料理の全肯定・後編



 ミュリナの口内は人の体内特有の温かさに満ちており、ぞくぞくするような粘性の湿り気を帯びていた。

 歯が当たらないように、優しく吸いつかれた。ぷにっと盛り上がった唇が親指の付け根を挟み込む。ミュリナの舌の先が、レンを味わうために絡まるように親指の先に触れる。そんなわけがないのに、口の中の温かさでレンの指が舐めとかされてなくなってしまいそうだった。

 ミュリナの中を感じた瞬間に、かろうじて残っていたはずのレンの理性は溶け切った。


「……」


 レンは無言で指を引いた。

 ミュリナの唇が反射的にすぼまって引き留めるかのように吸い付いた。唇が指の根元から爪先まで撫でる感触は、本能に火をつけるような官能的な感覚だった。


「ふぇ?」


 指を引き抜くと、ミュリナの口から疑問符が漏れ出た。レンの指が名残惜しいとでも言うかのような表情。その気持ちを代弁するかのように、唾液が糸になってつながっていた。

 ぽとりと一滴、熱い雫がミュリナの胸元に落ちた。ミュリナがとろりととろけた熱っぽい瞳をレンに向ける。その顔がますますレンを煽る。

 無言のまま、ミュリナの膝を抱え込んで背中を支える。お姫様抱っこの形でミュリナを持ち上げた。魔力で強化するまでもなく、レンの腕で支えられる軽さだった。


「あ、ちょ」


 抱えられたミュリナが足をばたつかせる。

 いまさらなにかを慌てているようだが、止められるわけがない。あそこまであからさまに誘ってきて、まさかこんなことをされるだなんて思わなかったなんて言い訳が効くはずもない。少なくとも、いまのレンには届かない。

 レンの頭から言語化された思考が消し飛んでいた。誰かのだめでなく、何かに気を遣うことなく、レンの行動は自分の欲に支配されていた。

 十七歳らしい臆病さも含めた誠実さは、十七歳らしい本能に蹂躙されていた。すぐそこにあるベッドにミュリナをおろしたレンは片手でミュリナの華奢な肩をシーツに押し付ける。ブラウスの裾から手を忍ばせて、下から上へ彼女の下腹部を撫であげた。

 ミュリナの素肌は、絹よりも手触りがよくレンの手に馴染んだ。


「ひゃぅ!? ちょ、待っ――」

「いいよな、ミュリナ」


 最低限、了承をとる言葉を出したのは溶けきった理性の名残だった。

 ぶるりっ、とミュリナが全身が期待に震えた。ミュリナの肩から力が抜けた。瞳が、期待で潤む。こくりとあごが肯定の方向に動いた。


「……うん。ただ、そのね、レン」


 これから起こることを全部受け入れるために、覆いかぶさるレンの後ろ首に両腕を絡めたミュリナが求めたのは、捧げるものに対してあまりにも簡単だった。


「目、見て。好きって、言って」


 レンの頭に、冷水が浴びせられた。

 それに気が付いた様子もなく、ミュリナが熱っぽく微笑む。


「そしたら、レンからだったら、あたしね。なにされても気持ちいいに決まってるから」


 本能に支配されていたレンの動きが、止まった。

 ミュリナの体をまさぐろうとしていた手を離し、ふらりとレンは立ち上がった。


「……レン?」


 残されたミュリナが、ベッドから上体を起こして呼びかける。レンはそれに答えずに、ふらふらとした足取りで机まで歩き、頭を大きくのけぞらせた。


「……っああああ! クソッ!!」


 言葉にできない感情のまま、思いっきり額を叩きつける。

 衝撃と痛みで、ほんの少しだけ理性が戻った。


「ちっくっしょ……」


 最悪だった。何を言えばいいのか、わからなかった。まだ獣欲がぐるぐると全身を渦巻いて、すぐに回れ右をしてミュリナに覆いかぶされと命令しているのが自己嫌悪に追い打ちをかけた。手が、ミュリナの柔らかさを覚えているのが罪深い気がして、なのに彼女の心地よい感触を知っている自分が誰に対してでもない優越感と独占欲を満たしていた。

 ミュリナが、ぐっと下唇を噛んだ。ベッドに座った体勢の彼女は、自分のスカートの裾を掴んで、持ち上げようとして


「やめてください」


 レンが、ぎりぎりすんでのところでミュリナの手を止める。

 そこまでやられたら、本当に歯止めが効かなくなる。

 手首をつかまれたミュリナの目じりに、じわりと涙がたまった。なんで、と声には出さずに口が動いた。


「レンはさ」


 震える声で、問いかける。


「あたしが、欲しくないの?」


 そんなわけがない。

 いますぐにでも、さっきの続きをしたい。ミュリナを押し倒したいに決まっている。こんなかわいい女の子を、自分の好きにしたいという欲望が湧かないはずがない。

 いいじゃんか、とささやく声がする。

 いますぐにでも取り繕ってミュリナを味わえばいいじゃないとそそのかす自分が、レンの中にいるのだ。


「ミュリナは、かわいいですよ」

「じゃあ!」

「ミュリナがかわいいから……俺は、訳がわからなくなるんです」

「……なに、それ」


 意味わかんない、とミュリナが呟く。

 レンはミュリナがかわいいと思う。家に招くのだって嫌ではない。ご飯を作ってくれて嬉しかったし、一緒の食器で食べたときだってドキドキした。ミュリナの容姿だけではなくて、彼女の性格も含めてかわいいと思う。思い知らされた。

 それでも、それとこれとは違うと義務のように理性が歯止めをかけるのだ。


「あたし、レンが好き。好きなったから、レンがカッコいいなって思う。好きだからレンが欲しい」

「ありがとう、ございます」

「レンって、あたしのこと、嫌いじゃないわよね。どっちかっていえばさ、好きか嫌いかの二択だったら、レンって、あたしのこと、好きよね」

「……はい」

「ならさ。そんなレンにあたしのことを欲しいって思ってほしいのは、レンからあたしを好きって思って欲しいっていうことと違うの?」

「たぶん……」


 それがミュリナを傷つける言葉と知っていても、絞り出すように答える。


「たぶん、違うんです」


 沈黙が落ちた。

 数秒間、二人とも何も言わなかった。レンはこれ以上なにかを言う勇気がなかった。ミュリナは、打ちのめされていた。

 そっか、と小さくミュリナの言葉が響いて、消えた。

 彼女が握っていたスカートの裾を離したのを見て、レンもミュリナの手首を開放する。

 どうしようもないいたたまれなさのなか、なにか言わなくてはとレンは謝罪の言葉を絞り出す。


「ごめんなおぶ!?」


 ミュリナがレンの口に指を突っ込んで、舌をつまんでひねり上げた。


「謝んな、バカ」


 ひどく悔しそうに言ったミュリナは、ぱっ、と指を離す。

 ミュリナは乱れた身なりを整えて、帰り支度をする。レンは終始俯いて視線を逸らしていた。

 そんなレンに、身支度をしたミュリナが語りかける。


「お皿、割ってごめん。うっかりじゃなくて、わざと割った」

「はい」

「スプーンも、窓から投げた。ごめん。弁償する」

「はい」

「あたし、そういうことをしてでも、レンと一緒にいて、レンのことを好きだってアピールしたい。自重して何もしないなんて、やだ。レンが他の人を好きだって知ってて、放っておくなんて、できない。レンのためだなんて理由で、レンが他の女の子と仲良くなって、付き合うの見てるだけなんてできない」

「……はい」


 この人が、自分本位な人だなんてことは知っている。

 ミュリナは根本的に、他人のために尽くせる人ではない。自分本位なだけではないが、自分のためというのが彼女が何かを行動するときの核なのだ。


「自分勝手でごめん。お兄ちゃんの時もそうだけど……あたし、そういう人間なんだ」

「……知ってます」


 誰かのためにと行動することで喜びを覚える性格ではない。誰かの都合のいい存在になるためにふるまうことはできない。本当の意味で献身的な人間に、ミュリナはなることができない。できなくて、いい。

 自分のために行動して、その結果で彼女は誰かのためになる成果を残せるのだから。


「そういうミュリナを、尊敬してます」

「……しなくていいわよ、尊敬なんて」


 余計なことを言ったレンに、寂しげに微笑んだミュリナがベッドから降りる。


「あたし、ちょっとだけ頭、冷やす」


 いつだか、リーダーが言っていた。ミュリナは自分がよくわかっていないのに、自分の感情に素直で強欲だ、と。

 その通りだと思う。

 そんな人が、自分を好きだと言ってくれた。ここまで真っ直線に自分を求めてくれた。

 頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。


「でもその前に、レン。あたしのこと好きっていわなくてもいいからさ」


 帰り際、扉を少しだけ開いたミュリナが不安そうに、それでも勇気を出して言った。


「かわいいって言え」


 自分は意思が弱いのかもしれない。

 でも、レンにはここでミュリナを跳ね除けることができなかった。嘘を言うこともできなかった。


「ミュリナ」

「うん」

「ミュリナはかわいい」

「うん」

「かわいい。本当に、かわいい」

「うん」


 それは、まぎれもなくレンの本心だった。

 三回頷いたミュリナが、扉を開ける。


「満足したわ。じゃあ、また明日」


 かわいい笑顔を残して、ミュリナはレンの部屋から出て行った。

 部屋に一人残ったレンは、ミュリナが好きじゃないのかと自問する。


「……ほんと、かわいいよ、ミュリナは」


 出会ってから今までのミュリナとの思い出を辿って、彼女をかわいいと思う気持ちの中に恋愛感情はないと自答することが、レンにはもうできなかった。

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