深淵
谷田響平
第1話 真夜中の交通事故
~怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
お前が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだ~
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
2月、世間はバレンタインデーを1週間後に控えて盛り上がっている。カーラジオをつければ、国生さゆりの“バレンタインデー・キッス”の歌をバックにしてDJが視聴者からの投稿を読み上げている。何となくでもそんな雰囲気を与えられると、帰社途中の車内の会話も染まってしまうものだ。
「もうバレンタインが近いというのに、何で俺はお前と一緒に日帰り出張をしなきゃならないんだよ」
男は明らかにイラついているようで、激しく貧乏ゆすりをしている。
「しょうがないじゃないですかぁ、急遽足柄に取材しに行かなくちゃならなかったんだから」
「わかった。取材で急遽足柄へ行くことになったのは理解した。だけどその内容が何だよ!?猿が人里におりて暴れているから取材してこいって!?どうだっていいよ!俺の家の近所にある居酒屋だったら、毎晩酔っ払いが出没して暴れてるんだぞ。そっちの方が迷惑だろ。まったく居酒屋もどんな酒を飲ませてんだよ!?酔っ払い輩出しすぎだっちゅうの」
「先輩、野生の動物と酔っ払いを一緒にしないでくださいよ。怪我人が出ているんだから大変なことなんですよ」
「あ~ぁ、お前は猿に肩入れするんだな!?よし、じゃあ百歩譲ってエテ公の取材はわかった。でもよぉ、世間はバレンタインだぞ!せめてこの時期はチョコもらいに山へ戻れって感じじゃねぇ!?山に帰ってもチョコをくれるメス猿がいないから暴れてるんなら筋違いでしょ。それはモテないお前が悪いってもんだろ!?違うか?」
男は窓を開けてタバコを吸おうとしたが、後輩に制止された。そこで、「チッ!」と舌打ちをしてタバコをポケットに入れたが、半分まで開けた窓から冷たい風が入ってきて、それが心地良いからそのままにした。
「猿にはバレンタインデーなんて文化は無いっすよ。」
「そんなこと知っとるわ!バカヤロウ」
理不尽な先輩に後輩が面倒臭そうに笑っている。それから少し沈黙が続いた。男は外の景色を眺めていた。時計の針がまもなく23時をさそうとしている。この時間の東名高速道路の大井松田インター辺りは本当に静かなものだ。
箱根の峠を越えて長いトンネルを抜けると見える景色は何となく安心感を覚えさせる。男は福田昌彦という。福田は大衆向けゴシップ週刊誌、「週刊現在」を手がける三流出版社の商談社で記者をしている。まもなく33歳になろうとしているのに独身で、仕事に命をかけているという熱血タイプである。本人は経済記者になりたいという希望があるのだが、なかなかそれがかなわずに今は文化部に配属されている。そして隣で車を運転している男は杉吉孝一でカメラマンである。福田よりも3年後輩で、仕事で一緒になることも多く、よく飲み歩くほど仲が良い。
「おい、もう11時だぞ。会社には何時に着くんだ?」
「このままだと12時は確実に過ぎますねぇ」
「えぇ!?マジで?じゃあ会社に着いて、原稿書いて、後処理して、帰るの朝方じゃん」
「僕もそんなもんっす」
「また朝日を見ながら帰宅かよ!?世間は逆だよな。たまには朝日を拝みながら出社してぇよ」
「先輩そんなこと言ってるけど、早く帰れた日は基本的に飲み歩いてるじゃないですか?」
「お前に言われたくねぇよ!お前だってそうじゃん、あぁ早く帰りたい。よし、今からやるか」
そういうとバッグからノートパソコンを取り出して電源を入れた。そしてさっきラジオで流れていた“バレンタインデー・キッス”を口ずさみながらインタビューのチェックをはじめる。そのとき、杉吉がサイドミラーを見ながら言った。
「先輩、何か後ろから変な車が物凄いスピードで向かってますよ・・・」
「そりゃそうだよ杉吉君。だってここは高速道路だよ!スピードは一般道路よりも出さなきゃダメじゃないか」
頭の中が仕事モードに切り替わりはじめているから杉吉の言葉に耳を貸さない。
「いや、そうじゃなくて・・・後ろから車が大きく蛇行しながら物凄いスピードでこっちに向かっているんですよ!・・・ん?あれはワゴンですね。でも何であんな運転してるんだ!?」
杉吉の声にかすかな焦りが感じられた。福田は気になって後ろを振り返った。確かに後ろから2つの光が、夏の夜に踊る蛍のようにゆらゆらと揺れていた。
「何だあれは?ちょっとやばくねぇか?」
白いワゴン車は前方を走る車を大きく蛇行しながら追い抜いていく。ワゴン車の前方を走る車は、これを避けようとハンドルをきったり、急ブレーキをかけたりしているが何台か接触してハンドルを奪われていた。ワゴン車はそれにも動じることなく荒い運転を繰り返している。その光景に福田はぞっとした。
「杉吉、やばいぞ!こっちに向かってくる」
福田は声を荒げた。杉吉はハンドルを左にきって左車線へ寄った。しかし蛇行を繰り返すワゴン車はどんどん距離を縮めてくる。
「ダメだ!もっとスピード上げろ!」
ワゴン車がすぐ後ろまで来て、ライトが福田たちの車の中を明るく照らしている。さっきまで遠くに感じていた車がすぐ目の前まで迫ってきたことに恐怖を覚えさせた。
「無理です!これ以上は危険ッス」
「あぁダメだ!!間に合わない」
福田はこれ以上ワゴン車を見ることが出来ず、正面へ振り返りうずくまった。そのとき、ワゴン車が大きく右へ逸れて、福田たちの車の横を通過した。
「おぉ、助かったぁ」
思わず杉吉は叫んだ。その言葉に福田も恐る恐る顔を上げて辺りを見回した。福田たちの車を追い越したワゴン車はハンドルをきり損ねて中央分離帯に乗り上げた。そしてその反動でゴロンゴロンと転がりながら福田たちの車の前を横切っていった。
「危ない!!」
杉吉は思わず急ブレーキを踏んだ。その勢いでハンドルを奪われ、独楽のようにくるくると回転して側道の壁にぶつかって止まった。
「うっ・・・うう、す、すぎよしぃ!!大丈夫かぁ!?」
福田が首を抑えながら言った。
「だ、大丈夫です。いやぁ、死ぬかと思いました」
杉吉はそう言うと後ろを振り返り、後部座席に置いてあるカメラ機材の無事を確認した。そのとき、ちょっと先の方に横転したワゴン車があるのを発見した。
「先輩、あれ!あの車・・・横転してますよ」
杉吉が指差す方向にさっきまで暴走をしていたワゴン車が横転しているのであった。
「杉吉、カメラを持て!あの車を見に行こう。あっ!あと電話だ。警察に連絡してくれ」
福田は思いつくままに杉吉に指示を出した。そして車から降りると急いでワゴン車に向かって走り出した。杉吉も警察に連絡をしながら福田の後を追いかける。
「あのぅ!大丈夫ですか?怪我はありませんか?」
そう言いながら福田は横転した車に飛び乗り、ヒビの入った窓の中を覗き込むと、中年の男が運転席で血まみれになった状態でいるのを発見した。髪が薄い小太りの男は衝突のとき、顔面をぶつけたようで顔がグチャグチャになり、血で真っ赤になった姿はまるで達磨のようだった。そこでドアを開けようとするが、事故の衝撃のせいで開かなくなっている。
「ここのガラスを割りますから、すみませんが気をつけてくださいね」
大げさにジェスチャーをしながらそう言うと、福田はジャケットを脱いで、左手の袖を引きちぎるとそれを右の拳に巻きつけた。そして小さな窓ガラスめがけ、大きく振りかぶって何度も窓に叩きつけた。
“バン、バン・・・”
次第にヒビが拡がっていく。そして“バーン”と大きな音をたてるとガラスが粉々になって割れた。粉々になったガラスの破片が男の顔や身体中に降りかかったがそれに反応することはなかった。車内に入ろうとしたとき、一瞬、車内から物凄いアルコール臭が熱気とともに福田の顔を襲ってきた。
「うわぁ、何だこりゃ!?」
福田は目をつぶって首を振りながら、ワゴン車から漂う熱気を振り払った。そして目を開けるとじっと男を見据えた。
「今から助けますから、どこか痛いところはありますか?」
男は返事がなかった。福田はかまわず窓から乗り込んで、男の身体を絞めているシートベルトを外そうとした。
「えっ?」
福田は男の身体を見て寒気がおそってきた。運転席の奥に座る男の背中から大量の出血があった。男はチアノーゼを起こして意識が朦朧としている。
「・・・リ・・・・・・・ン」
男は微かに息をしている。そして福田に何かを伝えようとしているのであった。
「えっ?何て言いました?」
福田はわずかに聞こえる言葉を聞き取ろうと必死になった。
「リ・・・フ・・・・・・」
「リフ・・・?どういう意味ですか?」
福田はさらに身を乗り出して男の言葉を聞き取ろうとしたが、同時に後ろから杉吉が足を引っ張ってきた。
「先輩、車からガソリンが漏れてます。危ないですから、もう行きましょう」
「バカヤロウ、勝手なまねをするんじゃねぇ!俺はこの人を助けるんだ」
福田は足を引っ張る杉吉に蹴りを入れた。
「ダメですってば!車が爆発しますよ!もう逃げなきゃ死んじゃいます」
そう言って力いっぱい福田を引っ張り出した。とっさに福田は男の胸ポケットから財布を抜き出した。
「てめぇ、何しやがる!!あの人を助けなきゃ死んじまうじゃねぇか!?」
杉吉の胸ぐらを掴んで怒鳴った。そのときワゴン車からは煙が立ち込めてきた。
「やばい、あの人が危ない」
とっさに再び車の中に入ろうとした福田を杉吉が後ろから羽交い絞めにした。
「やめてください!本当にもう危ないっすから」
「放せよ!バカヤロウ!てめぇは俺の言うことが聞けねぇのか?」
必死に暴れるが、杉吉のロックが堅くて解くことができない。それでもワゴン車に近づこうと力いっぱい歩いた。
“バーン!!”
突然2人の目の前でワゴン車が大きな爆発音とともに激しく燃え始めた。その勢いで2人とも尻餅をついた。
「おっさん!!」
男の身体を炎が包み始め、間もなく福田と杉吉の目からは男の姿を確認することが出来なくなった。2人は燃え盛る炎を前に、力なく座っているだけだった。
数分後、数台のパトカーと救急車、そして消防車がやってきて、消化活動がはじまった。そして警察は事故の状況を福田と杉吉から確認しはじめたが、まもなく救急隊員が福田を介抱しにやってきた。どうやら窓ガラスを割ったときに、右拳を切っていたようだ。大量の出血が痛々しい。けれど、この間、福田は放心状態で自分が周囲の人たちに何をされているのかわからなかった。間もなく福田を乗せた救急車は病院へと向かって走り始めた。
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