真夏の怪物
秋鳴
第1話
真夏の怪物
「青空の半身を支配した黄昏の暴虐に息を呑み、死にたいと思った日を覚えていますか」
一年前に書いた自分の遺書を読み返すと、そこには終末のない世界が広がっていた。
深い海を持てない私は、いつまでも人間になれない。
酸素を侵食する、真夏の怒り。
夢のような色をした蝶の羽が折れるその時にしか、私の心臓は鼓動しないでしょう。美しいものは死ねばいいと願った幼い日の欠片は、いつまでも私の瞼にこびりついて離れません。
弱い者ではない、醜い者から先に淘汰されていく世界を作った神さまこそ、本当は最も醜い容姿をしていたら良かったものですね。
もし本当にそうなら、どんなにか世界は可愛らしいでしょう。
誰よりも醜かった父親は、私によく優しい本を読んでくれました。
『私のような屑が生きて、どうして君のような優しい人間が死んでいくのだろうか。なぜ君は、いつも彼岸の近くに立っているんだ。そんな悲しい顔をして、なぜそれでも笑っているんだ』
感情のこもった声は小さな私の耳朶に刻印され、今でも消えることはありません。風に揺れる桜の木々を見て何となく「消えてしまいたい」と口にした春、父は私の泣き声を宥めながら言いました。
『世界が美しいことを、君がまだ知らないだけだ』
道行く数人は振り返ってしまうほどの醜男から発される言葉とは思えませんでした。そのとき落書きのような顔に青い痣が息をしているのを見て、また私は泣いたのです。
美しくたおやかな物語ほど早く終焉を迎え、目覚めない標本となってしまいますね。
私にとってのそれも既に消えてしまいました。永遠病棟の屍、病的なほど白い向日葵。きっと私たちは永遠に孤独を強いられる存在なのでしょう。
病室1059番地。隣人は今朝ついに怪物になりました。目を覚ますと、魔獣の咆哮が轟いていました。
カフカのようだねと医師は笑いました。その手には漆黒のメスが握られ、罪のない小説をビリビリに裂いています。人一倍視力の良い私は、床に零れ落ちていく物語の欠片に『愛してる』という言葉を見ました。たった一つの単語、たった一つの言葉。それでも私は、そこに哀惜を感じずにはいられませんでした。
禍々しい彼は医師たちに鎖で押さえつけられ、悲鳴のような咆哮を上げ続けていました。その時色彩を失ったのは、彼自身ではなく花瓶に挿さっていた薔薇でした。
花は枯れ、死は朽ちます。普段優しい言葉を叩き売る看護師も、両手に青の冷気を潜ませて笑っていたのです。点滴の雫だけが生命の鼓動を記憶し続ける、闇に満ちた白。私たちの命を絶えず見張り続ける天井の白は、本当は血生臭い赤黒色なのでしょう。世界の縮尺に対してどこか精神の部位が足りない、あるいは出っ張りすぎた者たちの悲鳴を塗り潰すような、そんな白でメッキを塗って。
私は、彼が医師たちの手でそのまま絶息する姿を目にしました。事実は小説よりも奇なりという言葉通り、何とも惨劇的な朝でした。
「もっと上手く生きられたら良かった。神様にもお母さんにも世界にも愛されるような、そんな大人になりたかった」
昨晩、縋り付くように叫んだ彼の最後の言葉を、私はずっと忘れないことでしょう。
私たちの生も死も文学にはなれません。無数にある千羽鶴の、たった一羽にもなれません。さよならだけを愛していました。世界に存在しない愛を信じていました。
この病院に、神様はいません。世界に存在してはいても、患者たちを愛することは決してないのです。黒色に潰されて死を予期した彼の手を握り、私が掛けられる言葉など、一言もありませんでした。
まるでここは死者の病棟です。あるいは世界を持てない奇形児たちの処刑場です。
それでも芸術だけが異彩を放って病棟を輝かせているのは、冷酷な世界への復讐心なのでしょうか。
いえ、そうではないと信じます。復讐などではなく渇望です。あの歌声は嘆きです。
珈琲にも似た甘苦しい言葉と、紅茶に浸した花のような歌。虚無の世界の花鳥風月。
「もう泣けますか。貴方、自分のために涙を流せますか」
ある男は、いつものように廊下で口ずさんでいます。
白昼、何度血を吐いてもラブソングを紡ぎ続けるその終末患者の名は、孤独です。
「社会に適合するというのは、青く美しい原石を削って無理矢理丸くするということだ」君の名前は後悔か。そしてそっちの白い髪の少年は、善性愛だな──
初めて孤独に会った一年前、開口一番に言われたのはそれでした。虚無を宿した私の瞳をじっと見つめるその双眸。まるで私の心の奥を見透かしているようでした。世界に適合できない、世界で歩いていけない──そんな思いばかりを抱いていた、いえ今も抱いているのですが、その時の私にとっては衝撃的な言葉でした。白い髪の少年というのは、怪物になった彼のことです。
その頃の孤独はまだ血色の良い肌色をしていましたが、近頃はもう、別人と成り果ててしまいました。青白く痩せた身体と、「人間不信が嵩じただけだ」と言って笑い飛ばしていた腕にある無数の目玉。その全てが彼を監視するようにただ一点、彼の顔面に視線を向けていました。日を経るにつれそれらは一つずつ閉じられ、まるで寿命を表しているようです。
哀憐とも寂寥とも言えない心でそんな彼を見つめていると、澄んだ声がかかりました。
「ああ、そこにいるのは後悔か」
アコースティックギターを弾くのをやめ、孤独はこちらへ手を振ります。開いている目があと二つだけになった腕。彼らが全ての視力を失う時が来たら、その時こそ孤独の魂は救われるのでしょうか。彼らは死へのカウントダウンではなく、救済なのでしょうか。彼の人間としての目だけは、煌々と琥珀色に輝いています。
「遂に善性愛が行ってしまったね。両性具を持った愛など、神以外の何物でも無かったのだが」
俺の死期も近いな、と孤独は他人事のように呟きます。両性具というのは彼なりの比喩でしょうが、事実善性愛は男性の面と女性の面の二つを持っていたように思いました。
怪物になること、それはこの病棟においては死に罹患することを意味します。死は私たちにとって一種の病気ですから、人間のように心臓が動きを止めることはありません。「罹患すれば医師にどこかへ連れて行かれる」私たちにとってはその程度の認識です。何の前兆も無ければ、徐々に精神を蝕まれる場合もある。善性愛は前者と後者の中間でした。そして孤独は、明らかに後者の道を進むでしょう。私に関しては、まだ何も分かりません。善性愛とは同じ時期にここへ入院しましたが、人間としての足に百足の節足が生え続けていた彼とは真逆です。死に至る病の進行状況も、また性格もまるで違う。収容されている不適合者にしては、彼は余りにも優しすぎました。
「君はいつも喋らないね」
孤独がぽつりと言いました。どう答えようか迷った末、彼が胡座をかく隣に私は両足を抱えて座り、ただ笑顔を作りました。
「笑っているのが正解、という訳か。もしかしたら君は、僕よりも外の世界に向かない性格をしているのかもしれないね。本物の不適合者だ」
笑っているのが正解──孤独には、私の痛みは絶対に分からないだろうとこのとき思いました。そういうつもりは決して無かったのです。不適合者という点だけは当たっていますが。
私は後悔。だから、口を開くことがないだけです。
「後悔こそ常に大口を開けて人間を今か今かと待ち構えているだろう。その者を苦の深淵へ誘惑するために話術にも優れているはずだ。感情の中で一番厄介だと思うけれど、君はどうやら違うらしい?」
また、心を読まれた気がしました。孤独の前ではどんな隠し事も通用しないようです。
「まあ俺よりも君の方が苦労しているだろう。この先もそうだと思う。俺は一人で居るしかないから、後悔などしない。ああ君、本当に厄介な人生だな。同情するよ」
何を言っているのでしょう、いつも通りの奇怪な文脈と、嘆息でした。孤独にそんなことを言われても、特に何の慰めにもなりません。彼はいつもおどけていて呼吸のように嘘や悪態をつくので、私は彼の言葉の半分は虚言だと思っています。
「善性愛も絶望にしか愛されなくて気の毒だったと思う。皮肉なものだな、人間に愛を注がないと死んでしまうのに、肝心の自分自身は永遠に愛されないままだ」
ペラペラと悪戯なことを喋りながらカラカラと笑う孤独は、本当にいつも通りの孤独に思えました。仲間が死んでも何も感じることのない、本当の孤独だと思いました。開かない口を余計に開きたくなくなって、私は少し俯きました。しいんと深海に沈みきったリノリウムの温度は、非常口の緑に照らされてゼリーのように光を映しています。
すう、と息を吸う音が聞こえました。こいつはまた悪態をつくのか、そう思って横を見ると意外な表情が覗いていました。四季の息吹が乾いたこの場所で、ほんのりと太陽の匂いがしました。
今、彼の瞳の中で確かに透明が揺れたのです。
「寂しく、なるね」
ぽつり、と呟いた言葉、いやほとんど吐息だったと言ってもいいでしょう。それはすぐにギターが鳴らされたことで掻き消えてしまいましたが、至近距離に座る私の耳には十分届く声でした。
孤独、と思わず名前を呼びそうになりました。けれど私の声が出ることはありませんでした。私が後悔で在り続ける限り、どうにもこの声を上げられることはないのでしょう。
「もう泣けますか。貴方、自分のために涙を流せますか」
そして孤独は、再度同じフレーズを歌い出しました。私は特にすることもなく、1059号室に戻ったら善性愛の残り香に泣いてしまいそうに思えたので、その日はずっと孤独の隣に座っていました。
ああ神様一度だけ。一度だけでいから、どうか私の願いを叶えてはくれませんか。
底知れない闇ではない深海が欲しい。誰かを優しく包めるだけの、揺り籠が欲しい。
真夏の怪物 秋鳴 @remember-asphyxia
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