B-3
新たな趣味が与えてくれる生活の充実感とは裏腹に、私の生計は緩やかに苦しいものへとなりつつあった。私がバイク弄り本格的にのめりこみはじめたのと時期を同じくして、私が唯一の収入源として受け取っていた「採取」の対価は減額を続けていた。それは私の胸中に、半ば恐慌じみた不安感をもたらすのに何ら不十分ではなく、契約書に記された報酬規定に忠実に何度かの報酬減額を受けた後、ここ10年ではじめて、私は月に一度の「採取」を待たず彼らの店舗に赴いた。
良質な競合相手の増加と、私の「提供するモノ」自体の質の低下。担当の営業職員は、上品な微笑を保ったまま減額の理由を明快に答えてみせた。曰く、長年の投資と独自研究の成果が実を結び、「提供者」となることへのハードルが下がったこと。曰く、需要の拡大に応じ「提供者」の数が急速に増加したこと。曰く、供給量が増えた結果、基礎研究のサンプルに回す分の「提供物」の価値が相対的に低くなり、また彼らの顧客からの需要に応じて、「提供者」へ回す報酬に傾斜がかけられるようになったこと。理路整然になされる職員の説明は、彼らのビジネスにとって、私の価値というものが加速度的に相対的に減少を続けているという事実が、腹立たしい程に分かりやすいものだった。そしてそれは同時に、私が漠然としか理解していなかった、私の生計の正体、その全容を否応なく理解せしめるものでもあった。
脳科学の進歩の結果、人間の脳が灰白質のブラックボックスでなくなったのは、もう随分と昔の話になる。勉強し詰め込んだ知識や身体の動かし方のコツ、長年に渡る蓄積の結果形成された癖など、人間の持つ意識的・無意識的なあらゆる情報がどのように脳という器官に格納され、機能しているかという問いの全てに解が与えられていた。
その解の恩恵として脳のリバース・エンジニアリング――一般的に「義脳」化技術と呼ぶ――は、脳科学者たちの空想の域の垣根を乗り越え、現実の社会にとって、急速に身近なものとして接近しつつあった。何種類もの人工的に培養した生体部品と集積回路を組み合わせて、脳内に格納されたあらゆる情報をそっくり移し替えることの出来るこの人工臓器は研究を重ねた結果、人間の頭蓋骨に収まるコンパクトさと、生の脳味噌と遜色のない性能を実現しつつあり、医療の現場から注目を集めるようになっていた。
人口の脳味噌に、人間の生の脳味噌がもつ情報を書き出し利用する技術。誰かの脳味噌から書き出した情報を義脳化した別の誰かの脳味噌に書き込むという発想を、嗅覚の鋭い誰かが思いつくようになるまでにそう時間はかからなかった。倫理的観点からの反対論を抑え込む言い分を探すのには困らないほど、膨大な需要があった。脳疾患で後遺症を負った患者たちは健在だった頃の脳機能を取り戻したがっていたし、認知症を恐れる老人たちは、生まれ持ったやわな脳味噌よりも、何度でも取り換えの利く新品の脳味噌の中で自我を生かしたがった。こうした声に押し切られるように人間の義脳化施術は活発に行われ、その活況と比例して技術研究もますます熱を帯びていった。よりコストダウンを、よりスムーズに、より安全に。技術者と科学者たちの研鑽の結果、義脳化が「医療分野」の垣根からも飛び出し、ちょっと値は張るがお手頃の贅沢品として一般市場に姿を現したのがちょうど5年前だ。
「後遺症を患った脳梗塞患者でも痴呆老人でもない健常者が義脳化技術に何の用があるのか」という問いがナンセンスであることは、整形手術を繰り返す十人並みの顔の持ち主や違法薬物を摂取して試験に臨む学生やドーピングに手を染めるアスリートの例を引くまでもないだろうと思う。例えば、コンプレックスとなっている不格好な癖を直したい、例えば、やり遂げるまで音を上げない勤勉さが欲しい、例えば、スマートな対人関係の距離感を身につけたい。需要は多岐に渡り、しかも莫大だ。「人間は中身」など、外形的な資産に執着することを戒め、人間的・内面的美徳の価値を強調するような警句は史上数知れない。しかし警句がさすところの「中身」というものが仮に、貨幣によって取引可能なものとなってしまえばどうだろうか。義脳化技術はそれら「内面的美徳」とでも呼ぶところのものを、物質文明を極めた現代において顧客が求める最も需要の高い商品へと貶めてみせた。
彼らが義脳技術とともにビジネスの糧としているもの、すなわち顧客の求めに応じて義脳に書き込む種々の情報。それこそが、働きもしない私を10年に渡って養ってきた「生計」の正体だった。彼らの「商品」の仕入れ手段(「データ採取」と呼んだほうが私にはわかりやすい)はシンプルなものだが、反面仕入れ先の選定は綿密を極める。
一部医療機関・研究教育機関から連携される脳内検査情報や素行調査をもとに、顧客の求めるタイプの情報や将来的に需要が見込める情報の持ち主を品定めし、「提供者」として契約を結んだ人間には、定期的なデータ採取の見返りとして報酬が振り込まれる。ちなみに私の提供する「情報」は「女らしさ」――男性の多くから好感を得る女性的な言動・仕草だった。今までそれと意識したこともないものが、口に糊するに十分なだけの金額に化けることに、契約を結んだ際には訝しんだものだが、少なくとも、それが私を彼らのビジネス・パートナーとしての地位たらしめてきたものであるのは事実だ。これまでの10年余りは。
あたかもそれは、待ち構えていたかのような所作に見えた。あくまで提案ですが、と前置きをして、目の前に数枚の書類が差し出される。
「シンプルなお話です。提供される情報の質が問題であれば、それを補ってあげればよいのです。すでに当社では幾度かのテストを実施し、この方式によるデータ提供契約を数名のパートナーと結んでおり……」
「身体に手を入れたことはないのよ。しかも、部分が部分でしょう?不安になるわ」
「実施するのはごく少量でございます。臨床実験でも取引実績でも、この程度のごく小規模な施術が個人の人格や脳機能に影響を及ぼすことはほぼございません」
「何度も聞いたわ」
「ごゆっくり検討ください。当社はこれまでのパートナーシップにまことに感謝しております……可能ならば、これ以降も良好なパートナー関係を維持したいと」
契約書を睨みながら、机の対面に座る営業職員の表情を覗き見る。この提案は私に対しての助け舟か、それとももっと別の意味を持つものかを読み取ろうと試みたためだ。営業職員が浮かべる形の良い玉虫色の微笑は何も語らない。結局のところ、私はこれ以外に生きていく手段を知らないという事実は何度も再確認した分かり切ったことだった。顔には渋面を浮かべながらも提示された条件――私自身の一部義脳化と、修正データの情報移植を受け入れての再契約に、心は傾きつつあった。
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