「やだもう、そんなに泣かないでよ」

 目の前の先生は、そう言って僕に数枚のティッシュを差し出した。そう言われても、大好きな人があと一年もしないうちに──僕が卒業する前に死んでしまうと知って、泣かずにいられる17歳を少なくとも僕は知らない。

「あと一年もあるんだよ?」

 先生は笑う。でも僕はちっとも笑えなくて、また涙を流す。

「それに私が居なくなっても、君はいい子だから、またすぐに別の先生のお気に入りになるんだろうし」

 先生はまだ笑う。僕はもっと涙を流す。先生は困って、やっと笑顔でいることをやめたようだった。「でも」

「……君の高校生活を最後まで見られないのは、すごく残念」

 そうして吐き出した言葉は、一瞬だけれど僕の涙をとめた。僕は今17歳で、季節は夏。先生とお別れするのは来年、つまり18歳の夏。

 あと一年。それはきっと、息をのむほどあっという間で。

「あとね、私冬にこたつで食べるアイスが大好きなの。でもそれも、次の冬にしか出来ないんだよね」

「……そう、ですね」

「桜はまだもう一回見れるみたいでよかった。でもそうやって考えると、本当に君の卒業式に参列できないことが寂しいね」

「……はい」

「君と写真を撮りたいなって思ってたんだよ」

「……それは、…はい」

「君、保健室の一番の常連さんなんだよ? 私一昨年にここにきて、今までずっと君みたいに気軽に話せる生徒なんていなくて」

「……意外ですね」

「意外なんてことないよ。実は超絶人見知り! 君くらいだよ、こんなにたくさん話せるのは」

 先生は、まるで流れゆく時間が惜しくて惜しくてたまらないように話し続けた。僕が相槌を打てなくなっても話は続いて、最後はもう先生一人の演説会のようになっていた。

 先生は語った。好きな食べ物のこと、好きな動物のこと、好きな花のことを。今までで一番つらかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、寂しかったことを。両親のことを、祖父母のことを、一人の兄と妹のことを、過去の恋人たちのことを。


 そして、大きな後悔の話を。


「私が抜け殻だった日、君は覚えてる?」

「…、あの日ですよね」

 きっと、これが先生と二人で話す、最初で最期の秘密なんだということは、誰に言われなくても痛いほどわかっていた。

「そう、あの日。君が気を利かせて、不在にしてくれた日」

 悪戯っ子のように笑う先生は、もうすぐ30歳になるだろうに随分と幼く見えた。錯覚か、寿命が近いからかは定かではない。

「私の大事な教え子が、「最期だから」って遊びに来たの」

「あ、そうだったんですか? なのにどうして──」

「その子は、私と同じ病気だったから」

 先生は僕の言葉を遮りそう言った。儚いのにやけに強い語気に、僕は一瞬声を失う。でもやっぱり気になって、生意気にも聞いてしまって。「病気?」

「綺病のひとつ、"霧散病"」

「むさんびょう……」

「死ぬ瞬間に霧になって、骨も身も全て跡形もなく消える病。進行すると、時折指先や足先が幽霊みたいに薄くなったり、時には消えたりするの。涙なんかはもうすぐに霧になってしまうから、泣けない病ともいうみたい」

 先生は嘲るように笑って、それから僕をじっと見つめた。僕は恥ずかしさと驚きで、何か言おうにも言葉に詰まってしまい口をパクパク金魚のものまねをするしか出来ない。

 そんな間抜けな僕を、先生の目は映してなんていないんだって気付いたのは、先生が酷く寂しげな表情かおをしたから。

 訊かなくてもわかる。先生は今、僕という一生徒を通して、死んでしまった教え子を見ている。


「彼女は、私の目の前で霧散したの」


 ぽつりと零された言葉を拾えないほど、僕の耳は馬鹿ではなかったらしい。けれどもう少し馬鹿だったらよかったのかもしれないと、今になれば思う。

「決めていたんだって。病気の話を主治医の先生から聞いた日に、私の前で死のうって」

「…………どうし、て」

 相槌とも呼べない。質問にしては無遠慮。そんな声は、さっきまで泣いていたことと驚きでろくな音にならずに空中で分解した。

 先生が泣いていないことだけが、せめてもの救い。

「彼女は私に本気で、恋を、していたんだって。その日、最期の日、彼女が自分で教えてくれたの。「だから私は、好きな人の前で消えたい」って、彼女は言った」

「…………」

 酷く歪んだ愛情だけれど、それは誰がどう見たってどう考えたって本気の愛だった。先生の教え子がどれほどの想いを抱えて、その日、先生に会いに来たんだろう。

「……私は罪深いことをしたんだよ。綺病は何も残らないで死ぬから本来は家族の前で消えさせるべきだったの。……私の前で消えていいような、そんな安い命なんかじゃ、なかったのに」

 先生は泣かない。こんなにも悲しそうなのに、一筋も涙をこぼすことなく、ただ語った。

 最期だから。先生にとっても、今はもう亡き教え子にとっても、僕にとっても。


「私は、誰の前で消えるべきなんだろうね」


 嗚呼、先生。

 お願いだから泣いて見せてください。



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