最果ての学園~征服者たち~
稲岸ゆうき
第1話1 こんな幸せなことってあるのかな
校舎の中は混乱の坩堝と化していた。
二足歩行する豚の怪物――オークは手当たり次第に教師を襲い、血祭りにあげていく。抵抗する術を持たない生徒たちは悲鳴をあげて逃げ惑い、オークの嘲笑にも似た不快な鳴き声が周囲に響き渡っていた。
そんな状況を屋上に続く階段から見下ろしていた笠松信也は、一人口元を歪めるように吊り上げる。
「ああ、こんなことってあるのかな。こんな幸せが僕の人生にあっても良いのかな?」
そう独り言ち、人知れず舌なめずりした。
――
始業前の教室は騒がしい。そんな喧騒に取り残されたように、信也は教室の隅にある自席でミリタリー雑誌を読みふけっていた。
身長160cmという高校三年生男子にしては低い身長をさらに縮めるような猫背で、不健康にくぼんだ両目は常につまらなそうに細められている。一見して、人好みする外見ではない。
そんな信也に積極的に話しかけるクラスメイトは皆無に近い。信也は信也で、特に話の合わないクラスメイトと上辺だけの会話を楽しむほどの社交性は持ち合わせていないので、特段それで構わないと思っている。故に、ますます信也はクラスで孤立することになった。
そんな信也の前に、一人の女生徒が立つ。
「進路希望のプリント提出してないの、うちのクラスはあと笠松君だけだよ」
よく通るその声に、信也は心底面倒くさそうに雑誌から顔を上げた。
艶のあるロングの黒髪を活動的なポニーテールにまとめ、スレンダーなモデル体型の美人――天谷千冬。
弓道部の主将であり、信也のクラスの委員長も務める。宝塚の男役を思わせる顔立ちと竹を割ったような性格でクラスの内外、男女を問わず人気がある紛れもないクラスカースト上位の人間だった。
信也がクラスで孤立しているもう一つの理由が、天谷だった。元来が世話焼き体質らしく、自身が必要と認めたこと以外にとことん無頓着な信也にやたらと構う。それが他の男子のやっかみを買った。
「そうかい。あとで先生のところに持って行くから、僕のことはほっといてくれ」
「おいコラ、クソオタが天谷に生意気な口きいてんじゃねーぞ!」
信也が天谷をあしらうと、すぐに藤来巧巳が噛みついてくる。
藤来は茶色に染めた髪にピアスをじゃらつかせた男子で、顔が良くて背が高くてスポーツが得意という、これまたわかりやすいクラスカースト上位の人間。いつも数人の取り巻きに囲まれていて、女生徒にも人気がある。信也とは対極にいる生徒だった。
藤来の罵倒を聞き、信也はため息を吐く。
「僕がクソオタであることと、天谷さんに生意気な口をきくことの関連性がわからない。と、いうより、勝手に聞き耳を立てて勝手に不機嫌になられても困る。藤来君のご機嫌まで責任取れないよ」
「テ……メ……っ!」
藤来の額に青筋が浮かぶ。
藤来が腹を立てることは信也にもわかっているのだが、考えるよりも先にするすると言葉が出てしまう。どうも、人の神経を逆なでしないことには気が済まない性質らしく、こればかりは信也自身にもどうしようもない。
「二人ともやめて! 笠松君も、ちゃんとプリント出してよ」
天谷がぴしゃりと二人を諫めると、藤来はあからさまに舌打ちをしながらも矛を収める。信也は雑誌を閉じ、首を鳴らしながら立ち上がった。
「ちょっと、もうすぐホームルームだよ」
「トイレだよ」
ひらひらと手を振りながら、早々に教室から退散する。
トイレに行くと言いながら、その足でまっすぐ屋上に続く階段を昇る。信也の通う学校は屋上を開放していないので、実際には屋上の扉前のスペースに腰を下ろし、雑誌を広げた。
「はあ、面倒臭い……」
思わず言葉がこぼれる。
信也にとって、現代日本は面倒が多すぎる。どうしてもっとシンプルになれないのかが不思議で仕方ない。
愛読している小説のように、実力で何でも手に入る昔の世界が心底うらやましい。しがらみもなく、ただただ努力すれば報われる世界であれば、どれほどやりがいがあっただろう。
顔が良い。友達が多い。彼氏彼女がいる。そんなものが恵まれた人生であるならば、なんと虚しい世界だろう。信也はとてもそんなものに血道をあげる気にはなれなかった。
過酷な状況で己の知識と技術だけを頼りに生きていく。シンプルに欲しいものを実力で手に入れる。そんな世界に胸を躍らせ、そんな知識ばかり蓄えるけれど、それが何の役に立たないことも理解している。
『バカバカしい』
だからこそ、信也は誰よりも自分の人生に期待していなかった。
――そう、この時、校舎全体を強い揺れが襲うまでは。
突如として校舎全体を強い揺れが襲い、信也は慌てて頭をかばいながら地面に伏せた。地震だとしたらかなり大きい。信也が体感したことがあるのは震度5が精々だが、この時の揺れは明らかにそれより大きかった。
『大丈夫、耐震構造の校舎なら揺れでは崩れない。近くに川も海も無いから水害も無い。倒れてくる物にだけ注意してれば』
こんな時のために普段からミリオタの誹りを受けながら知識を蓄え続けてきた。信也は冷静に揺れが鎮まるのを待ち、ひたすらにその場に伏せ続けた。
しばらくして揺れが静まり、信也は恐る恐る立ち上がった。まだ揺れているような感覚があり、足元がふわふわして気持ちが悪い。
しかし、当の信也はそんな足元の気持ち悪さより、嵌め殺しの窓から覗く外の風景に愕然とした。
外の風景は見慣れた住宅街ではなく、見知らぬ森が広がっている。どうやら校舎自体は森の中というわけではなさそうだが、とにかく見知らぬ場所であるということは変わらない。
異世界転移……信也の脳裏に、流行りの小説で幾度となく見かけた単語がちらつく。ある日突然見知らぬ世界に転移してしまう物語は知っているが、信也自身が巻き込まれるとは夢にも思っていなかった。
とにかく状況を――と、信也が下に降りようとした時、階下から悲鳴が聞こえてきた。
「悲鳴?」
即座に不穏な空気を感じ取った信也が身を隠すと、階下で信じがたい光景が繰り広げられた。
二足歩行する豚の化け物――物語に出てくるオークそのものが、わらわらと階段を昇ってきて、手当たり次第に女生徒を連れ去ろうとしていた。それを止めようとした教師が棍棒のようなもので頭をカチ割られ、中身を周囲にぶちまける。
それを見た生徒がまた悲鳴をあげた。
逃げ惑う生徒。なけなしの勇気を振り絞って立ち向かう教師。無慈悲に蹂躙するオーク。一瞬のうちに、校舎はまさに混乱の坩堝と化した。
そんな状況を目にして、信也は一人口元を歪ませる。
「ああ、こんなことってあるのかな。こんな幸せが僕の人生にあって良いのかな?」
信也の胸は歓喜に打ち震える。
何度夢見ただろう。何度願っただろう。暴力で全てが解決する理想郷。それが今まさに、目の前に広がっている。
この瞬間、信也の才能は窮屈な現代社会の籠から解き放たれ、大きく羽ばたこうとしていた。
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