第5話 少女
満月だ。
一昨日はまだ少し欠けていた月が、今日はまんまるの形で藍色の空に昇る。月明かりが煌々と木々を照らしている。
日中は暖かくなってきたが、朝晩はまだ冷える。
シイナはコートの襟を正すと、両手をポケットへ突っ込んだ。
夜も更けたこの時間に外を出歩く人はほとんどなく、しんとした静けさの中、自分の靴音がやけに響いて聞こえた。
シイナは夜のこの静けさが好きだった。
一人で考え事をするにはちょうどいい。今は特に、自分の中の思いを色々と整理したかった。
部屋にいると、やたら心配性の世話焼き男がいてゆっくり考え事ができない――なんて本人が聞いたら怒り出すだろうが。
心配させているのも、それをあえて表面に出さないよう、気を遣ってくれている事も分かっているのだ。だからこそ自分の心の内を整理しておきたい。
昼間は賑やかな大通りを抜け、少し歩いた先に開けた場所にたどり着く。
噴水広場だ。
中央にある噴水まで近づこうとして、ふと足を止めた。
先客がいる。
片手で眼鏡を押し上げ、シイナは目を細めた。
この時間のこの場所には似つかわしくない先客だったからだ。
子供だ。
そこまで幼くはないが、それでもこの時間に出歩くような年齢ではなさそうだ。
――面倒ごとは嫌いなんだがな。
それでも、見つけてしまったのだから放っておくわけにもいかない。小さく息を吐く。
その子供は、今の時間止まっている噴水の縁に座り、ゆらゆらと揺れる水面を見つめていた。こちらにはまだ気がついていない。
シイナがその子供に向かって歩き出すと、足音に気付き、弾かれたように小さな顔がこちらを向いた。
思わずその場で足を止めた。
少女だった。
驚いたように目を見開きシイナを見上げる。
少女とは別に、シイナも驚きを持って目の前の少女を見た。
恐ろしく、綺麗な少女だった。
長いプラチナブロンドの髪に月明かりが当たり、まだ痛んでいない子供特有の柔らかそうな髪が、きらきらと揺れる。大きく見開かれた瞳は、怖いほどに澄んだ青だった。
作り物のようだとシイナは思った。
しかしよく見ると、服はぼろぼろで、まるでどこかから転げ落ちたかのような汚れ具合だ。
スカートの裾についているのは、血の跡のように見えた。
瞬間、シェリアの話が頭をよぎった。
『先月の大きなバス事故で、子供二人がいまだ発見されず――』
固まったように動かない少女に、思わずそのまま頭に浮かんだ言葉を口にしてしまった。
「お前――天使か」
青い瞳が驚きから怯えに変わる。
しまった――
案の定シイナが近づくより早く、少女は野生動物のような身のこなしで反対方向へ走り出す。
が、足がもつれ派手に転んでしまった。
「大丈夫か?」
警戒心を解くように、なるべくゆっくりと少女の側へ寄ると、地面にスライディングするような格好で転がった少女が起き上がる。白い肌は擦り傷だらけで、手の平と膝から血がにじんでいた。
だがしかし、次の瞬間には目に見えない消しゴムで、音もなく消されていくかのように傷が消えていき、元の白い肌に戻った。
傷跡すらも残らない。
少女はその手をじっと見つめた後、シイナを見上げた。諦めの表情だった。
――なるほど、これは……。
話に聞いてはいても、どこか半信半疑だった。しかし、目の前でこれを見てしまうと信じざるを得ない。確かにこの力ならば、リリー・ロイスは回復するのかもしれない。
だが――
シイナが手を伸ばすと、少女が身体を小さく縮める。少し宙を彷徨った手が、小さな頭に置かれ、わしわしと乱暴になでた。
「別に取って食いはしない」
コートを脱ぐと、小さくなった少女の肩に掛けた。地面に散らばった少女の物と思われる荷物を拾い上げると、コートごとその小さな身体を抱き上げる。思った以上に軽かった。
きょとんとした顔に向かって、シイナは言った。
「いつまでもここにいてもしょうがないだろう?」
少女はシイナの黒い瞳をじっと見た。すべてを見透かされそうな、何かを見透かそうとしているかのような、そんな瞳だった。少女の気が済むように、黙ってシイナはそのまま青い瞳を見返す。
しばらくすると、抱きかかえた身体からふっと力が抜けるのが分かった。
警戒が解けたと判断したシイナは、ゆっくりと歩き出す。腕の中で揺られながら、少女はきょろきょろとしきりに辺りを気にしている。
そういえば、事故現場から姿を消したのは子供二人だったはず。
「人から聞いた話だ」
少し言葉を選びながら、シイナは何気なく聞こえるように話す。
「事故現場から子供が二人姿を消した。一人はお前だな?」
少女が戸惑いがちに頷く。
「もう一人はどうした?」
途端に青い瞳が曇る。ふるふると首が横に振られた。
はぐれたかあるいは、もう一人も天使だった場合、すでに捕まったか……しきりに辺りを気にする様子から、誰かに追われていた可能性が高い。
――ということは、もう一人は捕まったか。
ここでシイナは、少女と出会ってからずっと感じていた違和感に気がついた。
「お前、喋れないのか?」
そう、少女はこれまで一言も声を発していない。
喉を押さえ、少女はこくりと頷いた。
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