本文

 はあたしと彼らの絆であり、思い出であり、友情の証であった。

 しかして、あたしの目の前で、パーンと小気味好い破裂音を立てて、弾けて消えたポップ・アンド・ヴァニッシュ



 ハイスクールから帰ってきたあと、あたしはずっと自室にこもっていた。どうしてかっていうと、なぜだか慌ただしくしているママの機嫌が、すこぶる悪そうだったから。

 ママはこわい。逆らってはいけない。

 ママはあたしを女手ひとつで育ててくれたすごい人だ。その事実だけでも十分頭は上がらないんだけど、さらに悪いことに、彼女はあたしの通うハイスクールの教師でもあって、子どもを叱ることに関しては熟練の腕前だった。

 ちょっと口応えしようものなら、カウンターでお説教のラッシュが飛んでくる。それでもこちらが非を認めない場合は、あらゆる家事がおざなりになる。

 それはもう、ひどいものだ。ハンバーガーのバンズに、ねばねばした茶色のビーンズを挟んだり。洗濯機に洗剤と柔軟剤を逆にして入れたり。あたしの貯金箱の中に掃除機のホースを突っこんだり……。

 さすがにいまの歳なら、ある程度の家事は自分でできるのだけれど、それでも幼い頃に植えつけられたトラウマは深刻だ。ママに逆らってはいけない。

 とはいえ、尾っぽを踏みさえしなければ、基本的には温厚な人だ。そんなママが、ずっと電話に向かってヒステリックに騒いでいる。聞き耳を立てたかぎりでは、受け持っている生徒について学長と相談しているようだった。残念ながら、具体的な内容までは聞き取れない。

 ため息をついて、床に散らばっているコミックのひとつに手を伸ばす。スナック菓子もつまみたいところだけれど、キッチンまで出向いて、とばっちりを食うのは勘弁だ。お気に入りのバブルガムをいくつかまとめて口に放りこみ、空腹をまぎらわした。

 読書に没頭したまま、しばらく時間が経った。夕飯どうしようかなー、このままじゃテレビも見らんないなー、なんて考えていたとき、ドア越しにママの声が響いた。

「アリス! いる?」

「ハイ、ママ。お勉強中だよ!」

 びくつき、反射で嘘をつく。当然のように見透かされてはいるのだろうけれど、ママは時間が惜しいようだった。

 ドアを開けて確認することすらせず、

「そう、偉いわね! 本当なら! 少し出かけてくるから、適当に食べておいて!」

 そんなことを言って、バタバタと音を立てて外出していった。

 安心して部屋から出る。そしてキッチンへ向かう途中で、テーブルの上に残された学生レポートを発見した。

 ははぁん、とニヤつく。どうやらこのレポートの主が、ママを卒倒しかねないほど興奮させている人物らしい。なかなかやるじゃあないか、なんて考えながら紙束を手に取った。



   マルドゥックシティ 私立サン・アンダーソン学園

   第十二学年 社会科ソーシャルスタディレポート

   担当教師 ミズ・ジェイン・スタンリー

   提出者 ルーン・フェニックス



 知らない名前の上級生が、やっぱりママ宛に提出したレポートだった。

 しかしつづく一文を見て、あたしは思わず目をひんむいた。



  『ウェストベイの〈赤ん坊射殺ベイビー・ガンダウン〉事件について』



 そのタイトルだけで、「あ、これヤバい」ってのがわかった。問題になって然り。きっと内容も、書いた本人も危ないやつ。少なくとも、普通の学生が社会科の課題で選ぶようなテーマじゃあない。

 気になって、すぐにでも中身をたしかめたかったけれど、とにかくお腹がすいていたので、まず夕食をこしらえることにした。

 ボイルしたソーセージと、甘いスクランブルエッグ。そいつをレタスと一緒に、ぬくめたパンの切れ目に挟む。仕上げにケチャップとマスタードをびゃーっと塗りたくって、簡単な夕食の完成だ。

 あたしはミス・フェニックスのレポートを小脇に抱え、大皿に盛った三本のホットドッグと、冷蔵庫から取り出したミルクを手に持って自室へ向かった。


 三十分ほどかけてレポートを読み終えた。ベッドに寝ころび、パン屑を紙の上にぽろぽろとこぼしながら。実際はマシンピストルが連射された冒頭の記述辺りで食欲は失せていたので、ホットドッグは持っていただけだったのだけど。とにかく、夢中になって読んだ。

 その内容は、驚きに満ちたものだった。

 タイトルにもなっているウェストベイの赤ん坊射殺事件と、そして同一犯による警官が撃たれたオフィサー・ガンダウン事件。

 少し前にニュースでも大きく取り沙汰された、ふたつのいたましい事件のあらまし。そいつをこのレポートは、赤ん坊の母親を保護した〈イースターズ・オフィス〉という組織から得た情報をもとに、克明に述べていた。淡々と、努めて冷静に。しかし時折、感情をあらわにして。

 ミルクのパックに口をつけながら、ママが騒ぐのも無理ないなと思った。

 でもあたしは、ミス・フェニックスの気持ちこそを、わがことのように理解できた。

 事件の被害者や加害者へ向ける心情もさることながら、このレポートはミスターオーなる人物や仲間たちへの、信頼と友愛に満ちている。

 無意識かもしれない。けれど、おそらく彼女は伝えたかったのだ。自分が気をゆるしている存在が、どれだけ悲惨な現実と向き合い、戦っているのかを。

 そしてきっと、自慢したかったにちがいない。彼らがどれだけ素晴らしく、尊い行いをしているのかを。

 

 そう思った。共感していたはずなのに、気づけば、ふつふつと怒りがわいていた。

 フェニックス――もはや敬称をつけるのにも抵抗がある――は自分より彼らを知っている。近いところにいる。その事実が、レポートの内容以上にあたしの心を大きく揺さぶった。

 そう、彼女だけじゃあない。あたしだって、ミスターOを知っているのだ。

 イースターという名前も、おぼろげながら記憶にある。風船みたいにお腹のふくらんだ、まんまるとしたドクターだ。まあ、それはいい。

 本棚の隅に置きっぱなしの、古びたゴムボールに目を向けた。残骸と呼ぶにはかわいすぎる、かつて彼が変身した姿。別れ際に贈られたプレゼント。

 あたしは決心した。あれ以来、ずっと望んでいた機会。会いにいこう。

 ウフコックに、会いにいこう。



 どのくらい前の話になるのだろうか。あたしの歳がまだとおにも届いていないときだから、だいたい六、七年前か。

 その日の夜、あたしはママが海外へ出張していったのをいいことに、ベビーシッターの目を盗んで家を抜け出し、スラムに程近い区域をめざしていた。理由はひとつ。好奇心。

 向かう先のウェストベイには、“灰色の大通りグレイ・アヴェニュー”と呼ばれるストリートがある。辺りの道路も建物も灰色一色に染まっているのが通称の由来だ。

 親も先生も、この一画にはぜったいに近寄ってはいけないと言う。なぜなら、さほど銃撃事件の発生が珍しくない危険区域だから。

 あるときクラスの中で、そんなグレイ・アヴェニューが夜には姿を変えて、真っ赤に燃えあがった“炎の大通りフレイム・アヴェニュー”と化すなんて、おっかないうわさが流行った。

 人魂だ。いやプラズマだ。無念のうちに殺された、スラムの住人の呪いだ。クラスメイトは、だれもかれもが好き放題に言っていた。しかしどれも、子どもの妄想の域を出ない。あたしはそいつをむずがゆく感じて、実際にたしかめてきてやると高らかに言い放ったのだった。

 私立サン・アンダーソン学園は名門とはいかないまでも、中流家庭以上の子女が集う、比較的高水準の学び舎だ。

 校門にはいつも警備員ガードがついているし、敷地を囲む壁に取りつけられた監視カメラは、あやしい人間を見逃さない。校舎沿いに点在する花壇は季節ごとの花々が絶えず、子供たちは、いつもぴかぴかの机の上でノートをとる。食堂のメニューは豊富で、アレルギー体質者向けのものも用意されていた。

 親と、まわりの大人たちの愛によって用意された、安全で衛生的な箱庭。だからこそ、あたしは本当の危険を知らなかった。どれだけテレビで同じ都市の人間が死んだというニュースが流れても、別世界での出来事としか思えずにいた。

 当時のあたしやクラスメイトたちは知らなかった。フェニックスのレポートにあるように、フレイム・アヴェニューは塗布防止剤に街灯の光が反射して、一部の建物が燃えているように見えることが理由でついた呼び名なのだと。そしてその仮初めの炎の色をたしかめる行為は、ギャング志望の若者たちの度胸試しになっているくらいには危険だということを。

 もし低所得層チープ・ブランチの生まれだったなら、こんな愚行は冒さなかったのに。裕福ゆえの無知は、ときに致命的なまちがいを犯す。

 長い栗色の髪をうしろでひとまとめにくくり上げて、闇を縫うように、とことこ駆けて。途中で拾ったタクシーのドライバーには、あれこれ理由を並べ立てて。そうしてあたしはここへ来た。来てしまった。うわさをたしかめるために。深夜、ひとりで人目を避けて。こっそりと。

 だって、大人たちの言う「近寄ってはならない」はさっぱり現実感がなくて、なによりつまらなかったから。

 そして、すぐに後悔することとなる。


 ストリートに踏みこんで少しして、十ヤードほど先の暗い路地裏から、ふいにうす汚れた男が現れた。おびえている様子で、しきりに背後を気にしている。

 男はすぐに、棒立ちになっているあたしの存在に気づいた。なにを思いついたのか、下卑た笑みを浮かべているのが遠目からでもわかった。辺りに、ほかの人影はない。

 逃げなければ。頭ではそう理解していた。しかし、からだはうごかない。声も上げられなかった。男への恐怖だけが理由じゃない。混じりっ気のない悪意を大人から向けられたのは、あたしはこのときが初めてだったのだ。

 早くも眼前に迫った男が腕を伸ばす。けれど、その泥と垢のこびりついた手があたしに触れることはなかった。

 聴き慣れない、乾いた音が響いた。パーティーで鳴らすクラッカーよりは重く、テレビで見た軍隊の礼砲よりは軽い、ちいさな炸裂音。

 直後、あたしの目の前で男がくずれるように倒れる。そしてその背後から新たに現れた黒髪の青年。もがく男のぼろぼろのシャツが、赤く染まっていく。手にしている拳銃を見て、青年が後ろから撃ったのだと悟った。彼は倒れた方とはちがい、スーツ姿で、身だしなみも整っていた。

 青年はしゃがみこんで、撃った相手に何事かをささやく。すると倒れた男は砂利まみれの顔を上げ、あたしを見て――

 二度目の銃声。こちらへ向けられていた顔に、ちいさな穴が空いた。衝撃で右の眼球が飛び出るのが、はっきり見えた。飛散する、赤やピンクの肉片も。

 撃った青年はうごかなくなった相手をしばらく眺めて、やがて立ち上がった。そうしてあたしを見つめる。

 短く刈り上げた黒髪と、赤いどくろのピアス。なにより左頬のおおきな火傷痕が特徴的だった。

 青年は口を開きかけ、すぐにつぐんだ。その瞳は、子どもでもわかるくらいに同情的な光を湛えていた。しかし、銃口はしっかりとこちらに向けられている。

 口封じ、というやつなのだろう。撃った現場か、撃った本人か。いや、どちらもか。とにかく、見てはいけないものを見てしまったのだ。

 縛りつけられたようにうごけず、いまだ声さえ出せないあたしは、目を強くつぶってそのときを待った。

 ああ、あたしはここで死ぬんだ。フレイム・アヴェニューの真相を知らずに。ママの海外土産も受け取れずに。父親の顔も知らないままで。なんてことを考えながら。

 しかし例の乾いた音は、一向に聴こえはしなかった。


 すっかり日の出た頃に現れた、疲れた表情を浮かべた女刑事は、クレア・エンブリーと名乗った。

 あたしを保護した制服警官とのやりとりから、本来の管轄はちがうものの、受け持っている事件との関連性から駆けつけたらしいことがわかった。彼女は、いつのまにか姿を消していた青年と、撃ち殺された男の資料らしきものを手に、やさしくあたしの名前を聞いた。

 恐怖ですくんだ口を、なんとかうごかして答える。

「アリス・スタンリー、です」


 このときクレアがなぜ柳眉をひそめたのかは、いまだにわからない。何度訊ねても、教えてはくれない。

 どうあれ、このとき彼女はなにかに気づいた。そのおかげで、あたしはたぶん命を拾い、そして彼らと会うことができた。感謝してもしたりない恩人だ。

 クレアとは、いまでも頻繁に連絡を取っている。ハイスクールに上がってからは、やたらとママの留守の日を聞いてくるのが気になるけれど、少し歳の離れた、大事な友人だと信じている。


 クレアはおおきな手をした精悍な男性を電話で呼び出した。フライト・マクダネル刑事。あたしが巻きこまれた事件について、クレア以上に精通している専門家ということだった。

 彼の車に乗りこみ、移動することになった。

「なにかあったら連絡して」

 別れ際にクレアから、アドレスの書かれた紙片を手渡された。銃撃のショックが抜けきらないあたしは、だまってうなずくだけだった。フライト刑事が神妙な顔で「……まさかな」とつぶやいていたけれど、このリアクションの理由についても、いまだによくわからない。

 向かった先はミッドタウンにある、四階建の幅広いビルだった。その二階のオフィスに、彼らはいた。

 フライト刑事に近い空気を纏った、しかし、より険しい顔をした屈強そうな男性。

 たくましいからだに、いくつもの刺青を入れている若々しい青年。

 そしてデスクにお尻をのせた、短い金髪の女性。

 軍人と、不良と、お行儀の悪いすれた女性。

 それが彼らの第一印象。

 女性がバブルガムを噛みながら言う。

「こりゃあ、ずいぶんかわいい子リスが来たね。ヘイ、お嬢ちゃん。名前なんての?」

 あたしは彼女のおっかない外見と、思い返される女刑事の反応とに少しだけ警戒しながら名乗った。しかし女性は、にいぃっと笑うだけ。頼りがいがあって、素敵で、カッコいい笑顔。不思議なことに、それだけで警戒心がうすれていった。

「ふうん。名前もまた、かわいらしいや。あたしはラナ。よろしくね、アリス」

 彼女はデスクから降りて、あたしの髪をくしゃくしゃにしながら撫でた。

「ここには、こわいものなんてないからね」

 そのたった一言に、どれだけ救われたことだろう。言われるがままに連れてこられて、まだろくに説明も受けていない。状況も、場所も、いまあたしを囲む大人たちについても。これから自分がどうなるのかさえわからない。

 なのにこのとき、とにかく安心したのだ。

 緊張の糸が切れ、気づいたら嗚咽がもれていた。ふるえが止まらない。ぼろぼろと涙があふれた。

「こわ、かっ……たぁ」

 頭に置かれている手に、力がこもる。

「もう大丈夫さ。いまは休みな。あとで、おしゃべり好きなデスクワーカーどもが、あんたが今後どうすべきかをペラペラ語ってくれるさ」

 彼女はシャツが汚れるのもかまわずに、泣きじゃくるあたしを抱きよせ、やさしく抱きしめてくれた。


 四階の仮眠所で睡眠をとったあたしは、目を覚ますと、あらかじめ言われていたとおり二階の応接室へ向かった。そこには、ふたりの男性が待っていた。

 ルーン・フェニックスのレポートにあった言葉を拝借するなら――それがゆるされるなら、あたしは生命保全プログラムのひとつである09オー・ナイン法案に基づいて、証人として保護される予定だったのだろう。

 おそらくこのとき、くわしい説明を受けたはずなのだけど、まだら色の髪をした責任者らしき男性や、タイヤみたいなお腹をしたイースター博士の話は冗長で、むずかしくて、さっぱり頭に入らなかった。

 ふたりは幸い、あたしが子供であることや、理解が追いついていないことに対し、つけこむようなことはしなかった。がっついてサインを急がせることもしなかった。

 代わりに、もっとひどいことをした。

 少し席をはずしたまだら髪の責任者が、あの軍人風の男性を引き連れて戻ってくる。

 そして、

「保護証人としての仮登録が済むまで、この“徘徊者ワンダー”ことディムズデイル=ボイルドを護衛につけよう。私の信者たちの中でも、指折りの戦闘力を持つ男だ。これから毎日二十四時間、彼が君に張りつく。だ。ミス・アリス。いまこの瞬間、君の身の安全は保証された」

 気色ばんだ顔で、そんなことを言う。ふざけるな。

 ミスター・ボイルドは過去出会った大人たちの中でも、もっとも強そうで、陰気で、融通がきかなさそうな人だった。けっして子守りが好きなタイプには見えない。ぜったい会話が成り立たない。そんな人と二十四時間? 気が滅入る。冗談じゃないと叫びたかった。

「……できればラナ姉さんか、せめてあの不良の人がいいです」

 つい控えめに、けれど大変失礼なことを本人の前で言ってしまう。しかし手を叩いて笑う白衣のふたりとちがって、ミスター・ボイルドは眉ひとつうごかさなかった。

「ふむ。どうしてもと言うのであれば考慮しよう。……なんて、もちろん二十四時間というのは冗談で、はじめから交代要員としてラナやジョーイにも協力させる予定だったがね」

 茶目っ気たっぷりに、まだら髪は舌を出してそう言った。後にも先にも、こんなに腹が立つ、子供みたいな大人をあたしは知らない。

「しかし私がを選んだのは、君のメンタルケアが目的でもあるのだ」

 あたしは困惑しながら、ミスター・ボイルドをまじまじと見つめた。彼もこちらに顔を向けてきたので、パッと目をそらす。こう見えて子ども好きで、話好きだったりするのだろうか。

「君ぐらいの年頃にとって、ほど最高の遊び相手はいないということだよ。さあ、恥ずかしがらずに出てきたまえ、ウフコック」

 ミスター・ボイルドが、革手袋をつけた左手をゆっくりと差し出した。つられて顔を寄せる。すると手袋だったはずのものが、にゅにゅにゅっと手のひらの上に集まっていき、。そして気づけば、別のなにかへと変貌を遂げていた。

 ネズミだ。金色の体毛を輝かせる、一匹の美しいネズミ。あたしは目をまるくした。

「こんにちは、お嬢さん」

 ミスター・ボイルドの手の上で、ネズミが丁寧にお辞儀する。当然のように二本足で立っていた。

「ネズミは、お嫌いじゃ――」

「ぎゃあ!」

 悲鳴とともに、ばちん、という音が響く。私は反射的に上げた手を、ネズミに向かって振り下ろしていた。

 違和感。あるべき嫌な感触がない。そして状況だけ見れば、ミスター・ボイルドとタッチを交わしたみたいになっている。手をかさねたまま、相手の顔を見上げた。やっぱり表情は読み取れなかった。

「し、失礼しました」

 視線を落とし、そぉっと手を離した。そこにはうっかり叩きつぶしてしまったはずのネズミの姿はなく、代わりに、ちいさなゴムボールがあった。

「おどろかせてすまない、アリス。もっとレディに対して配慮すべきだった」

 ゴムボールから、傷ついた気持ちを隠しきれない声が届いた。

「どういう、こと?」

 あたしの疑問に、いっそう満面の笑みを浮かべた、まだら髪の男性が答えた。いまやゴムボールと化したネズミが、どういう存在なのかを。それはもう、事細かに。けれどやっぱり、むずかしすぎてよくわからない。

 あたしの混乱を察してか、ミスター・ボイルドが初めて口を開いた。

ネズミだ」

 これ以上ないほど簡潔で、完璧な答え。

「――不思議な」

 こちらの動揺がうすまったのを感じ取ったのだろう。ゴムボールが、再びネズミの姿に戻った。

かわいくてキュート・アンドしゃべるトークス、不思議なネズミ」

 金色のネズミが、そっと目を細める。そして、ちいさなをこちらに伸ばした。

「ウフコックだ。よろしく頼む」

 あたしはおずおずと、彼の手を取った。親愛、和解のシェイクハンド。

 この瞬間、あたしとウフコックは友達になった。


 長引くと思われたあたしの保護生活は、意外とあっけなく終わりを告げた。あの晩、なぜかあたしを見逃した、例の青年の死体が発見されたのだ。

 ただの目撃者にすぎないはずのあたしが、なぜ保護証人たりえたのか。結局全容を把握することなく、書類にサインをすることもなく、ウフコックやラナ姉さん、ジョーイたちとは数日で別れることとなった。

 海外出張を切り上げてきたママに一階ロビーで手を引かれ、ごねて大泣きしているあたしに、ミスター・ボイルドが再び左手を差し出した。革手袋をした手の上には、ゴムボールが転がっている。

 革手袋から声がした。

「餞別だ、アリス。受け取ってほしい」

 あたしはしゃくり上げながらうなずき、ボールを手に取った。ママは小首を傾げていたが、なにも言わなかった。もしかすると、ミスター・ボイルドの腹話術かなにかと思っているのかもしれない。

「もう、会えないの? ウフコックとも、ラナ姉さんとも」

 ラナ姉さんやジョーイとは、すでにオフィスでお別れを済ませていた。彼女は出会ったときと同じように、ぎゅっとやさしく抱きしめてくれた。ジョーイはだれかのお見舞いに行っていて、不在だったけれど。

「そんなことはない。君が望むなら、いつだって再会は可能だ。まあ、おそらくリスクを考慮した上で、複数の手続きが必要にはなるだろうが」

 あたしは泣きながら、つい笑ってしまった。

 煮え切らない、しかし真摯な答え。これが、あたしが世界一大好きなネズミだ。



 知り合いの上級生からルーン・フェニックスの情報を聞きだしたあと、あたしは気合を入れて髪を短く刈った。憧れのラナ姉さんみたいに。

 そしていま、学校帰りのフェニックスを尾行つけて、ミッドタウンのショッピングモールを歩いている。バブルガムを口に含み、さらにあのゴムボールを片手に持ちながら。

 ウフコックたちとの再会は、気に食わないけれど彼女に〈イースターズ・オフィス〉なる新しいオフィスまで案内してもらうのが一番の早道だった。

 みんなとの接触に関して、唯一の相談相手であるはずのクレアは、いつも非協力的なのだ。まるで、なにかを危ぶむかのように。これについては、ママも似たようなものだった。

 だからあたしは、いまラナ姉さんやジョーイがどうしているのかを知らない。あのレポートを読んだかぎり、新しいメンバーも増えているようだ。みんな、あたしのことを覚えてくれているだろうか。

 一抹の不安にとらわれていると、フェニックスがひとりの男に駆け寄った。葬儀屋みたいな暗い色のスーツを着た、硬い表情の男。

 その紳士的な所作で、フェニックスがずいぶん敬われているのがわかった。ひょっとしたら、レポートに名前のあったオフィスのメンバーのひとりかもしれない。

 なにかを受け取ったらしき彼女は、あっさり男と別れ、また歩き出す。

 ダメだ、これじゃキリがない。そう思ったあたしは首を巡らせて、だれも見ていないことをたしかめた。そしてゴムボールを握りしめる。

 彼女の後頭部に狙いを定め、振りかぶった。憂さ晴らしにちょうどいい、楽しいきっかけ作り。

 くらえ、あたしとウフコックの絆が詰まったゴムボール。

 嫉妬をこめた渾身の一投。

 彼らとの友情の象徴は、綺麗にルーン・フェニックスめがけて飛んでいく。しかして、ほくそ笑むあたしの意に反し、パーンと小気味好い破裂音を立てて、弾けて消えたポップ・アンド・ヴァニッシュ

「…………」

 思い出のボールがっ!

 愕然とするあたしと、音に反応して辺りを見まわし、首を傾げる道行く人々。そして変わり果てた姿で、ぱさり、と地面に落ちたゴムボール(だったもの)。

 ふらつき、悲しみに暮れながら歩み寄ったあたしは、無残なゴム皮をつまみ上げた。

 形質劣化? それとも空気圧の関係? よりによって、このタイミングで? さっぱりだ。なんもわからん。

 よく見ると、ゴム皮の一部が焼け焦げていた。かと言って、。そもそも彼女は、依然としてこちらに背を向けたままなのだ。

 背を向けたまま?

 かすかな違和感。周囲の人間はみんな、さっきの音に反応していた。しかし唯一彼女だけが、変わらず前を歩いている。まるで、起こるべきことが起きただけだとでもいうように、平然と。

 もしかして、本当に彼女が?

 馬鹿馬鹿しい考えだと思いながらも、あたしは引き寄せられるようにして駆けた。そしてフェニックスに追いすがり、肩に手をかける。

「ねえ、ちょっとあんた――」

「驚いたな」

 あたしの言葉を遮る、渋くて落ち着いた、なつかしい声。もちろんフェニックスのものじゃあない。声の主は彼女の手のひらの上で、二本足で立っていた。あのとき、信頼する相棒の手の上でそうしていたように。

 突然のことに、口をあんぐり開いて固まる。バブルガムが舌からこぼれて、地面に落ちた。

「まさか、こんなかたちで再会するとは。元気そうでなによりだ、アリス」

 感極まったあたしは、ちょっぴりつんけんしている表情のフェニックスの前で涙を流すまいと、手にしたゴムボールの成れの果てをぎゅっと握りしめた。

 そして、愛しい彼の名前を呼ぶ。

「久しぶり、ウフコック」

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pop 渡馬桜丸 @tovanaonobu

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