振り返ればあの時ヤれたかも
kattern
第1話 瞬間、瞳重ねてヤれるかもしれない
「……あっ!! あぁあぁっ!! のわぁあああああっ!!」
隣に立っている兄が叫んだ。
昭和の熱血漫画みたいに顔面をぼろぼろにして叫んだ。
なにごとだと、バスに乗り合わせた皆さんが、視線をこちらに向けるくらい大きな声で絶叫した。
朝から騒がしいことである。
そして迷惑なことである。
本当に勘弁してほしい。
JR奈良駅発、近鉄大和西大寺行きのバスの中。
学校へと向かう生徒や近鉄奈良駅前のオフィスへと向かう会社員、あるいは市役所に向かう公務員の皆さんで今日も今日とてバスは混雑している。
その中ほど。
灰色のつり革を持って立っていた僕は、同じくつり革を握りしめて僕の前に立っていた兄がそんな奇声を上げたのを冷めた瞳で見つめる。
JR高架下を潜り、大通りに入る交差点で停車したのをいいことに、つり革から自由になった手。それで顔を覆い兄は嗚咽を上げて喚き始めた。
兄――高尾健一郎。
僕が通う県立春日高校、その数学特進科に席を置く男子学生だ。こんなでも、一応学年首席だったりするから、世の中ってほんと
ついでに言うと僕は高尾新次郎。
兄と違っていたって普通の、県立春日高校普通科に通う男子高校生。
僕と兄はこうして毎朝、学校前まで走るバスに乗り、一緒に学校へと登校している。本当は別々に登校したいのだけれど、そんなことをしたら周りに兄が余計な迷惑をかけることになる。
なので、いやいやだがこうして一緒に登校していた。
ほんと、いやいやである。
繰り返して言わせてもらうけど、いやいや一緒に登校しているのである。
そして今日もまた、いやいや僕は兄の慟哭に付き合うことになるのだ。
「……どうしたの兄さん?」
「聞いてくれるか新次郎!!」
食い気味に兄が僕の方を向いた。
顔を覆っていた手を離してこちらに顔を向けた。
この人は、いつだってオーバーリアクションだ。
昭和のノリが大好きなのだ。大好き過ぎて、昭和の漫画作品の世界に生きているのだ。
好きと言っても限度がある。
まぁ、それはさておき、僕は兄に――まぁ、落ち着いてと声をかけた。
兄の迷惑な慟哭をスルーして、バスが緩やかに加速して交差点から発車する。顔から手を離したついでに、僕は兄の手を取るとつり革を持たせた。
そして――聞きたくなかったけれど――何があったのかを尋ねた。
本当に聞きたくなかったけれど、聞かないと余計に厄介なことになりそうだったので尋ねた。
「今さっき、前の席に座っている柳生女学院の女子生徒と目があった」
「柳生女学院の……」
言われて僕はバスの前の席を見る。
進行方向に向かって右手側、運転席の後ろ、一番前の席。
黒い髪を結いあげた少女が、膝の上に鞄を置いて青い座席に座っている。
タイヤがある関係上、他の席よりも高い位置にある最前席。
ちょうど目線の位置にその姿があるというのも理由の一つだろうが、少女の姿は、それでなくても僕たちの目についた。というのも、その制服は間違いなく――県内屈指のお嬢様高校である柳生女学院のモノだったからだ。
瑞々しい緑色の襟がついた純白のセーラー服。
女学院の響きに違わない、柳生女学院はお嬢様が通う学校だ。座る姿はまさに牡丹。この糞暑い中でも彼女の周りだけは、なんだか涼やかに見えるという妙な気品があった。
しかし、いつもは見ない顔だ。
どうしたのだろう。
柳生女学院がある方向は春日高校と同じ。なので、同じバスに乗り合わせてもおかしくないのだが――。
そこは清廉なる女学院。
汚らしい男子高校生率80%と評されるこの時間のバスに、わざわざ乗る女子生徒は少ない。同じ春日高校生の女子生徒でさえ乗らないのだ。わざわざ自転車で登校するくらいだ。
それでなくてもお嬢様学校の柳生女学院だ。
専用の通学バスか、自家用車なんかで通っている――らしい。
ぶっちゃけよう。
このバスに乗る柳生女学院の生徒を僕は初めて見た。
そして、なんとなくだけれども彼女の心中が察せられた。
どういう理由か分からないが、このバスに乗っているのが不安なのだ。
彼女は兄が起こしたはた迷惑な騒ぎの中でも、どこか落ち着かない様子で、バスの正面に視線を向けていた。
うぅん。
遅刻したとか、そんな所かな。
なんにしても可哀そうなことだ。
こんな男ばかりのバスに乗り合わせるなんて。
そして、よりもよってこの兄さんが乗るバスに乗り合わせるなんて。
今日は厄日と思ってくれても構わないんじゃないかな。
「珍しいね。柳生女学院の娘とか」
「あぁ、そうだろう。運命だと言っても過言ではない」
「過言だと思うけど」
「新次郎。そんな彼女とな、俺はさっき目が合ったんだよ」
「……へぇ」
それはそれは――童貞か。
童貞男子高校生か。
一緒に暮らしているのだ、かなりの確率でこのツッコミが正しいことは間違いないと思われる。というか間違いないだろう。そして、実に思い込みの激しい兄さんらしい発言であった。
そしてこの次に出てくる言葉を、僕は既に知っていた。
「あわててお互い視線を逸らしたが、それがよくなかった」
「まぁ、知らない相手と視線が重なると、そうなっちゃうよね」
「……もしあの時、あの瞬間、俺が気の利いた返しをしていたら」
ヤれたかもしれない。
兄さんは絶叫した。
バス中に響き渡る声で言った。
柳生女学院の娘に届く声で言った。
運転手さんも、おいおいマジかよ、なに言っちゃんてんのという感じの顔をして、バックミラーでこちらを確認するくらいの声量で言った。
みんないいリアクションするね。
僕はもう慣れちゃって、死んだ目をするので精一杯だってのにさ。
まぁいい。
なんにしても、僕はいつものように冷めた返事をするだけだ――。
「……気のせいじゃない?」
「いや、絶対にヤれていた!! 俺が流し目で――お嬢ちゃん、不安げな顔してどうしたんだい――って感じに微笑みかえれば即落ちだった!!」
「……初めて会った人に、そんな心配されるって相当気持ち悪いと思うよ」
「いいやなってた!! 周りの皆がヒューっていう展開になってた!!」
どんな展開だよ。
昭和の漫画じゃないか。
今どきそんな反応する人なんていないし、そもそも絶対にそんな展開になんてならないよ。
夢見がちというか、ロマンチックというか、スペースロマンというか。
なんというか――壮大にバカ。
そういう所が兄さんの悪い所だ。
さらに悪い所がもう一つ。
「という訳で――俺は時間を巻き戻すぞ、新次郎!!」
「……えぇ」
「俺の能力を使う時が来た!! 今、使わねば、いつ、使う!!」
「……未曽有の災害とか事件とか、そういう時に使うべきだと思う」
「正論でぶん殴るな!! 新次郎よく覚えておけ、力とは誰かのために振るうものではない、自分の幸せのために振るうもの!! それが真理!!」
「なんでこんなアホにこんな能力与えたかな神様」
全力で、私利私欲に自分の力を使うことを宣言した兄。
いよいよのっぴきらなくなるバス。
ふたたび交差点に差し掛かり停車したその中で――。
兄さんは左目を隠して微笑んだ。
「
ちなみに、そのポーズに特別意味はなかった。全力で趣味である。
なおどちらかといえば、ポーズは
どうでもいいが。
◇ ◇ ◇ ◇
「……で、どうだったの、兄さん」
「……ドブに向かって立ちションする同級生を見たような顔された」
「……ヒュー、そいつあなんともショックだね」
「……女の子怖い」
僕はしょーもない理由で
まぁ、今日も世はこともなし。
バスは無事に春日高校前のバス停に停車するのであった。
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