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 桃園は市街の中心に位置していた。

 敷地は神社でもないのに鳥居によって境界が区切られている。

 そしてそこから先に足を一歩踏み出すと――


(……いなくなる。誰一人、消えていく)


 成一が鳥居をくぐるまで、そこには大勢の人がいた。

 冬空の下でも華やかな花の風景と、常の収穫を楽しめる果実の園。

 だがその季節感のない賑やかな宴の眺めは、ただ一人の訪れにより蜃気楼とかき消える。

 ここは他者に邪魔されることのない夢幻の間。けれど今の成一には孤独の廃城の趣だった。


(ここにいったい、何がある……)


 忌まわしい場所だった。

 過去に二度、最初はここが異世界であると思い知らされて。

 次には無様な失敗と痛みの記憶を刻まれて。

 ――この三度目は、どうなるか。


『あら、今日は一人なのですか』

「っ、誰だ!!」


 声がした。姿はない。四方八方に視線をやる。

『ねーねーきこえる? きこえてる?』

『くすくす、じゃあおはなしできるっ』

『そうね、おはなしてもいいみたいね』

「何処にいる! お前は誰だ何者だ!」

『……ふふ、何者と聞かれましても……』


 成一は声を張り上げて呼びかけた。全方位から声がする。感じられる。

 これはまさかとはっとなり、


「……ここの、木々なのか?」

『はいはーい』『そうだよっ』『もものきなのです』

『以前も呼んだことはありましたが、その時ははっきりと聞こえていなかったようですね』

「なるほどな……サーペントめ」


 幻想ここに極まれりだと成一は息をつく。

 今でなければ分からないというのなら、これはおそらくヒロイン側ではなくプレーヤー側に解禁された情報なのだろう。丁寧に段階を踏ませられるのは愉快とは言い難かったが。

 尋ねていく。

「俺は今現在、ただ一人の現実から来たプレーヤーだ。それが分かるか?」

『とうぜんー』『しってるよっ』『あたらしいひとですね』

「……話の通じやすい奴だけ喋ってくれ」

『まあ不遜なこと。いっそ小気味良いくらい』

 成一は深く息を吐く。唐突に現れては喋って浮く白蛇型のぬいぐるみのおかげで非現実にも多少は慣れてくれたと思っていたが。

「対話するにあたって姿が見えないのは不便だな……」

『ならこうしましょう』


 成一の眼前に――全身に淡い光を纏ってわずかに透ける――和装束の若い女性が出現する。

 花風に吹かれる彼女の長い髪も薄桃の、現実感のない儚い色。

「……幽霊か」

「そのようなものです。目線が定まれば少しは話しやすいでしょうか」

「有難い。固有名詞があるともっと便利かもしれないな」

「では私たちのことは『木霊こだま』とでも」

「そのままか。分かりやすくていい名前だ」

「まあお上手。その様子では順調に恋を育んでいるのでは?」

「――ノーコメントだ」


 木霊はくすりと微笑する。

 というよりも柔和な表情が一切まったく崩れない。

 成一はまず彼女に頭を下げ、

「教えてほしいことがある。サーペントというぬいぐるみは知ってるか」

「存じております」

「そいつが俺に言ったんだ。ここに真実があるのだと」

「真実とはまた大それた……ここにはあなたが目にしているもの以上の何かは存在しません」

「サーペントはここにゲームをクリアしたプレーヤーの先があると言った。それを知りたい」


 成一は木霊の瞳をじっと見てそう言った。

 彼女は能面のように固定された笑顔ではなかったが、ただずっとやわらかくほほえんで、

「……そんなに見つめられましても、私はもう満たされておりますので」

「満たされてる?」

「プレーヤーが望んだ先にあるものです。分かりませんか」

「分からない。そいつらは現実世界に戻っただろう?」


 成一は躊躇わずにそう言った。木霊は目線を細めてこちらを見て黙っている。

 悪魔が嘘をつかないというのなら、サーペントが言った最初の説明通りなら。

「ハッピーエンドを迎えれば……プレーヤーは現実に帰るんだろう……?」

「はい。その望みを叶えたいと思うなら」

「ッ!! 雲をつかむような話をしに来たんじゃない! もっとはっきり言ってくれ!」


 苛立った。こちらの言葉が柳に風と受け流されているようで声を荒げて不快を示す。

 それでも木霊は緊張のないふわりとした顔つきで、

「あなたはここがお嫌いかしら」

「少なくとも愉快だとは思ってない」

「恋する他には何も心配いらないのに?」

「俺には帰る場所があるんだよ」

「……? おっしゃることが分かりません」

「っ、俺はここに来てすぐサーペントに銃で撃たれた! 即効で治されはしたが、期限までにクリアできなきゃ命を取られる。そんな世界が心地良いわけないだろうッ、分かってくれ!」


 そうしてようやく木霊は目を瞑り、表情に陰りを見せてくれるかと思ったが。


「しかしそれは、現実でも同じではないですか?」


「……! 何がだよっ」

「分からないことではないはずです。人はみないつか必ず死んで消えてしまう」

「それがいつ来るかは分からない! 自分が終わる瞬間など、神のみぞ知る領域だ!」

「ですがここでの二十一日間はそれが保証されています。あなたはここでは無駄に死なない。たとえ死ぬことになっても必ず自分にとって意味ある最期を得られます。そしてここでもし、あなたが満ち足りた美しい結末を迎えられた暁には、その至福の瞬間に対して自分の意志で」

 木霊は告げる、笑顔のままで。



「――〈〉と、願い叶えられるのです」



 思考が凍る。それが桃園の真実だと、一瞬のうちに理解して戦慄する。

 この周りを囲む幾千万の花びらと枯れ朽ちることのない木々が――永遠の世界が――まるで一斉に牙を剥いて襲いかかってきたように錯覚し、


「まさか、この木々は……」

「はい。現実に帰らなかったプレーヤーが望んで変わった姿です」

「嘘をつくな!! ハッピーエンドなんて無い! こいつらはみんな木にされたッ」

「違います。木霊とはかつてプレーヤーとヒロインだった二人が恋を育み結び合った魂の形」

「な……!?」

「あなたは現実に帰って、何かしたいことがあるのですか?」

「――、それは」

「愛し合う二人は永遠だと胸をはって言える世界がここにはあります。あなたの居た現実にはそれがありますか? 絶対の安寧を約束してはくれないでしょう?」

「だとしても! 俺は帰りたいと願っている!」

「いつか不幸になるとしても? 優しいあなたにはわかるはず」

「っ、確かにそうかもしれないが!」

「至上の幸福のなかで時をとどめたいと願うのは、人の多くが望む理想でしょう?」

「詭弁だろ! はぐらかすな!」

「それがこの世界でハッピーエンドを迎えた者の望みとして、何かおかしいのでしょうか?」


 狂ってる。木霊は全てを笑顔で告げる。やはりここに怖れを抱いた直感は正しかった。

 この桃源郷こそ世界の歪みの中心で――


「……吐き気がする。未来に進まず時を止めた永遠なんて、死ぬのと何が違うんだ?」

「? あなたは夜の安らかな眠りにつく時さえ、そうも不安になるのですか?」

「タチの悪い冗談だ!! 醒めない夢に沈むなど、いったい誰が杞憂する!」

「私が木霊となる前の片割れも、同じ不安を感じたようです。しかしながら愛する人が現実に戻ること、行くことを望まないならば、それに応えたいと想うのもまた自然でしょう?」

「それは! ……ぁ」


 そのとき成一は、言葉を失う。

 自己を確かに保つための反論を用意しようとして、


 『勘違いしないで下さいます? 私は今でもこの豪華絢爛な家が大・大・だーい好きですわ』


「――俺は」

「あなたの憤りはもっともです。しかし現実への回帰を望まないプレーヤーがほとんどです。そしてあなたはヒロインを覚醒させているのかもしれませんが、エンディングの後に目覚めてしまった場合は現実への同行を拒む者も少なくない。それをいったい誰が責められましょう。何より他者の幸福を自己の尺度ではかるなど――おこがましい議論ではありませんか?」

「つまりはそれが、……ハッピーエンドの先にある真実だと?」

「はい。白蛇様はこうおっしゃられたはずです。この世界で起きることその全ては」

「……俺次第、か」


 成一は力なくうなだれた。

 無力さを思い知ったのではない。木霊に諭されて、それを飲んでしまったからだ。

 成一は不毛なことが嫌いだった。何より父の浮気で破局した両親、かつて誓い合ったはずの絆が壊れる様を目にしていた。木霊の言うことの大半は否定できないと理解している。

 それでも成一が、必死にこの退廃を認めたくなかったのは。


「教えてくれ、木霊。きみはいま……幸せか?」


『はいはーい!!』『しあわせですっ』『だいすきなひとと、ずっといっしょなのですよ!』


「はいっ、私は今もこれからも永遠無窮に幸せです! なにもこわくなど、ありません☆」


「……っ、そうか、そうだよな……っ」


 成一は俯いて、再び包帯の巻かれた左手を握りしめる。奥歯を噛む。

 駄目だった。彼女らを羨ましいと思ってしまう。それは今なお憧れていた姿だったのだ。

 不滅のもの、永遠と言える絶対の絆。想いに殉じられる清らかな純粋さ。

 もし〈死んでもいい〉と答えることができたとして、それが一切の汚れなき心なら――


「っ……ぅあ、ああああああああああ!!」


 泣き崩れる。地面に伏す。思い出してしまっていた、一度は死を迎えた時に見た琴歌の涙。

 もしあのまま死んでいたら、一緒にこの木のひとつになったのだろうか?

 そうでなかったのだとしても成一は。

 ――彼女達のような、久遠に花を咲かせる美しい桃木に、なりたかった。

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