第十七話 愚者と運命の輪

 夕方、終業のチャイムが鳴り事務室に郷愁を誘うメロディが流された。

 赤嶺関連の企業は一部を除き残業規制が敷かれており、定時と同時に帰る事が義務づけられている。その意識は社員全員に浸透しており、残業する事が悪とされているぐらいだ。

 パタパタと皆が席を立っていく中で、のっそりと動くのは笠置蓮太郎だ。

「課長。今日は残業とかないですか、もしくは宿直の交代とかあれば……引き受けますので」

「君は何を言ってるの。そんなもの、あるわけないでしょうが」

 蓮太郎よりずっと年下の課長は呆れた様子だ。

 今や人員と仕事量のバランスが取れている事は当たり前となっていた。そのため残業は発生せず、所定労働時間内に仕事が完了する。警備という仕事では宿直――諸手当がついてお金になる――もあるが、各人に負担がかからぬようローテーションは適正に決まっていた。

「あ、もし何かあればと思っただけで。それでは、お疲れ様です」

「何か悩みでもあるのかな。私は管理職だからね部下の相談に応じる事も仕事なんだよ。さあ相談にのるから言ってみなさい」

 課長は優しそうな声で言ってくれる。

 けれど本気で相談に応じるのであれば、同僚が大勢いる場所で言わないであろう。何より表情が言葉の内容を裏切っている。これで後で何かあったとして、部下に気遣って配慮してましたと免罪符にする気であるのは見え見えだ。

 課長は軽く鼻で笑った。

「言いたくないなら構わないよ。とにかく仕事に支障をきたさないように。何か辛いことがあったとしても歯を食いしばって頑張ろう。運命は乗り越えられる試練しか与えない、君だから出来ると運命に選ばれたと思うんだ」

 ありきたりな励ましは、所詮のところ受け売りでしかない。

 だから……本当に絶望の中で苦しんでいる者にとって、その言葉がどれだけ辛く無慈悲であるのか少しも気付かない。想像さえしてないだろう。だれが辛い運命を望むものだろうか。

 しかもその後に、自分がいかに幸せで楽しい思いをしているのかを続けている。

「ほら笑顔笑顔。もっと楽しい事に目を向けて、たとえば出会いを求めて街で遊ぶとかね。私もそれで嫁とであって結婚して子供も生まれて。うち両親なんて新築一軒をプレゼントするとか張り切って不動産屋に相談しだしてね。どれだけ気が早いんだろか笑っちゃうね。ほらね、こーんなに幸せなんだよ」

 両手を広げて笑う課長の姿に、胸の中でちらりと怒りが浮かんでしまう。いつか同じ思いをすればいいのに、と呪いの念を投げかけてしまうぐらいだ。

 しかし蓮太郎は直ぐに、そんな事を思った自分に恥じ入り肩を落として帰り支度を始めた。

「おう主任さん」

 そこに部下として管理を任された老人兵が声をかけてきた。部下とはいえ、軽んじられている事は薄々察している。今だって報告の書類をポンッと投げ出すように置いているではないか。

「ほれ、これよろしゅうに。ほんなら儂らは時間なんで帰らせて貰うでな」

「この書類、提出期限は一昨日なのに」

「固い事を言いなさんな。本当の締め切りは多少余裕が見込んであるはずや」

「総務に頭を下げるの僕なんで……」

「ふむ、事務屋が威張るのはどこも同じかね。まっ、しゃあないわな」

 老人は笑って歩き出し背中越しに手を挙げ行ってしまう。

 残された書類を前に蓮太郎は息を吐いた。どのみち総務担当は帰宅しており、提出は明日。きっと嫌味を言われる事は間違いなく、今から明日が憂鬱なぐらいだ。

 そうとはいえ、もう帰らねばならない。

 作業服の上着を脱ぐと椅子の背に引っかけ、壁に吊してあった背広に急いで替えた。もう事務室に残っているのは宿直をする者ぐらいだ。もう課長も含め、皆は帰ってしまっている。

「途中でミヨと会えるといいな」

 見るからに安物の背広はお尻や袖もテカテカになって生地も薄くなっている。端が擦れて傷んだ鞄は父親のお古を使っているものだ。それでもネクタイだけは真新しいのは、ミヨがプレゼントしてくれたものだからだ。お小遣いを貯めて贈って貰えたそれは、蓮太郎にとって一番の宝物である。

 ネクタイを軽く締め直し形を整え職場を後にした。


◆◆◆


 てくてく歩く帰り道。

 どこからか夕食の匂いが漂い思わず腹が鳴ってしまう。少しでも金を貯めようと昼を抜いているのだ。ずっと昔に食べたハンバーグだろうか、それとも名前も知らぬ肉料理だろうか。見た事もない料理を想像しながら歩いていく。

「空からお金が降って来るといいんだな……」

 ありそうもない事を呟くほど追い詰められている。

 その理由は、もちろん徴兵されそうな両親を救うためだ。諦めろと言われているが、到底諦めきれるものではない。そのためになんとしても、お金が欲しかった。

 自分なりにいろいろ頑張ってみたものの、しかし駄目だった。

 なんとか赤嶺伽耶乃に助けて貰えないかと頑張って失敗。

 恥を忍んで援助をお願いしようと赤嶺伽耶乃にアポを取ろうとして失敗。

 こっそり会社の貸付制度を利用しようとしたが、前の借金を完済したばかりで断られた。

 副業は禁止されており、しかも個人データが管理されているため即座にバレる。それで本業を失えば意味が無い。宝くじは考えるだけ無駄。

 どう考えてもお金を得る手段がない。

 覚悟なんて必要なくやるかやらないかだと誰かに言われた。でも、そのやるべき事が分からないのだ。どうすればお金が得られて両親を救うことができるのか、全くもって分からない。

 それでも何かをせねば気がすまず、ちょっとした残業や昼食を抜くとかで頑張っている。もちろん、それで足りるような金額でない事は百も承知だが。

 背中を丸め下を向いて歩いて行くが、ふと気付いて背筋を伸ばした。

 そろそろ自宅付近のため、しょぼくれた姿をミヨに見られでもしては余計な心配をかけてしまう。他には近所の目があって、同僚も近くに住んでいるため口さがない事を言われかねない。

「あれは……」

 道の向こうで子供たちが騒いでいるのだが、その中に姪っ子であるミヨの姿を発見した。

 しかし――囃し立てられているように見える。

 そうだと分かったのは、かつて自分が同じ目に遭ったからこそだ。いつもの蓮太郎であれば即座に助けに入っただろう。だが、今はそれが出来なかった。

 なぜならば……ミヨがそんな目に遭っているのは、自分が原因だったからだ。

「お前んとこの、おじさん役立たずの無能者なんだってな」

「なんか聞いたけど、こないだの戦闘で気絶したんだって。すげー格好悪い。ねえ馬鹿なの死ぬの」

「だからいい年して独身なんだって父ちゃんが言ってた」

「お前んとこって貧乏なわけ? そいつの弁当がお握りだって本当?」

「家とか雨漏りしてるんだろ、今度見せてよ」

 親が自宅で話す内容を聞いて、それをミヨにぶつけ囃し立てているのだ。

 蓮太郎は頭の中が真っ白になって動けなかった。

 自分が馬鹿にされる事は慣れて我慢できる。でも、自分が原因で自分の大切な者が馬鹿にされる事は我慢できない。けれど、今ここで自分が登場すれば火に油を注ぐだけとも分かっている。

 出来る事は物陰で耐える事のみだ。

「うるさーい! うちの蓮太郎は凄いんだから。ちょっとドジで失敗とかするけど本当は凄いんだから。蓮太郎を馬鹿にしないで!」

「凄くなーい。役立たずだって父ちゃんが言ってた」

「凄いの! とにかく凄いんだから! あんたたち、いつか絶対に後悔するから!」

 必死に弁護しようとしてくれるミヨであったが、やっぱり何がどう凄いのか具体的に言えずにいる。二重、三重の意味で哀しくなってしまった。

 今の蓮太郎に出来る事は誰にも見つからぬよう、この場を立ち去る事だけであった。やっぱり逃げるだけの臆病者なのだ。

 静かに物陰を離れ、とぼとぼと歩きだす。子供の姿に怯え人の姿を避け、普段は行かないような公園に到着した。ベンチに座り込むと、もう背筋を伸ばすことも出来ないほど落ち込み憂鬱な気分だ。

 役立たずの無能と思われている事は察していたが、その事実を突きつけられると嫌なものだ。

――もう駄目だ詰んでる。

 両親を救えないばかりか、ミヨにとって自分の存在が足かせになっているのだ。もう何もかも嫌になってしまった。このまま幻想生物に殺されたとしても構わないぐらいだ。

 その時、公園を女子学生三人が元気に走って行く。

「影で努力でランニング! ファイオー!」

「師匠を驚かせましょう」

「お二人ともペースを一定に」

 眩しいぐらいに明るく前向きで元気な姿だ。ミヨにはあんな風に生きて貰いたい。しかし家族に役立たずの無能が存在しては同類扱いされてしまい、それも難しかろう――ふと、そこで以前に聞いた話を思い出す。

 それは戦闘で死んだ社員の両親が徴兵されかけたのを赤嶺伽耶乃が救った話。弔慰金という形で不足分を出してくれたのだという。

「……そっか、これだよ」

 天啓の如く、自分が何をすべきか蓮太郎には分かった。己のやるべき事を、進むべき道を見いだしたのだ。

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