聖女生誕・前編


 皇国最悪の十年が、どれだけひどいものだったのか。

 史実を紐解く時に、決して許されてはいけないエピソードとして語られる歴史的意義のある出来事に、一つのよくある悲劇が挙げられる。

 曰く、ハーバリア皇国崩壊の最初の悲劇は小さな村で起こった、と。






 かりかりかり、と少女の手足がむさぼられていた。

 少女に食いついているのは、がりがりにやせたドブネズミだ。彼らは久しぶりのごちそうを見つけ、一心不乱に前歯を突き立て肉をむさぼっている。

 ネズミなんてとっくの昔に逃げ出したか全滅したとばかり思っていたのに、存外まだ残っていたらしい。体を食べられている少女は、まるで他人ごとのようにそんなことを考えていた。

 彼女は、そっと手を伸ばした。ネズミを追い払おうとしたのではない。捕まえようと思ったのだ。捕まえて、食べようと思ったのだ。

 だが俊敏なネズミは、あっという間に姿を消す。いまの彼女より、ネズミの方が遥かに元気だ。一度は壁穴に逃げ込んだネズミだったが、空振りに終わった緩慢な動作に、少女が動く気力もないと知るとまた集まって、ぼりぼりと齧歯類特有の前歯で肉をむさぼりはじめる。

 ああ、おいしそうに食べているな。うらやましい。

 食事の風景を見て、そうとしか思えなかった自分の思考がおかしくて、笑えた。

 なぜ自分はまだ生きているのだろうか、と彼女はぼんやりとどうでもいいことを考える。

 彼女の父は、生まれた村で教えを説き続けた。人間の善性を信じていた。この村の人々だって、敬虔深い者ばかりだったはずだ。神の愛を信じ、隣人の愛を信じ、小さな社会は平和と正義の営みに支えられていた。

 村の一員である少女は、父のことが好きだった。神父だった父を見習って、修道女となった。洗礼を受けた後に名を神に捧げ、一筋の恩寵を挟んで名付けられた時も誇らしかった。

 この村の一員として、父と一緒に小さな教会を支えよう。彼女はなんの疑いもなく、これから続く未来を信じていた。皇帝が代替わりして、少しずつ世情が変わっても、遠くの話だと思っていた。国のはずれにある小さな村には関わりのないことだとばかり思っていた。

 若者の動員令があった。なんでも、都市部の発展のために人手が必要だったらしい。

 新たに皇位に就いて、二年と少し。ここに限らず、村の若者は多くが都市部に徴発された。村の貯蔵も同時に持っていかれた。労役は幾ばくの金銭と徴税分の差し引きと引き換えだった。まあ、金をくれるならと、その時は納得したのだ。

 その年、日照りに晒された。

 雨が降らなかったのだ。春と夏の半年で、雨が何回降ったのか。村に貯めてあった備蓄で何とか食いつないで、秋になって徴税で食料が持っていかれた。労役代わりの税の軽減の話はなかったことになっていた。それが限界だった。

 村には井戸から得られる水の他、何も残っていなかった。いいや、金だけがあった。町で食料を買いに出ていったら、小麦が信じられないほどの値段で、村の有り金をはたいてようやく半袋だけ購入できたという。

 買い出しにいった村長はその事実を正直に話して頭を下げ、殺気立った村人からふざけるなと袋叩きにあって死んだ。

 それから、村は決定的に変化した。

 井戸の水が枯れなかったのが、良かったのか悪かったのか。むしろ、なかった方がさっさと死ねてよかったんじゃないか、と少女は思う。

 水がなければ三日で死ぬが、水があると、人はわずかな食料でも数カ月生きてしまえる。

 苦しみが薄く引き伸ばされ、長く続いた。

 村の人々がやせ衰え、骨に皮がへばりつくような様相に変わった時だった。

 神典を片手に、神を語って飢餓に対して何の手立てもないことを責められて、多少の秘蹟など意味はないとなじられて、刺されて死んだ。あっけないにもほどがあった。それで終われば、むしろ幸福だった。

 死体を見て、誰かが言った。

 肉。

 誰も彼もががりがりにやせ細っている中で、どいつもこいつも飢えていた。

 だから、父の死体は荼毘に付されることすらなかった。

 それが、人の信仰の裏側だった。

 人は、空腹の苛立ちで人を殺せた。人は、殺した誰かを食べてでも生きようとした。平時ならば死んだほうがましだと思っているはずのおぞましいことを、迷いながらも正当化してしまった。

 人々の信仰よりも、人々の善意よりも、人々の悪意よりも、身を苛む空腹が優った。あらゆる感情と理性、歴史と教え、経験と痛みの果てに積み上げたはずの信仰と倫理よりも、飢えが勝った。

 父が骨の髄までしゃぶられた次は、司祭の娘だった彼女だった。

 逃げられないように片足を切り取られて、縄でつるさげられた。ぼたぼたと傷口から流れるのは血抜き代わりだった。死んだら腐らないうちに全部ばらすんだと、飢えが満たされて血色がよくなった誰かに言われた。

 救いだったのか、絶望だったのか。彼女をつるさげた荒縄が腐っていたらしく、吊るされた半刻もしないうちに千切れて床に投げ出された。必死になって千切れた縄を使って足の傷口に結んで血止めをして、少女はどうにか生き延びていた。生き延びてどうするのか、それは知らない。明日の朝には解体される予定だった。夜が薄れていくいま、日が昇るまでの時間は長くはなかった。

 どうしようもない状況にあって、少女は絶望してしなかった。

 なぜなら。


「ぁー……」


 お腹が、減っていた。

 傷口をむさぼられるのが気にならないほど、お腹が減っていた。夜が明ける頃には餓死をするに違いないと確信できる空腹が、夜明けを待たずに死に至るだろう傷の痛みと失血の虚脱を優越していた。父を殺された怒りと悲しみすら、息をするのも地獄の喉の渇きに乾されていった。

 腹が減っていた。

 喉が渇いていた。

 飢餓以外のものがなかった。

 いまの彼女には、村人たちの気持ちがよくわかった。

 この飢えを満たすためならば、この渇きを癒すためならば、人はなんでもしてしまうのだ。彼らの行いは、どうしようもない帰結なのだ。敬虔だった少女は、いま身をもって知ってしまったのだ。

 人は空腹に、決して勝てない。

 この飢えを肉で満たした村人たちがうらやましかった。この渇きを血で潤した村人たちを嫉妬した。なんでもよかった。なんでもいいから、なにかを口に入れたかった。

 なにもできない彼女は、手で床を探る。食べ物なんてあるはずがない。ネズミも捕まるはずがない。

 だというのに、こつり、と指先に当たるものがあった。


「……ーあ」


 パンがあった。

 小さな欠片だった。探り当てたものを握って、彼女は笑った。口元がほんのわずか引きつった動きが、いまの彼女が浮かべることができた笑みだった。

 手の中にあるパンを、口に含む。

 不思議なことに、それは噛んでも噛んでもなくならなかった。これはきっと、神がもたらした奇跡に違いないと、彼女の口元がほころぶ。

 奇跡のパンの一切れを嚙みしめながら、少女はそっと目を閉じる。

 空腹が、渇きがまぎれていった。夜明けを待たずに死ぬはずだった彼女の寿命は、その時、わずかに延長された。きっと朝日が昇るころまでには、なんとか死なないで済むようになった。

 閉じたまぶたの裏で想起されたのは、日ごろ読み聞かされていた神典の一節だった。


「われらが、ちにあって、よりおおくの、あいと、かんしゃを」


 空腹が、満たされていった。不思議なパンの欠片をかみしめながら、少女は記憶にある神典を反芻していった。


「しゅは、みてでもって、いってきのあいとともに、どろをこねられ、ひとはかしこくあって、このよにあれば、かみは、てんに、いまして」


 静かに、静かに、少女は神典の文言をそらんじる。

 こんなひどい世界なんか、きっと嘘だと夢を見て。


「よはなべて、こともなし」


 平和な世界こそ望み、求める少女は祈りを捧げた。







 そして、夜が明けた。

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