§2
実験を始めるに当たって、各方面の許可が必要であった。
一応にも国の大学の敷地内にある建物であるから、国有財産であり、大蔵省の管理下にある。燃やします、といってハイハイと許可が出る筈もない。
まずは問題の建物が使用不能になったと理由をつけて廃用にし、取り壊すことにする。取り壊した廃材を、払い下げて実験に供するという体裁を整えた。実際には全く形を崩さずにそのまま実験に使うのであるが、書類上は廃材ということになる。大蔵省の役人が一々確認に来る筈もないのであるから、これはこれでヨシ、である。実験結果が発表された後に泡を食っても、建物は全て燃え尽きているのでこれまた問題にもなるまい。
燃やす場所は、同じ東京帝大本郷キャンパス内のグラウンド、御殿下運動場が良いだろう。幸い、附属病院から程近く、家を移動させるのにも大きな苦労がない。
内務省・警視庁は多少梃子摺った。実験であっても、実際の建物に火を点ければ即ち放火である、との法解釈を開陳する役人お巡りを前に、火災実験の意義を説明する。兎にも角にも、万が一に備えて消防には待機してもらわねばならないのだから、お上の許可が下りなければ、実験は不可能だ。幸いにも、震災以降、内務省でも火災対策の必要性は痛感されており、部分的な実験は進められていたことから、説得は可能と思われた。
内田は何度も警視庁に通いつめ、警視庁の官吏が点火するという条件で、実験を除外例として認めて貰えるようになった頃には、季節は春になっていた。
学術の方も、準備は大変であった。
何分千載一遇の好機である。二度目があるかどうかも定かではない。終わった後になって、ああすれば良かった、こうしたら良かったなどと後悔することだけは避けねばならぬ。
震災当時大学二年生であった濱田稔助教授が、測定班に拔擢され、温度測定のための準備実験にとりかかっていた。
現代のように、非接触で赤外線カメラを向けるだけで温度が測定できる時代ではない。昭和八年当時、このような高温を測定しようにも、その方法は限られていた。海外での燃焼実験でも使われた、白金‐ロジウム
熱電対は異なる二種類の金属を貼り合せて回路を作り、一方の金属を熱することによって起電圧の差を生じせしむるものである。つまり、直接的に記録されるのはこの電圧(ミリボルト値)である。これが摂氏何度を示しているのかについては、表によって求め得るところであるが、熱電対の長さによって違いが出る。精密を期さんとすれば、一つ一つの熱電対を較正せねばならない。
さらに測定環境の問題もある。熱電対は燃える家屋の中に直接設置しなければならないが、一方で熱電対に至る電線は炎から保護されねばならぬ。途中のケーブルが炙られれば、当然の如く測定値に狂いが出る。そもそも燃えて熔け落ちてしまっては困るのだから保護は当然なのだが、今度は石英管と耐熱煉瓦で作った保護塔を試験家屋内に建てる話になる。天井の温度が測りたいとなると、この保護搭を地面から天井に届くまで積み上げ、記録機器の所まで銅線は地下に埋設するのであるから、作業は膨大である。
保護塔の設置場所も問題で、燃焼作用に影響が出ないよう、それでいて学術的に必要な数値が得られるよう、慎重に位置決めをする必要がある。床の温度も天井の温度も壁の温度も測りたいが、全てを一度に測りうる温度計の設置は難しい。
最終的に濱田は、屋内十箇所、地中温度を含めて十一箇所の測定点を決定する。後に濱田は火災研究の専門家として名を馳せることになる。
温度以外の測定も、準備が進められた。御殿下運動場中央に設置される家屋から前後左右に二十メートルを置いて観測点を設け、一分毎に文字による描写とスケッチを取ることにした。スケッチのために、立面図が複写される。また当日の気温、風向風量の測定も準備された。輻射による気温の上昇も、記録する。これは平山嵩助教授の指揮下、学生院生が動員された。
これらの観測の下敷きとなるべき、実測図面の作成も行われた。材質材料の分析も行われ、試験家屋の面積は二十九・九一平米、重量二・三一トン、可燃物容積は四・六二立法メートルと算出された。これを、震災後の調査による一般木造家屋内の動産量に合わせるため、簞笥や机、畳等の燃え種に相当する燃料を屋内に配置することとした。さらに点火時に油二升を撒くこととしたのは、当時石油ランプの転倒等が出火原因として小さくなかったことと、実験時間内に家屋が燃え尽きるか懸念されたためであったが、結果から言えば杞憂であった。
輻射熱についても、観測が計画された。直接火焰が舐めている訳でもないのに、隣家が発火することがあることは解っていたし、それが放射熱線の作用であることも推定できる。しかしそれがどの程度の影響力を持つのかは、当時まだ良くわかっていなかった。何分相手がよく分かっていない物であるため、実験手法も手探りにならざるを得なかった。
壁板に見做した三十センチ角のテストピースを、鉋をかけたものと墨を塗ったもの二種類用意し、前後左右に一定距離を置きつつ設置し、その焦げ具合を観察する。現代なら赤外線イメージャで簡単に計測できるものも、当時はこのような工夫を凝らさざるを得ない。
この実験が即座に実地に適用できる結果を生むとは考えにくかったが、とにかく端緒でも摑めれば、といったところだった。
そして極めつけに、写真撮影が準備された。担当は岸田日出刀教授。ドイツ留学時に手に入れた〝ライカ〟を持ち帰り、昭和四年に建築写真集「過去の構成」を出した男である。彼が音頭を取った撮影班に搔き集められた当時極めて高価であったライカが計七台。前後左右の定点、百三十五ミリ望遠レンズを装着した医学部病院の屋上からの固定撮影に加え、ライカを手持ちしての、点火後の屋内での撮影までを企図した。
これだけに留まらず、ベル・ハネウェル製16ミリフィルム撮影機による活動写真撮影まで準備されたのだから、その意気込みは尋常ではない。
写真撮影班に限った話ではないが、どの観測班も、この実験が空前にして絶後であると考えていた。この期を逃せば次の機会が何時になるか、あるいは二度とその機会が来ないことも、考えられた。だからこそ、悔いのないものにすべく、実験の準備は工学部建築学教室の教員職員院生学生を総動員する勢いで進められた。
そして昭和八年八月二十八日。実験の日がやってきた。
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