょーか。

 つい先ほど、水分補給と解熱のために〝氷〟と〝水道水〟と〝食塩ひとつまみ〟を、胃の中にブチ込んだばかりだというのに……立ちくらみだなんて、おかしな話ですねぇ。

「包帯だらけのぼくが、誰かを心配するのも変だけど。大丈夫? 閃祈さん」

「……あ、はい」

 しかも怪しげな団体名まで登場しちゃいましたし。

 もしかして〝フロント企業(やくざ)〟関係だったりするんですかね、この黒曜館は?

「あのぉ。ここが〝そういうところ〟ってこと自体、初耳なのですが」

「それはそうだろう。今年、はじめての〝人外患者〟だ。今年の四月から勤務し始めた君に、知る由もない」

「――――は、はは」

 ちょ、ちょっとぉ! 

 雇い主がイカレている疑惑に次いで、職務内容についても偽造されていたことが発覚したんですけど!?

「えっと、先生は法律上とかにおいても、人外の医療を許可された方だったりは――」

「そんなものはない。あくまで、我々のような亜人共同体関係者が勝手に始めたことだ」

 や、やだっ! 

 わたし、もしかしてイケない犯罪の片棒を担がされてるっ!?

「さて。ややこしい話から本題に戻そう。我々にとって、大事なことは〝不死の人外〟ということだけなのだから」

「は、はぁ……」

 まあ、わたしも大体は理解することができました。

大体以外は誤魔化します。

 要するにですねぇ、黒曜館は〝人外様(?)専門、お忍び診療所〟ということです。

 ……やっぱ無理。ほんっと意味わかんねぇです。

「閃祈君。今日の午前頃、灰城さんが黒曜館に訪れたのは〝とある願い〟を叶えるため、とのことだ」

「は、はぁ」

「その願いを叶える過程において、彼は吸血鬼としての〝宿命〟に決着を付けるつもりらしい。祝福したまえ」

「わー、ぱちぱち」

「い、いやぁ? 照れるなぁ……」

 頬を赤らめてんじゃねぇよ、乙女か。

「んー、祝いついでにツッコミますが。宿命って、なんだかカッコいい風に言ってますけど、どうせ下らないことじゃないんですか? こんな人だし」

「ひ、ひどいことを言うねぇ、本人の前で……」

「そんなことはない。彼の宿命こそ、黒曜館が設立された〝真の目的〟そのものといえるのだ」

「なるほど。是非とも、それは知りたいですね。というか知ってなきゃおかしいですよ」

 ようやく先生が話す内容、その全貌がわたしにも見えてきました。

 一方で、あまり会話に参入しきれていない変態野郎――灰城さんは、あくびをしながら天井を向いて、うつらうつらとしていました。

 ……はっ倒してやろうか、この野郎。

「真の目的……ウチって、普通の内科とかじゃないんですか? あ、それと小児科。あきらちゃんみたいな子供も、風邪とかで診てますし」

「いや、一応は科目を問わず出張診療もやってはいるのだが……それは表向きに過ぎないな。言っただろう、本来の黒曜館は〝人外の指定医療機関〟だと」

「人外、ってことは。一般的には在りえないヒト達に、有りえない〝治療〟を行うと?」

「推察どおりだ、閃祈君」

 神楽坂先生は脚を組み直しながら姿勢を正します。

 長身痩躯ということもあってか、一連の動作は思わず見蕩れるほど流麗なものでした。

 ……くぅ。

 異性とはいえ、そのスタイルが羨ましいっ。

「私の専門は〝不老不死(イモータル)〟――つまりは〝死ねない人外〟を領分としている。そして結論から言えば〝死なせる〟」

 うんうん、はじめて聞きましたよ。

 ……わたし、仕事の相棒といっても過言ではない立場でしたけど。

 なんて思いつつ見蕩れていたわたしに、先生は怪訝な視線を向けながらも、途切れることなく話し終えるのでした。


「より正確に言うなら。彼ら、不死者に〝寿命を与える〟ことこそが、私達の使命なのだ」


         ***


〝からっ、からら!〟

「――ふぅ。ようやく火が付きましたか」

 バランス釜の点火確認窓を覗くと、青いガスの炎が揺らめいていました。

 ゆっくりと腰を上げて、そのまま風呂場から退出します。

 洗面所へと移動して、立て掛けてある時計を見上げながら、わたしは呟きました。

「八時ちょっとを過ぎたくらい、ですか……さすがに〝彼女〟を送り届けるのは難しい話ですねぇ」

 ふと洗面所の出入口に〝人の気配〟を感じました。

 振り返ると、そこにいたのは――

「あきらちゃん。お風呂が湧いたら、一番目に入ってきてね」

「……はい」

 わたしに呼ばれた彼女は、引き戸から半身だけ姿を覗かせながら、申し訳なさげに俯きつつか細い声で返事をしたのです。

 ――くそぅ、悔しいけど可愛いなぁっ!


         ***


 さて、いったい何が起きたのか。

 どうして黒曜館などという〝怪しげな医療施設〟に、不良少女とはいえ夜間徘徊はできないであろう、あきらちゃんがいるのかといいますと。


〝ピンポーン〟


『はーい、いま行きます』

 呼び鈴を聴いたわたしは、玄関先の来客に応待すべく台所から廊下へと向かいました。

『……あれ? 今日の診察は終了って、看板を立て掛けておいたはずなんですけど』

 夕刻を過ぎたあたりで、さすがに先生も時間を気にしたのでしょうか。

 一旦、本日の診察(?)は終わらせて、これからは〝不老不死治療(?)〟に向け、各々の時間を調整していこうという流れになりました。

 しかし、わたしの方といえば特に予定などは無かったので、灰城さんの診察終了後、とりあえず家事を始めとしたナース仕事……メイドっぽいような? とにかくそれをこなしながら、これからどうしようかなぁと思案していたのです。

 で、その最中に来客されたわけですが。

『あ、そういえば灰城さん、もとい変態包帯男は……奥の部屋に寝かせているらしいですし、大丈夫ですか』

 もし、お客さんが彼を目撃しようものなら、診療所の評判は地を突き抜けることでしょう。

 すなわち〝灰城〟ならぬ〝廃業〟待ったなし……ひぇえ(我ながら寒かった)。

『そうなったら、新しい仕事でも探すしかないですねぇ』

 ちょうど潮時かもしれないと、今日の〝変態事件〟に遭ってから思い始めましたし。

 そう考えを纏めたところで、わたしは玄関先に到着したのです、が。

『あれは……たぶん、子供だよね?』

 半透明な玄関扉から覗く人影は、とても小さくて華奢なものでした。

 時間的には、子供が出歩くことなどあってはならない状況。

『えっと……開けるね?』

 鍵を開けたわたしが、がらら……と、引き戸を引いた先にいたのは。

『あきらちゃん?』

『――今晩、泊めてください』

 子犬のように震えながら、あきらちゃんがわたしを見上げていたのです。


         ***


 家出でした。

 真昼間に学校を抜け出したことで、ご両親から厳しく叱咤されたとか。

 その結果、自宅を飛び出した果てに、行き着いたのが黒曜館だった訳でして。

「あきらちゃーん。お風呂、湧いたよ」

「……いま行きます」

 わたしの用意した着替えを両手に抱えて、あきらちゃんは洗面所へと入ってきます。

 彼女は洗面所を見渡して、どこか不思議に思ったような表情を浮かべながら、ずっと立ち尽くしていました。

「どうしたの、あきらちゃん?」

「洗濯機、どこ?」

「あっ、この家は外に洗濯機があるから。脱いだ服は、こっちに置いてあるカゴの中に入れておいてね。あとで洗濯して夜干ししてもいいかな?」

「……はい」

 眉を寄せながらも、あきらちゃんは着替えを上着、下着へと丁寧に分類して、棚の空いている場所に置いてゆきます。

 なにやら思うところがあったらしいのですが、さすがに一宿の恩を感じているのか、彼女は不満のひとつも口にすることなく衣服を脱ぎ始めました。

「――あっ」

「あきらちゃん?」

 また何かあったのかと思い、彼女に尋ねます。

 すると、

「……この服、一人で脱いだことがないです」

「そうですか。では手伝ってあげますね?」

「え? あっ、大丈夫! 一人で、できる、から」

 歯切れの悪い返事をしながら、わたしから離れてゆきます。

 あれ、なんだろう。

なんだか、あきらちゃんらしくない。

 しばらくの間、わたしたちは洗面所の真ん中で、互いの顔を見合わせながら静止してしまいます。が、わたしの方が堪え切れず、話を切り出しました。

「あのですねぇ。わたしはお姉ちゃんなんですよ? なにも遠慮することはありません」

「……では、勝手にお姉ちゃんとやらをやっていてくださいな」

 ぷぃ、と。

 あきらちゃんは顔を背けながら、いつもの仏頂面になります。

 でも、彼女の躰は震えていて。

 おそらく、どこか気恥ずかしさというか、後ろめたさみたいな理由で、きっと彼女は素直になれなくなったのが、なんといいますか……ああもうっ!

 わたしも〝わたし〟らしくないせいか、胸がモヤモヤする気分に耐え切れず、ちょっとだけ煽ってしまいます。

「それにしても……家出先が黒曜館だなんて、あきらちゃんも素直じゃないなぁ」

「いきなりなんです?」

「ホントはわかってる癖にぃ」

「だから、なんなんですか」

 あきらちゃんは訳も分からないまま動揺し始めます。

 その隙を突いて、わたしは彼女の背後へと忍び寄りました。

「あ、なにを勝手な」

「ほら、動かないで」

 あきらちゃんが着ている真っ白なワンピース……黒づくめのわたしには羨ましい限りです、じゃなくて。上着の肩部分に手を置いて、いったん服を整えながら、わたしは意気揚々とテキトーな推察を告げ始めました。

「ふふん。どうやら、この優しくて包容力のある、閃祈お姉ちゃんを恋しくなってしまったのが本当の気持ちなのでしょう? だから、あきらちゃんは心細くなった時点で、わたしの元に向かったのです!」

「白雪姫の魔女みたいに意地悪なことを考えていながら、よく言えたものです……ほんとうはとても優しいのに」

「ん? いま、なにか言った?」

「いえ、なんでも」

 なぜか、あきらちゃんは溜息を吐いて呆れ果てていました。

 ……うん、それでいいんですよ。

 わたしたちは、そういう感じが〝ちょうどいい〟と思いますから。

 ――あきらちゃんの肩に置いた手の平から、震えがなくなりました。

 彼女の背中から髪をかき分けて、ボタンを露にします。

 そのボタンを外し終えたら、今度は手入れの行き届いた、長く艶のある黒髪を静かに持ち上げて服を下ろし始めました、が。

「あ、もういいです」

「そうなの? ほんとに大丈夫?」

「そんな丁寧に扱わなくても、髪なんて気にしてません。ほんとは短く切っちゃいたいくらい。男の子と同じくらい」

「もったいないよ、それ。髪は女の命っていうのに……いいですか、あきらちゃん。〝女の子は可愛く生きていれば、それだけで幸せなんです〟から。これからは身だしなみに気を付けていきましょうね」

「な、なんですか、その暴論……閃祈さんって変な人です」

 というより。

 ご両親から大事にされている証拠の〝髪〟を無碍にする方が、はっきりいって申し訳ないのですよ――と、今のあきらちゃんに言っても無意味でしょうね。

 つい数時間前に、両親と喧嘩したばかりですから。

「では、入ってきます」

「うん。温度は低めにしたから、ゆっくり浸かってね」

「わかりました」

 あきらちゃんが服を脱ぎ始めたのを見て、わたしは洗面所から退出します。

 控えめに開いた扉を閉めてから、わたしは何故か気怠さを感じて、廊下の壁に背を押し付けながら座り込みました。

 ……そう、ですよ。

 両親は、家族は、大事にしなきゃ駄目なんです。

「わたし、よくわからない癖に、どうして」

 あきらちゃんに対する、妙な感情。

 それは嫉妬や羨望とかじゃなくて、もっと、こう、蟠りのような何かなのですが。

「いけない。それは、あまりよくない」

 頭を振って、わたしは淀んだ想いを払い落とします。

 一年はおろか、数ヶ月しかない記憶。

 当然、わたしは家族なんて知らない。

だから考えても仕方のないこと。

 そんなことより、わたしは、いまの生活をしっかりしなくちゃ。


〝――ヂリリッ、ジリリリィン!〟


「……ぁ」

 呆けていたわたしは、廊下の先にある黒電話が鳴り響いていることに、しばらく気付いていませんでした。

 急いで電話の元へと向かい、応答します。

「はい、黒曜館です」

『神楽坂先生、娘を――え?』

「どちらさまで?」

 向こうが沈黙を続けます。

 どうやら神楽坂先生ではなく〝わたし〟が電話に出たことで動揺してしまったのでしょう。

「もしもし、どうかなされました? 一応、診療所としての用件なら、わたしが受け付けるのですが」

『いえ、そうではないのです』

「では、どのような御用件で?」

『……ひさしぶりに声を聴いてしまったので』

 いや、わたしの話を無視しないでください――って〝ひさしぶり〟?

 それはおかしい。

 おそらく、わたしは〝この人〟と出会ったことも、ましてや電話だけでも、やり取りをしたことが一度も無い、はず。

 なのに、どうして――

『すみません、取り乱してしまいました。うちの娘、あきらのことについて、お聞きしたいのです』

「あきらちゃんのことですか。そのことでしたら、彼女はウチで保護していますけれども……あ、ご両親の方ですね?」

『はい、そうです。暁(あきら)の母、晶(しょう)と申します』

「〝晶さん〟ですか。あっ、わたしは示方です。示方閃祈といいます」

『……知ってます』

「え?」

 電話越しから聞こえた〝ありえない言葉〟に、わたしは数秒ほど自失してしまいます。

 が、なんとか意識を取り戻して、こちらの旨を晶さんに伝え始めました。

「と、とにかく。あきらちゃんを送るには、もう夜遅くになりますから。あの子を迎えに来て頂けるのであれば、明日の朝にしてくだされば、と」

『……私どもと致しましても、その方がありがたい、ですが』

「実は夕食も、ウチで摂ってもらっていたり。いまも、あの子は入浴中なわけでして。その、勝手なことをしてしまっているかもしれません。ご迷惑でしたか?」

『いえ、そんなことは。こちらこそ、ウチの娘が迷惑をお掛けして誠に申しわけありません。それに夕食、入浴まで……それ以上の面倒を見て頂けなくとも、いますぐ黒曜館へ向かいますので』

「いえいえ、お構いなく。というより、まだ彼女は落ち着いたとは云えないので、明日まではこちらで預かっていた方が良いと思います。出過ぎた真似かもしれませんが」

『――すこし、お時間をください』

 しばらく返事が途絶えました。

 耳を澄ますと、旦那さんらしき男性との会話が聞こえてきたので、おそらくは明日の朝について話し合っているのでしょう。

 十秒と経たずに、それが終わったのか。

 晶さんは、すぐにこちらへ応答しました。

『お待たせして申し訳ありません。では明日の八時頃、迎えに上がりますので』

「はい。そうして頂ければ、こちらも助かります」

 こうして、あきらちゃんの件は解決を迎える、ことになったのでしょう。

 ここから先は、わたしのような他人が入り込む余地のない、家族の問題なのですから。

 とりあえず話が纏まったので、他に何もなければ電話を切ろう――と思った、そのとき。

『――貴女は』

「へ?」

 わたしが変な声で返事をすると、またもや向こうの沈黙が続きます。

 迷っているような雰囲気を察しましたが、やがて晶さんは意を決したのか、強い語調で言いました。

『〝あきらちゃん〟と。もう二度と〝私〟のことを間違わないのですね』

「はっ? えっと」

『いえ、なんでもないです。では後日、改めて伺いますので』

「あ、待って――……いえ。なんでも、ありません」

『……さよなら』

 ぷつっ、と。

 無情な音を立てながら、電話が切れました。

「――向こうは、わたしを知ってるの?」

 耳に当てた受話器からは、ツー、ツーと、不通音がこだましています。

 それなのに、晶さんが呟いた最後の一言が、頭の中で反芻しては疑問と不安で一杯になってしまい、そのまま動けなくなってしまいました。

 わたしのことを記憶しているかのような彼女の物言いが、いつまでも引っかかります。

「でも、どうしてだろう」

 優しく、そして切ない声だったから――それ以上は訊けなかったのです。


          *


「いま、上がりました」

 作業を止めて振り向くと、あきらちゃんが髪にタオルを当てながら、こちらの様子を窺っています。

 彼女は白雪のように綺麗な肌を、仄かに赤らめていました。

 私の言いつけどおり、きちんと湯船に浸かった証拠です。

「湯加減は大丈夫だった、あきらちゃん?」

「はい。温めで心地良くて、ちょっと長湯してしまいました」

「うん、それはよかった――じゃあ、すこし向こうで待っててね」

 わたしは台所の棚から、まな板と包丁を取り出します。

 さすがに刃物を扱うので、あきらちゃんには申し訳ないけど、ここから退去してもらわないと安心できませんから。

 彼女も分かっているのか、台所に入り込む気配は無いようです。

「なにをしてるんですか?」

「んー、内緒。そうそう、縁側の扇風機を点けといたから、そこで涼んでると、あきらちゃんには〝素敵なもの〟が贈られます」

「ますます、なにをしているのか気になってしまうのですが……まあ、いいです」

 ご厚意に甘えます、と。

 あきらちゃんは丁寧に返事をしてから、去ってゆきました。

 おそらくは縁側の方へと向かったのでしょう。

「ふぅ。それじゃあっ、と」

 台所の奥に置いてある段ボール箱へと、わたしは移動します。

 次に、腰を屈めてから、わたしが目にした〝素敵なもの〟――それは〝スイカ〟でした。

「ふふっ、夏といえば〝これ〟ですよ」

 いくつかあるうちの一つを持ち上げて、まな板に載せます。

 家庭菜園のスイカらしく、見た目は小振りで、所々にキズが見当たりました。

 神楽坂先生の友人さんが育てたらしく、その人が知人達に、お裾分けしているそうです。

 しかし、どうやら今年の収穫物は美味しくないと、その友人さんは申し訳なさそうに零していたとか。

「出来の良し悪しよりも、気持ちの籠っている方が嬉しいのです」

 それに、お塩を振りかけたりすれば十分に甘くなりますし。

 縁側から、夏の夜空を眺めながら、誰かと一緒に食べれば美味しさは増しますから。

「まあ特別な祝い事がある訳でもないですが……いざ、入刀です」

 わたしが包丁を手にもって、きっちり等分に切り分けようとした――そのとき。

「……すみません」

「あれ? あきらちゃん、どうしたの」

 離れていったはずのあきらちゃんが、なぜか台所出入口まで戻ってきていました。

「……縁側に、変な〝おじさん〟がいるの」

「おじさん、ですか?」

 いったい誰のことでしょう。

 あきらちゃんは神楽坂先生のことを知っていますし、それ以外の男性といえば――

「……はぁ。あの変態」

「え?」


          *


 縁側に向かうと、案の定、変態吸血鬼(はいじょうおりざ)が腰掛けていました。

 しかも、どこから調達したのか、浴衣まで着ていますし……いい歳して浮かれているようにしか思えません。

「――おや、誰かと思えば」

「なにが誰かと思えば、ですか」

 日本人以上に夏を謳歌して寛いでいる様子を見て、わたしは心底呆れてしまいました。

 そんなことを露知らず、彼は吸血鬼特有らしい真っ赤な瞳に星々を映しながら、夜空を仰ぎ見ています。

「ごらん、この素敵な星空を。そして、ぼくの浴衣姿も。どうだい? 日本人ではないとはいえ、ぼくも日本文化の理解には深い方のつもりだ。着こなしに違和感がないだろう?」

「いや、たしかに似合ってはいるのですが……」

 むしろ違和感がないことで、逆に変といいますか。

 素性と雰囲気の相違というべき、ちぐはぐな感じがしました。どう見ても外国人の灰城さんが、ここまで日本に適応している方がおかしいのです。

 困惑している、わたしを見かねたのか。

 彼は苦笑しながら、その真相を告げました。

「はは。まあ、ずっと疑問に思っていただろうね。なぜ異国の怪異であるぼくが、日本語のみならず文化などにも精通しているのか――ま、なんてことはない。ただ古い友人の一人に日本人がいただけのことさ」

「なるほど、人生経験の深さゆえですか。さすが、ご年配」

「その褒め言葉は嬉しくないなぁ……ところで、その子は?」

「あっ、あきらちゃん。怖くないですか?」

 物陰に隠れていた彼女は顔を半分だけ覗かせて、ちらちらと縁側を窺っていました。

「怖くはない、ですが。どう見ても変な人です」

「当たりです、この人は変態です」

「いやだなぁ、余計な誤解を招かないでくれよ――自己紹介するよ。ぼくの名前は灰城折挫っていうんだ。それと君は、あきらちゃんっていうんだね。よろしく」

「……よろしく」

 警戒心を滲ませながらも、あきらちゃんは少しずつ灰城さんに近づいていきます。

 人見知りとはいえ、わたしが彼と会話でもすれば信用してくれるはず。

「隣、失礼します」

「ああ、構わないよ」

 わたしは灰城さんの隣に腰を下ろします。

 それを見て、あきらちゃんはちょっぴり戸惑いを見せたものの、灰城さんから距離を取ってわたしの隣に座りました。

「うん? この匂いは……ああ、懐かしいな」

「はい、スイカです。貴方の口に合う――というより食べられるかは不明ですが、どうぞ」

 わたしは持ってきたスイカの皿を、灰城さんとの間に置きます。

 こちらへ向かう直前に切り分けた〝それ〟は、とっても瑞々しいものでした。味見のため一口齧ってみたのですが、しゃくっと噛んだ途端に果汁が溢れて滴り、皿に大きくて甘い水溜まりを作るくらいでした。出来が悪いという話とは裏腹に、真っ赤な果肉は〝美味しさ〟〝甘さ〟という実力を、これでもかというほど自己主張していたのです。

 それをしばらく眺めていた彼は、想いを馳せるような表情を浮かべながら、スイカを一切れだけ手にしました。

「スイカに、なにか思い入れでも?」

「うん。さっき言った〝日本の古い友人〟と、はじめて出会ったときにも見たことがあるんだ。さすがに食べたことはないけどね」

「それは、よい想い出ですねぇ」

 素直に、わたしは彼の過去を羨ましく思います。

 なぜなら記憶の無い自分にとって、それは特別なもので知るよしもないことだから。

 ……ちょっぴり胸の奥が痛いような、そんな気持ちの対処に、わたしが戸惑う一方で。

 灰城さんは、しみじみとしながら語りはじめました。

「ああ、よく憶えている……出会い頭に〝怪異認定〟してきた挙句、刀でもなければ銃でもなく、手にした〝鈍器(スイカ)〟で殴り掛かってきたんだから」

「……えぇ」

 すぐに想い出は台無しになってしまいました。

 落胆したわたしに構わず、灰城さんは話を続けます。

「ぼくの後頭部に当たった途端に割れちゃって、その子が〝いやぁっ! もったいない!〟なんて言わなかったら、ぼくは今も〝緑と黒の縞々ハンドメイス〟と勘違いしていただろうね」

「恐るべき食用鈍器ですね……って、もしかして女の子だったんですか?」

 意外です、こんな人にも〝春〟があったなんて。

 興味を引いたわたしに気付いたのか、灰城さんはスイカから、その女の子へと話題を変えてくれました。

「そうだよ。たしか年頃は君と、あきらちゃんの中間くらいだったはず」

「へぇ。で、どこまでいったんですか?」

「ん? どこまでとは」

「やぁだ。言わせないでくださいよ、恥ずかしい」

 花の十代少女らしく、わたしは灰城の〝恋愛話〟に期待しました。

 だって彼は、わたしたちなんかよりも遥かに長い年月を生きてきたのです。

 若い歳の姿をしたまま、いろんな女の子と出会ってきたのですから。

 きっと、なにもなかった訳がないのです。

 そう予想しながら、わたしが彼の様子を窺うと……どうしてでしょうか。

 切なくて寂しげな雰囲気を醸し出しながら、彼は押し黙ってました。

(あれ? ひょっとして訊かれたくないことでしたか?)

 無言が続いてしまい、なんだか居た堪れない空気になってしまった、そのとき。

 やがて彼は、静かに話し始めました。

「……言っただろう、友人だって。そこまでの関係だったよ。スイカ同様、お互いの正体が割れていたからね」

「正体、ですか……向こうの女の子は?」

「魔狩り――と言っても、わからないだろうな。要は、ぼくらのような怪異で、危険な存在を処理する一族、その末娘だった。ま、ぼくは人畜無害の、ときどき〝ほんのちょっとだけ血を吸う〟くらいの脅威だったから見逃してもらったよ」

「ほんのちょっとだけって……」

「毎月の必須吸血量は、六〇匹の蚊が一度に吸う量と同じくらい、かな」

「うっわ微妙」

 それって、吸血鬼じゃなくて〝蚊人間〟じゃないですか?

 わたしの考えていることを察したのか、灰城さんは傷ついたような顔をしながら釈明し始めました。

「微妙って……酷いなぁ。これでも努力して人間と共存できるくらい脅威を下げたんだよ。そう、ぼくは努力家なんだ。今も〝蚊の眷属〟を一〇匹くらい町中に放って、今月分の血液を回収していたりする。ほら、ぼくってば凄くない?」

「わぁ、凄い――じゃねぇですよ!? なんという〝みみっちい〟他人迷惑な!!」

 規模は大きいけれど、実害は小さいという異能。

 矛盾を孕んだ〝人智を超える力〟に、わたしは落胆せざるを得ません。

 が、向こうもまた落ち込んでいるのか、わたしの〝みみっちい〟という言葉を聞いた途端に「……ぼく、これでも実力ある方なのに。人間の視点からだと、しょぼいのか」と悲嘆に暮れていたのでした。

 ……さて。

 重い空気が払われたとはいえ、ずいぶんとスイカから話題が逸れてしまいました。

 そろそろ、わたしもスイカを食べようかと皿に手を伸ばしたとき。

「スイカ、もらってもいいですか?」

「あっ。あきらちゃん、ごめんなさい。なんだか、わたし達だけで話し込んじゃって」

「別にいいです、それよりスイカ」

 あきらちゃんは両手を差し出して、わたしに要求し続けます。

〝よく食べて、よく遊んで、よく寝る〟――そういうところは純粋な子供らしいのか、そわそわとスイカを待ちかねる姿には、とても愛くるしいものがありました。

「ちょいと待ってくださいな……はい、ひとつずつね」

「はい、ありがとうございます」

 スイカの一切れを手にして、あきらちゃんはわたしの隣に座りました。

 ……いけない、忘れてました。

 小皿ひとつを、あきらちゃんの膝元に置いておきます。

「あきらちゃん。種は、こっちに入れてね」

「わかりました、いただきます」

「うん。それでは、いただきます」

 しゃりっ、と先っぽを齧ってみます。

 それから口に含んだ途端、水気のある音を響かせながら、甘さと汁気が踊り出しました。

(うわぁ。やっぱりものすごく甘くて、それに汁いっぱいじゃないですか)

 作った人の自評は、明らかに謙遜のそれだと確信します。

 きっと今年の出来が良かったからこそ、どうしても他人に食べてもらいたくて、わざと悪い風に言って、気兼ねなく受け取って頂けるようにしたのでしょう。

(本当に美味しいものは自分だけじゃなくて、みんなと食べた方が美味しい――やっぱり、その通りでした。神楽坂先生)

 ちょっぴり嬉しい気分に浸りながら、わたしは先生に感謝しました。

 今の言葉を告げてから、来客用に取っておくよう、わたしに指示したのは他ならぬ先生なのですから。

「……おいしい」

「えぇ、とっても甘いですねぇ」

「なんだか見ていると風情なものを感じるね……うん、面白い果物だ」

 灰城さんは、けっしてスイカを口にすることはなく。

 ただ静かに穏やかな瞳で、わたしたちを眺めていました。

 ……あれ? そういえば。

「灰城さん。分類上は野菜ですよ、これ。ほとんど果物と扱い変わりませんけど」

「そうなのかい? にしては、ずいぶんと甘いそうじゃないか。トマトは野菜それとも果物なのかという論争に野菜だと断言した、ぼくが言うのもなんだけれど……それは果物であるべきじゃないかなぁ」

「トマト? 灰城さん、食べれないのに議論をしたんですか?」

「うん。食べれるかは別として、ヒトの食文化に興味がない訳ではないんだよ」

 わたしの疑問に答えたあと、彼は考え込みながら呟き始めました。

「……甘い野菜は存在しない、甘くない果物も存在しない。そういうことにしておかないと、のちにパティシエを始めとした甘味の関係者が、ひどく混乱してしまいかねないだろうと思っていたのだけれど。君も、そう思わないかい?」

「は、はぁ」

 言葉を濁しながらも、なんとかわたしは返事をしたのですが。

 灰城さんは、なにか嫌な記憶でも思い出したのか、さきほどの穏やかな表情が消え失せてしまいます。

 そして苛立ちを露にしつつ、かつての仇敵に悪態を吐きはじめたのでした。

「トマトはデザートには使わないから、果物じゃない方がしっくりくるのに。くそっ、果物派の連中め。ぼくを馬鹿にしやがって。結局は野菜派の僕らが勝利を収めたとはいえ、あの屈辱は今でも忘れがたいぞ」

「……学校で習った歴史上の話っぽいですけど、すごく生々しいです」

 あきらちゃんは妙な臨場感に困惑しながら、彼の長きに渡るエピソードに相槌を打っていました。

 ――多分ですけど。

 灰城さんは数百年前に〝野菜派〟として、議論に参加したからじゃないでしょうか。

 とりあえず、わたしは〝歴史の生き証人(はいじょうさん)〟に事実を伝えておきます。

「まあ、とにかく野菜なんですよ」

「どうして? 理由はあるのかい」

「えっと、科学的な根拠により、キュウリの仲間であると判明したんです」

「ふぅん……まったく。すぐ人間は科学を持ちだしたり、そのくせ宗教を掲げたりするものだから、霊長の年長者であるぼくとしては戸惑うばかりだよ。まあ現代日本では科学が強い説得力を持っているらしいし、それに従おうか」

「なんですか、その〝自分は普通の人間ではない〟みたいな態度は……私、そういうの嫌いです」

 またもや、あきらちゃんは彼の言い方に違和感を憶えてしまいます。

 彼もそれに気付いたのか、すぐさま謝罪を口にしました。

「ああ、すまない。少々尊大な言い方をしてしまった。気分を悪くしたのなら謝ろう」

「いいです。しょうもないことですから、どうせ忘れてしまいます」

「……古い記憶も、今ではすっかり〝しょうもない〟程度に過ぎないのか」

 あきらちゃんの言葉に、ちょっぴり傷付いたような顔をして、そのまま灰城さんは昔の話を止めてしまいました。

 ……しばらく無言が続いたあと。

 あきらちゃんがスイカに夢中であることを確認してから、灰城さんは控えめな声で語り出しました。

「そういえば。君に、なぜぼくが黒曜館に来たのかという理由を言ってなかったね」

「寿命を得るためでしょう?」

「そうだけど、どうして〝それ〟が必要なのかという話だよ」

「永遠の寿命に飽きたから、とか?」

「まあ、それもあるんだけれど。最大の理由は違う」

 手に持っていたスイカ一切れを皿に戻してから、おどけたような恰好をして。

 灰城さんは意気揚々と宣言しました。


「ふふ……驚きたまえ。ぼくの夢は〝世界征服〟なんだ」


「――はぁ?」 

 なんという大言壮語。

 わたしは呆れ返ってしまい、しばらく言葉を失います。

 そんな様子を見て、さらに灰城さんは得意げな顔を浮かばせながら、理由を説明しはじめたのでした。

「黒曜館に来たのは寿命が限られることで、ぼくが本気になれるからなんだよ」

「夢はともかく、なんだか駄目人間みたいなセリフですね」

 本気になれないまま、ぐだぐだ時間を浪費しそうです。

「……おじさん、悪い人?」

〝世界征服〟という言葉を小耳に挟んでしまったのか、あきらちゃんは不安げな声で、灰城さんに尋ねます。

 彼は、年端もいかぬ少女を怖がらせてしまったと思ったのでしょう。

 かなり焦りながら、わたわたと釈明しはじめました。

「ち、違うよ。それにぼくは〝おじさん〟じゃなくて、お兄さん――」

「実年齢的には〝おじさん〟の方が、遥かにマシじゃないですか」

「それは言わないで……お願い」

 よっぽど、わたしの言葉が痛烈だったのでしょうか。灰城さんは涙目でわたしに泣きついてきました。

「すみません。私、二人の会話に付いていけません」

「このおじさん、見た目以上に歳食ってますから」

「なるほど……ずいぶんと若作りに熱心な方なのですね。まあウチの母も、かなり若く見えるんですけど」

「やめてよ、それ以上は困るって。世界征服以外にも夢があるんだから」

 泣き出しそうな顔をしながらも、またもや灰城さんは夢という言葉を口にします。

 一方、あきらちゃんは疑問が氷解したら興味を失ってしまったのか、目の前にあるスイカを一切れ、二切れと、もくもく咀嚼し始めました。

 ――時折、種を〝ごりっ〟と噛み砕いては飲みこむ音を口元で響かせながら。

(種ごと食べるのなら、わたしの用意した小皿の存在意義は……悲しいです)

 とにかく、あきらちゃんは放って置いていいでしょう。

いよいよ涙が目から零れそうな灰城さんに、わたしは質問を投げかけました――いじめすぎましたかね?

「で、もうひとつの夢というのは?」

「……生涯の伴侶が欲しいんだ」

「どーせ、いままで散々たぶらかしたんじゃないんですか? 貴方、顔だけは良いですからね。だったら――」

「いつか別れることが、とても怖くて。たくさんの恋はしていても結ばれたことだけはないんだ。ほら、ぼくは他人より永く生きているから」

「――あ」

 彼の〝長寿による裏事情〟を察してしまい、わたしは呆けた声を零してしまいます。

 ……今は、わたしたちと楽しそうに語り合っていますが。

 すでに彼の語った〝日本の古い友人〟は、どこにもいません。

 だからこそ、彼は〝他人(わたしたち)と仲良くなる〟ことを嬉しく思いながら、いつしか別れることを極端に怯えているという、矛盾した感情を露わにしていたのです。

「すみません、失言でした」

「大丈夫。それに独身貴族ってのも案外、自由で気楽なものさ……ぼくはもう飽きただけだよ。だから今は、たった一人の女性と人生を共にしたい」

 わたしは居た堪れなくなり、すぐさま謝罪を口にしました。

 が、返ってきたのは、意外にも力強い意志を伴った〝決意表明〟の言葉でした。

「……いままで酷いことを口にしてしまい、申し訳ありません」

「そんなことはない、むしろ楽しかったさ。軽口を叩ける間柄の親友すら、今はもういないから。君とのやり取りはとても心地良いんだ。それに――君は異性としても魅力的だと、ぼくは思っているよ」

「はい?」

「だから自分に自信を持ってね。さっきのことは気にしなくていいからさ」

「え、っと」

 ――やだ、なんだか恥ずかしいっ! 

 わたしたちは、それぞれ〝羞恥心で真っ赤に染まった顔〟と〝端正な顔〟を合わせながら、じっと身体を硬直させてしまいます。

 いきなり灰城さんに〝口説かれて〟しまったことで、わたしはたまらず気分が揚がってしまったのです。結果、ピンクに色づいた空気が漂い始めたという顛末。

 こ、こういう〝ラブロマンス的〟な話の流れでいうと、次に来る展開は〝想いを告白〟する――って、相手は変態吸血鬼なんですよ、わたし!? 

 でも、ちょっと……

(灰城……いえ、折挫さんってば人柄も案外魅力的、かも?)

 あれ?

 いつの間にか、彼の〝爛々と輝きを放ち始めた〟真っ赤な瞳から、わたしは目を背けられなくなってしまいました。

 二人の距離が、すこしずつ近づいていきます。

 ――いえ、そうではありません。

(なんだか吸い込まれるように、彼の胸元へ……)

 豹変した〝わたし〟を見て、なにやら彼は焦り出していましたが一向に構いません。

 わたしが〝折挫様〟の上半身に身体を預け、そのまま押し倒そうとした――その直前。


〝がこぉんっ!〟


「い、いだぁ!?」

 鈍重な音が響くと同時に、折挫様は悲鳴を上げられました。

 蕩けた表情を浮かべながら、わたしが愛おしい彼の頭上をぼんやりと見上げると、そこには〝純銀の十字架〟を手に持った神楽坂先生がいました。

「……うちの看護婦に〝色目(まがん)〟を使わないでくれ」

「いやいや、今のは暴発だから! わざとじゃないってば!」

「知っている。だが不注意であることには変わりない。貴方が油断しなければ防げたはずだ」

「そ、それは、そうだけれども……」

 情けない声で言い訳をして、折挫様――じゃなくて、灰城さんは涙目で先生を見上げていました。どうやら背後に忍び寄った神楽坂先生から、その十字架で後頭部を殴られたようです。

 そして、

「……はっ! 今のわたし、とんでもないことを考えていたような!?」

 正気を取り戻したわたしは、腑抜けた顔に力を込めて元通りに直します。

 さらには互いの肌が触れるほど近づいてしまった灰城さんから、そそくさと身を離して縁側の上で倒れ込むよう蹲ります。

 そんなわたしに神楽坂先生は、彼らしくなく感情的になりながら尋ねつつ手を差し伸べました。

「気分に変調をきたしてないか? おかしなところがあるなら、いますぐ言いなさい」

「ひゃ、百年の恋が冷めた気分です」

「なら安心していい。しかし、もうすこし遅ければ、君は今頃〝灰城折挫の眷属〟になっていたかもしれない。彼の思惑とは無関係に、君自身の意思によって」

「それは……正直、嫌すぎるんですけど」

「ご、ごめんなさいぃ……」

 わたしがバッサリと灰城さんを拒絶すると、あきらちゃんの手前にも関わらず、彼は縁側の上で〝日本式土下座〟をぶちかましてきました。

「なんですか、いきなり。かっこわるいです」

 ……うわぁ。

 わたしは心の中で溜息を吐きましたが、事態を把握していないであろう、あきらちゃんは容赦なく罵声を浴びせていました。

 いまの彼は、怒りや呆れを通り越して、憐憫すら感じるほど惨めなものでしたから。

「……でも、まあ。応援しますよ」

「え、いまなんて?」

「なんでもないですよ。先生、ありがとうございます」

「ああ」

 先生の手を取って立ち上がったわたしですが、なんだか照れ臭くなって、それ以上は何も言えませんでした。


               *

 

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