八-ニ アイ
目が覚めると真っ白な天井がこちらを覗き込んでいた。
まだ頭の中が朦朧としている。
背中から鈍い痛みを感じる。どうしてだったかしら……あのおぞましい内容の手紙を読んで、言われたまま神社の境内に来て、そして……
そうだ、後ろから鈍器のようなもので殴られたのだ。その後、体を刺すような痺れる感覚の後気を失って……
ハッと我に返るとすぐさま体を起こそうとした――が体が思うように動かない。体が紐のようなもので括りつけられているようだ。背中からは、衣擦れのような感触がある。テーブルに薄い布でも敷いてあるのだろうか。
慌てて頭を左右に動かし、状況を確認しようとした。見える範囲にあるのは、台車とその上に乗っている金属の容器、それにねずみ色をした机だけであった。
助けを呼ぼうと声を出そうとしたが、言葉にならないくぐもった声しか出すことができなかった。ガムテープで口を覆われているようだ。
必死になって、声を出した。体を揺らした。頭を振った。どれもこれも全く意味のない行動だった。いつの間にか目には涙が流れていた。
必死になって暴れ続けていると、見えない方向からガチャリと扉の開く音がした。
「おや、目が覚めましたか」
聞き覚えのある声だった。この声を忘れるはずがない。あの女だ。手紙を出したのも、私を縛り付けたのも、全部あの女がやったのだ。
ゆっくり歩きながら近づいてくると、満面の笑みを浮かべながらこちらを覗き込んできた。
「気分はいかがでしょう。テーブルとカーテンを使って、急ごしらえで作ったベットですから、あまり寝心地は良くないとは思いますけど」
ふふっ、と笑いながら不気味に光る双眸を真っ直ぐにこちらの目に向けていた。こちらは泣きながら、くぐもった声で抗議することしかできなかった。
「ああ、ごめんなさい。このままじゃ、喋れませんね」
と言うやいなや、口にかかったガムテープを一息に引き剥がした。
痛い、と思ったがそんなことを気にしている場合ではない。すぐさま名前を叫んだ。
「私を縛り付けて一体何をするつもりなの! ”榊間莉那”!」
「さあ? 何をするつもりなのでしょうね」
榊間は微笑を浮かべながら、少し戯けたように答えた。
弓立は榊間が自分を縛り付ける理由について何となく察しが付いていた。
「……復讐するつもりなんでしょ」
弓立も少し笑いを浮かべながら、相手を煽るようにそう言った。弓立にはそれ以外考えられなかった。それだけのことはしてきたのだ。
弓立は相手の目的を言い当てることで、精神的に優位な状況を作ったつもりだった。しかし、榊間は少しも動揺した素振りを見せることはなかった。相変わらず笑みを浮かべたままこちらの目を覗き込んでいた。
「復讐?」
「そうよ! 復讐よ! 私が彼を、”桐生”くんを殺したから、その復讐をしようとしてるんでしょ」
「ああ、なるほど。粋人が殺されたことを恨んで、私が復讐しようとしていると考えているんですね」
「そうよ、それ以外考えられないでしょう。どうして私が彼を殺したことをあなたが知っているかも簡単だわ。彼を殺した神社に私がうっかり落としてしまった生徒手帳を拾ったからでしょう。手帳を探しに神社に戻ってみると、手帳どころか、彼の死体もその痕跡もまるまる消えていて驚いたわ。全部あなたがやったのね」
「ええ、確かに死体の処分も手帳を拾うのも全部私がやりました。なかなか骨の折れる作業でしたよ」
榊間はその当時の状況を思い出しているのか、頬に手を当てて少し困ったような表情を浮かべていた。
「そして今度は、私の生徒手帳をダシにして今度は手紙で私を神社まで呼び出したのね。私をこうやって縛り付けるために」
「その通りです」
榊間はさも当たり前のことのように答えた。
「……私を痛めつけようが、どうしようが構わないわ。でも……」
弓立は気がつくと、笑みを浮かべていた。
「でも、これで愛する彼は私のもの! もう誰にも私の彼を奪うことはできないわ! 当然よ、彼はもう死んだんだもの! 死んだことで私の中の彼は永遠になったんだわ! 彼が私以外の誰かに取られるなんて怖気が走る! 彼をずっと見てきた私を差し置くなんてあっていいはずがないじゃない! 取られるぐらいなら、穢されるぐらいなら、自分の手で殺したほうがいいわ! それなら、ずっとずっと、綺麗なままの彼でいてくれるわ! 彼を一番愛しているのは私なの! これが私の愛の形よ!」
弓立は笑いが止まらなかった。自分の愛が相手に優っている――そう信じて疑わない。疑いようのない。覆しようのない勝利宣言だ。
「あなたが彼と何があったかなんて知らないわ。彼を殺された怒りで私を八つ裂きにでもするといいわ。でも残念ね。彼はもう死んでいるの。これから先、あなたが何をしようが彼にあなたの愛が届くなんてことはなくなったわ」
弓立の完全なる勝利宣言……のはずだった。しかし様子がおかしい。榊間は「ああ、なるほど」といった表情でこちらを見ている。怒りも動揺も一切ない。なぜなのか。怒りのあまり弓立を殴りつけてもおかしくない。悲しみで涙を流してもおかしくないはずだった。なのにどうして榊間はこんなにも整然としているのだろう。理解ができなかった。
「彼を殺したのはそういうことでしたか。そうですね、わかりました。しかし、弓立さん。あなたはひとつ勘違いをしていますよ」
「……勘違い?」
「そう、勘違いです」
榊間は口元に人差し指を立てながら、ニッコリと笑顔を投げかけていた。
「私がそんな理由で、あなたを縛り付けるわけないじゃないですか。復讐なんてしたって彼が戻ってくるわけじゃありませんし。粋人が死んでしまったのはまあ、事故みたいなものでしょう。事故は悲しいし、理不尽ではあるけど、どうしようもないことです。彼を失ったことは、それはもう、私の人生にとっては大きな痛手です。私は彼をどうしようもなく、愛していますから。あなたはどうですか。あなたも彼を愛しているのでしょう。彼をどれほど愛していますか」
……考えが読めない。榊間は一体何を考えているのか。復讐ではなければ、なぜ、私を縛り付けているのか……どうせ、強がりに決まってる。それにしても、私に彼への愛を問うなんて、なんて愚かな女なのだ。知らしめてやらなければならない。私の愛を。彼への愛が榊間よりもずっとずっと深いことを。
「あなたと比較にならない彼を愛しているわ。彼が、座る仕草、立つ仕草、屈む仕草、歩く仕草、走る仕草、話す仕草、聞く仕草、食べる仕草、笑う仕草、悲しげな仕草、困った仕草、嬉しげな仕草、ぼんやりした仕草、真面目な仕草、考えこむ仕草……すべてが、すべてが愛おしいわ。私は、彼をずっと見てきたわ。学校へ行く時から帰る時も、彼を追いかけて、彼の動作の一つ一つをずっと見てきたわ。彼が小学校に入ってきたからずっとよ。小学校から中学校、高校生の今の今まで、ずっとずっと見てきたわ。どう、あなたとは比較にならないほど彼を愛していることがよくわかるでしょう」
私の予想に反して、榊間は前より増して嬉しそうな表情を浮かべている。おかしい。この女はおかしい。榊間に対する印象がますます不気味なものになっていくのを感じる。どうして悔しがらないのか。どうして怒りに燃えないのか。
「……どうして」
「嬉しそうなのか、ですか」
榊間は私の言葉を先読みし答えた。
「当たり前じゃないですか。私の愛する彼に対して、こんなにも思ってくれている人がいるんですよ。嬉しいに決まっているじゃないですか。私とあなたは同士みたいなものですよ」
「――同士なんて!」
冗談じゃない。弓立は榊間の考えが全く理解できなかった。愛する彼をどうして誰かと共有したりできるだろうか。考えられない。
「ああ、予想以上です。あなたは予想以上に彼を愛してくれていた。彼を見ていてくれていた。なんて私は幸運なんだろう……そうですね、あなたには彼を愛してくれたお礼に、見ていてくれていたお礼に、とっておきのものを見せてあげましょう」
というと榊間は弓立の側からから離れた。一体何を見せようというのか……まるでわからない。ただただ不気味で仕方がない。しばらくすると重々しいドアを開く音がした。それと共に、こちらにまで冷気が漂ってきた。どうして冷気が、と思っている間に榊間は何かを持ってきた。
「おまたせ致しました。これがあなたに見せたかったものです」
というと榊間は弓立の顔の前に何か丸い物体を持ってきた。何故かひんやりとしている。よく見るとこれは……
弓立の目が大きく開いた。動悸が激しくなる。ガクガクと体が震えていた。冷や汗も全身から溢れて止まらない。吐き気が止まらない。涙が目に溢れていた。脳の活動が停止しかけていた。思考がまるで追いついていない。どうして、どうしてこんなものを持っているの。意味がわからない。理解ができない。榊間は――この女は完全に狂っている。だってこれは、この顔は――
「粋人のお母様の頭です。ご存知でしょう」
そう、これは桐生の母親の顔だ。何かで冷やされているのか、自分の記憶よりも格段に白い顔になっている。そして、その顔に首から下は見事になくなっていた。どうして桐生の母親を殺す必要があったのか。どうして母親の頭を持っているのか。わからない。わからない。わからない。
「……戸惑った顔をしてますね。まあ、突然これを見せられたら誰だって戸惑っちゃいますか」
「……」
「ああ、なぜこれを持っているかですか。気になりますよね。そうですね……」
というと榊間は頭を丁寧に何かの容器に戻してから言葉を続けた。
「先ほど、あなたは粋人に対する愛を語ってくれましたよね。ずっと粋人の一挙一動を追う、ずっと粋人を見る……私もね、根本的にはあなたと同じなんですよ。粋人が何をしているのか見ていたい。何をしているのか知りたい。粋人の”すべてを知りたい”んです」
……私が榊間と同じ? この狂人と? ……意味がわからない。私は、いくら彼を愛しているからといって、彼の親を殺したりしない。首を切ったりしない。そんな理由がどこにも見当たらない。理解できな――
そのようなことを考えているうちに榊間は言葉を続けた。
「では、すべてを知るにはどうすればいいのでしょうか……答えは簡単です。記憶を覗けばいいんです。彼の記憶、彼に関する記憶、すべてを知ることができれば、彼のすべてを知ったと言えます。しかし、すべての記憶を覗くことは容易ではありません。現代の技術では生きたままはもちろん、生死を問わない状態にして良くても、記憶を覗くことはできないでしょう。しかし、未来なら、それは出来るようになっているかもしれません。彼の死から、私は反省しました。彼も、彼に関する記憶を持っている人も、不運があれば、死んでしまいます。記憶がなくなってしまいます。そうならないためには、私が記憶を保持しておけばいいんです。記憶を読み取れる未来になるまで保管しておけばいいんです。だから私は、彼の記憶を蓄積している脳を集めているんです」
「彼の記憶を一番蓄積している人は間違えなく彼自身です。正直、彼さえいてくれれば、それで十分だったのですが……生憎、彼はあなたに殺されてしまいました。死んでしまった彼を急いで冷凍保存したのですが、あの様子だとおそらく手遅れですね。何か代わりになるものを見つけなければいけません。では、次に彼に詳しい人は誰か。それは間違えなく彼の両親です。彼の両親も彼のようにいつ死んでしまってもおかしくありません。だから私は、彼の両親の頭を、脳を、記憶を保存したんです。これが、私が彼のお母様の頭を持っている理由です。お分かり頂けましたか」
弓立は榊間の長々とした説明を黙って聞くことしかできなかった。
「では、次に復讐でもないのに私があなたを縛り付けている理由です。まあ、これは、今までの私の説明を聞いていれば大体は想像はつきますよね。もちろん、あなたが彼について詳しいから、あなたの記憶が欲しいからです。彼を殺したあなたは、彼を非常に愛していた。そんなあなたを私は見つけることができた……不幸中の幸いというやつですね。前々から、彼をよく見ている人だと思ってあなたに目をつけていたんですが、予想以上でしたね。私はあなたの話を聞いて本当に感動しました。彼のより詳しい情報が手に入れられると思って、ひとりで舞い上がってしまいました。私の他にも彼を愛している人がいると知って、仲間がいると知って嬉しくなってしまいました。だから、あなたにも私の考えを、感情を、喜びを、知って欲しくて頭を見せたのですが……あんまりお気に召していないようですね」
弓立は気が付くと泣いていた。目から涙が溢れだして止まらなかった。溢れだした涙が延々と弓立の頬を濡らしていた。顔は小刻みに揺れていた。完全に血の気が引いていた。目の前にいる榊間が怖くて怖くて堪らなかった。榊間の言っていることを知ることはできたが、理解することはできなかった。いくら彼の記憶がほしいからといって彼に関わる人の首を斬るなんて異常だ。常人の発想ではない。目の前にいるのは本当に人間なのだろうかと、そう疑いたくなる。
「よく考えてみてください。あなたは、彼が産まれた姿を見たことがありますか。彼が初めて喋る姿を見たことがありますか。初めて立つ姿、歩く姿、食べる姿……私達が知りようがないこと全部、全部知ることが出来るんですよ。これは、とても、とても、素晴らしいことだとは思いませんか」
榊間は両手を頬に当て、恍惚な表情を浮かべていた。嬉しげなため息をつき、今にも昇天しそうな表情だった。
榊間はその一通りの動作に満足した後、弓立の頬に指を触れた。恐ろしく冷たい、冷えきった手をしていた。
「私は楽しみにしているんです。あなたの頭のなかにどんな彼がいるのか」
榊間の手が弓立の頬を優しい手つきで包み込むように覆っていた。
「小学校での彼は、中学校での彼は、高校での彼は……一体どんな姿なんでしょう。ああ……非常に楽しみです」
榊間は指先で涙を優しく拭い取っていた。
「泣くことはありませんよ、弓立さん。あなたが亡くなっても、あなたの愛する彼の記憶は私が保管しておきますから。あなたの彼への愛情も、思いも決してなくなることはありませんから……」
榊間は手を離すと屈んで何かを手に取った。
「それでは弓立さん」
榊間は手に取ったのは注射器であった。麻酔でも入っているのだろうか。
……弓立は後悔していた。どうしてこうなってしまったのだろう。一体、どこで間違えたのだろう。一体何を……
「おやすみなさい」
榊間の声が次第に遠くなり、そのまま意識がなくなった……
榊間は弓立の頭を抱えていた。三度目ということもあり、綺麗に切断することができた。心無しか、弓立の顔の表情も安らいだもののように感じる。
榊間は弓立の頭を頬ずりした後、液体窒素の詰まった容器へ慎重に入れた。
榊間の目の前には大きめな金属の容器が四つ、小さめな容器が一つ置かれていた。それぞれ、榊間の大事な宝物である。
四つの容器は彼の記憶――つまり、彼の過去を表している。そして小さな容器は……
榊間は小さめの容器から中身を取り出した。それは白い物体が詰まった小瓶だった。
その小瓶を見つめると自然と笑みが零れた。
この小瓶は、彼との未来である。彼との物語はまだ終わりではない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます