第一幕 まだ人の夢が叶っていた頃

1


 メルヘンシティと呼ばれる街に、グリム会のヤクザがたくさん住んでいました。彼らはみな悪い心を持っていて、とくに「野いちご組」と「かぼちゃ組」の間には、太陽がほほえむ昼でも星がまどろむ夜でも、ちっとも喧嘩が絶えません。街には彼らの詰めた指や弾いた鉛がいつもたくさん落ちていました。

「ねえ、どうして彼らはあんなにケンカばかりしているのかしら」

 姫はつまらなそうに言いました。

「男って、私たちがいないと何もできないんでしょう?」



 古賀コガがその男の右目に突き刺していたフォークを引き抜くと同時に、血液と硝子体のカクテルソースが唾液のようにダラダラとこぼれだし、かつては青かったブルーシートの上に新しい模様をいくつもこしらえた。椅子に縛り付けられていた男はわずかに身じろぎをしたようだが、声はあげない。コガが"質問"を始めてから1時間ばかりは耳栓越しでもうるさいくらいだったが、両手の指と皮膚の3割強を失った今となっては、生きることはすっかり諦めてしまったらしい。

 コガはフォークを拭いながら丸椅子に腰掛け、漂う甘ったるい匂いにくしゃみをした。天井の白いランプに、どこからか迷いこんだ蛾が一匹ひらひらと吸い付いてはあしを焦がしている。この仕事部屋は野いちご組の菓子屋通りにあるにしては換気が悪い。垂れ流された汚物と血液の匂いが水飴の甘い芳香と奇妙に混ざり合い、蛙の相撲部屋のように不潔な空気が充満していた。

「改めて見るとひっでえな。むちゃくちゃやりやがる」野いちご組の長谷川ハセという男が、背後からコガに向けてそう吐き捨てた。「こんなのどこで習うんだ?」

「…………」

「おい若造ガキ、聞こえてんだろっが」

「……あ、俺ですか?」コガはわざとらしくゆっくりと振り向き、同じように緩慢な仕草で頭を下げた。「すいません、あんま聞くなって言われてたから……。こいつ、ネタ吐いたんすか?」

「お前の知った事か」

 ハセは上機嫌にも不機嫌にも見える表情で鼻を鳴らす。パーマのかかった黒髪をオールバックにまとめた淡白な顔の男で、ギョロつく瞳が、獲物を狩るときだけ不気味なほど知恵が回る肉食獣を思わせる。若々しい風貌だがこれでも野いちご組の舎弟頭補佐だという。黒いスーツ上下にピンクのシャツという野いちご組のフォーマルに則ったファッションは先までと変わらなかったが、付着していた血の汚れはない。着替えたようだ。ハセの背後には似たようなスーツを着た組員らしき若者が二人、引きつった笑顔を見せながら口をおさえている。よく見ると顔がそっくりだ。双子だろうか。

「お前の仕事は終わりだ」ハセが顎で出口を指す。「とっとと帰れ」

「そうすか……残念」

「変態野郎」鼻で笑いながら、ハセが指で弾くように何かをコガに投げてよこした。キャッチする。和紙に包まれた飴玉だった。これ一つ下町コケインに投げ込めば、奪い合いで死人が出てもおかしくない高級品だろう。

 この街に、金で買えるものは少ない。

 夢は金より腹の足しになる。

 ツテを作るのは大切なことだ。

 コガは組に所属するヤクザではなかったが、ヤクザ御用達の"仕立て屋"として、これまで20人ほどの誰かさんのまぶたを縫ったり爪を剥いだり腱を削いだりしてきた。

「それじゃあ……オヤジにもよろしく」そう言ってコガは、部屋を出ようとした。

「オヤジじゃねえ」胸ぐらを掴まれる。無理やり顔を近づけられ、フクロウのような瞳がコガの目を覗き込んだ。「何度言やわかる? じゃ、兄貴だ。」

「……そうでした。<ヘンゼル>の兄貴にも、よろしく」

「けっ」

 突き放されるように開放される。襟元を正し、コガはため息をついた。

「おいチビ!」コガが呼ぶと、部屋の隅でうずくまっていたフードのが、慌てたように顔を上げた。

「帰るよ。最後に一枚……撮っとけ」

「は、はい……」チビはおずおずと立ち上がり、手に持っていた古い一眼レフで、樫の椅子に手足を拘束された哀れな男の写真を撮った。元は端整な顔立ちをしていたその男は今や両手の指の全てと右目を失い、頭皮を半分剥がされ、足には釘が幾つも突き刺さっている。パンをついばむ鳥になぞらえて特製のスプーンで抉られた肉の跡は<お菓子の家>特製の溶けた飴で止血され、まるで、血と肉片を糖の中に閉じ込めた琥珀が露出する鉱脈のようだった。

「た……のむ……」その男が、幽かな声で呟く。

「あ?」ハセの苛立った声。

「さいご……エレ……ナに……」

 ジャリッと、ハセの靴が散らばっていた飴カスを踏みにじる。「……それが、てめえが靴を贈りたかったひとの名前か?」

「……たの……む……」

 コガは興味がないので、とっとと部屋を後にした。

 ボトッと、背後で鈍い音。

「っざけんじゃねえ!! 誰を裏切ってんなことほざきやがる!? お前は俺たちの大事な妹を!! グレーテルを裏切った!!! こんなもんでオトシマエついたとでも思ってんのか!? ああ!?」

 立て続けに肉を打つ音を聞きながら部屋を出たコガだったが、階段まで来たところでチビがついてきていないことに気がつき、ため息をついて引き返す。部屋からはまだハセが怒りに任せて拳を振るう音が響いていて、双子の舎弟が「兄貴!! もう死んでますって!!」と何度も叫んでるのが聞こえてきた。コガはその拷問部屋を軽く覗いてから、隣の、組員たちが仮眠を取ったり吐き気を抑えたりするのに使っていた詰め部屋に入った。


 そこは、椅子が2つとテーブルが1つ、それに色の褪せた辛子色のソファが置かれただけの簡素な部屋だった。卓には『半裸のキャシー』が大写しになっているグラビア誌と古いスイーツ雑誌が無造作に開かれていて、不用心なことに拳銃が二丁、重し代わりにページに載せられている。飾りも色気も明かりもなければ品性もない、ただ小さな欲だけが剥き出しで、それでもなお寂しくありふれた場末の一室である。

 チビは窓際に立って、外の景色を眺めていた。

 その肩に手を添え、コガも窓の外を見る。

 輝くネオン。

 彩られた姫の肖像。

 柔らかさを偽るお菓子のモニュメント。

 御伽の濁流メルヘンパンク

 レンガ造りの高層ビルが乱立するメルヘンシティは今日も、毒々しくもまばゆく輝く光の洪水の中にその全容をうずめていた。

 ケーキ、キャンディ、グミにスナック、<お菓子の家>で作られるスイーツの看板が所狭しと並ぶこのエリアは、グレーテルとヘンゼルが率いる野いちご組の縄張りシマ、通称お菓子の国である。眼下では男たちがなけなしの金と信頼で手に入れた駄菓子を胸に抱え、女たちが待つナイトクラブへのタクシーを拾っている。あるいは、ほとんどの男たちはただ並んでいるスイーツの見本に夢を馳せているだけかもしれない。『姫が喜ぶ!!』『グレーテルいちおし!!』なんて誇大広告が並ぶ割に表通りで買えるお菓子なんてたかが知れているが、それでも男たちが女に用意するお菓子を買えるのはここだけであり、ゆえにこの町もまた、ヤクザが仕切るに足るメルヘンの城下町なのだ。

 ここは野いちご組の縄張りの一角にあるマンションの一室。建物全体がほとんど野いちご組のものであり、住んでいるのも大半がヤクザのはずである。

「行きたい店でも……あるのか?」コガはチビにそう聞きながら、仕立て屋の師匠に贈られた銀の腕時計を見た。時間はもう7時と12分。街の魔法が解けるまであと5時間。遊びに繰り出すには少し遅い。

 チビは黙って首を横に振る。マスクをあごにズラしてニッコリと笑い、そっと口元を寄せてきた。

「あの人は……何をしたの?」ささやく声。

「あの人?」

「さっき写真を撮った……」

「ああ……」コガはうなずく。「野いちご組の裏切り者だってさ。かぼちゃ組にネタを流してたらしい。なんのネタかは俺も知らない」

「ふーん」

 部屋の隅に置かれていたラジオから、ロック・バンド『ブレーメンズ』の音楽が流れ出す。騒がしくて恐ろしい、人を不条理な行為に駆り立てるメルヘンの調べ。

「ねえコガ?」

「ん?」

 もう一度近づけた顔、その頬に、チビの唇が近づいた。

「ぼく、ちょっと思いついたことがあるんだけど……」

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