隠し味

リーマン一号

隠し味

ラーメン。

中華麺とスープを主とし、焼豚やメンマ、煮卵などをトッピングした麺料理。別名では中華そばや支那そば、南京そばなどと呼ばれるが、その歴史は古い。今日では醤油・塩・味噌・とんこつなどスープの種類によって区分けがなされ、日本の第二の主食とも呼べるほどの人気を誇る国民食と言えるだろう。


そして・・・


私が初めてラーメンを食べたのは、忘れもしない今から20年前の10月4日。日に三度の食事ができる事のほうが珍しい程、貧しい家庭で育った私は、夕暮れ時に窓の外から屋台が商をしているのをただ遠くからじっと見つめることしかできず、その日もそうだった。屋台に上がる湯気は常に香ばしいにおいを乗せ、私は麺をすする大人たちの背中を羨ましそうに見ながら指を咥えて見ていた時、一人の男が屋台から顔を出し、何も言わずに私の手を引いて椅子に付かせると、店主に一言告げた。


「おっちゃん。この坊主にもラーメンくれ」

「・・・はいよ」


店主は少し困った顔をしてから注文通りラーメンを作り始めたが、それが男に向けた「お人よしだね」という合図と気づいたのは大人になってから。当時の私は一体何が起こったのかと目を白黒するするだけで、状況を飲み込めぬうちに熱々のラーメンが私の下に届いた。・・・あのラーメンが今、私の目の前にある。夢にまで見た光景に私の喉からゴクリという生唾が飲み込まれる音が聞こえると、遠慮がちに男の顔を伺った。


「食ってみな」


男は私の背中を叩き、私の顔はパァと華やいだ。震える手で割りばしを割り、初めてラーメンを口にすると衝撃が走った。「この世にこれほどうまいものがあるのか・・・」と。そして、20年。まるで水に塩を加えたような淡泊な味わいであったが、今でもその味を鮮明に思い出せる程、ラーメンは私を魅了した。以来、頭から片時もラーメンを忘れることができなくなった私は、大人になってから懐事情に余裕ができると、その欲望は爆発した。一年365日の内、私の食べるラーメンの数は4桁を越え、凡そ1年半で付近ラーメン店をすべて食べつくした私は、仕事を転々としながら県外へと足を運んだ。


ラーメンを食べることが仕事になったのがそれから3年後だ。メモ帳代わりに使用していた私のラーメンブログに火が付き、ついにはテレビ局から出演の依頼が殺到した。当時の私はテレビ番組など興味はなかったが、ラーメンを食べる為だけに遠出をすることも多く、貯蓄が付きかけたこともあってオファーをすべて引き受けた。古今東西、あらゆるラーメン店へロケを行うと、初めのうちはラーメンに対する私の執着っぷりが視聴者には面白おかしく映ったのだろう。ただラーメンを食べる。それだけでしばらくの間はお茶の間を沸かすことができたが、新しい物好きの彼らはすぐに私から興味を無くした。それでも、いくばかの金を手にした私は人知れずラーメンを食べ続け、ようやくこの時が来た。


・・・ついにこの店が記念すべき一万件目。


長かったというべきか短かったというべきか・・・。様々な感情はあっても私のすることは変わらない。商い中と書かれた赤暖簾を淡々とくぐり、ラーメンを食すだけ。


「いらっしゃい!」


初めに店主の威勢のいい挨拶が耳を劈き、私は店内をぐるりと見渡した。どうやらこの店は当たりらしい・・・。飯時でも無いのに店内には複数の客の姿が見え、坊主頭の店主は冬だというのに汗をかき乱している。おそらくリピーターが多いのだろう。私は心の中でほくそ笑むと、さっそくラーメンを注文した。店主は「あいよ!」っと返事をし、手際よくラーメンを作り始めると、わずか数分後には私の下にできたてのラーメンが。


「なるほど。よくできている」


既に9999件のラーメン店を食べ歩いた私には、見ただけでこの一杯に掛けられた情熱が手に取るように分かる。魚粉と豚骨のダブルスープを基本としたラーメンは細縮れ麺とよく絡み、程よいコクを引き出している。付け合わせの具も間違いなく自家製の物で、既製品に頼らないところに店主の熱意が伝わってくる。久方ぶりの当たりに私はニヤリと一人ほくそ笑み、ラーメンを食した。


・・・


1万件目を後にした帰路の途中、私は一つの移動式ラーメン屋台に居た。ただし、肩はがっくりと下がり、まるで泥酔しているかのよう。そう。私は酷く落胆していたのだ。そもそも私がこのラーメン行脚を始めたのは「いつかは初めて食べたあのラーメンの味にたどり着けるかもしれない」そう思ったからだ。しかし、1万件も店を廻ったというのに全て何かが違う。もちろん、どれもこれも粒ぞろいの一級品のはずなのに、あと一歩及ばない。何が足りないのだろうか?私は絶望の淵に居た。


「お待ち同様!」


注文しておいたラーメンは私の前に差し出されたが、なんだか食べる気にならない。食欲が沸かないのは初めてのことだ。それでも、一縷の望みに掛けて、私は深いため息を吐いた後に、ラーメンを啜った。


「・・・やっぱりか」


淡泊な味わいはあの時のそれに非常に近い。でも、やはり何かが足りない。虚しさに打ちひしがれた私が、箸をおいて外の景色に目を向けると、そこは夕暮れに色に染まる団地の一画。私の家の近くにも団地が有り、なんだか昔に戻ったようで一人黄昏ていると、遠くにいる一人の少年が私の目に飛び込んできた。この寒空の下、半袖に短パン姿。貧しさを象徴するかのように非常に華奢な出で立ちで、まるであの時の私そのものだった。私は初めてラーメンを食べさせてくれた名前も知らないあの男のことを思い出し、すぐに席を立って少年に声を掛けた。


「ラーメン、食べるかい?」

「・・・いいの?」


その言葉だけで十分だった。私は少年の手を引いて屋台へと戻ると、店主に告げた。


「店主、この少年にもラーメンを」

「・・・あいよ」


その目の正体は知っている。私は店主に笑顔で返すと、少年の下にラーメンが届けられ、私は遠慮がちな彼の背中を叩いた。


「食べてみな」


少年はまるで弾かれた鉛玉のように我を忘れてラーメンにがっつくと、しばらくしてから我に返り、忘れてたとばかりに私の方を向いて一言告げた。


「こんなにおいしい物初めて食べた!おじさん、ありがとう!」


私は満足そうにフッと鼻で笑うと、私もラーメンを啜った。


「・・・え?」


それは突然だった。さっき食べた時は紛れもなくどこにでもある屋台ラーメンの味。でも、今ここにあるのは、紛れもなくあの時のラーメンの味。20年という歳月を越えて今も私を恋焦がしたあの味。私は目が真ん丸になるほど驚いた後、隣にいる幸せそうな少年を見て、その正体を察した。


「そうか。なんだ、そういうことか・・・」


おいしいラーメンの決め手は、何も味や香りだけではないらしい。私の目から少しだけ涙がこぼれ、塩味に拍車がかかる。少年は突然涙を流し始めた私を心配した。


「おじさん?どうしたの?大丈夫?」

「ああ。大丈夫だよ。これは悲しくて泣いてるんじゃないんだ・・・」


こんな簡単なことに気づくのに何年かかったのだろう?

私は淡泊な塩味に人のぬくもりの温かさを感じた。




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