二時間ほど経ち、また昼も近づいてきたので、取り調べはいったん打ち切られた。

 犯行の大筋が明らかになって行くに従って、刑事たちはいつもどんどん気持ちが沈んでいった。容疑者がやむにやまれない理由で犯行に及んだときはもちろん、いとも簡単な動機で自分の手を汚したときでも、彼らは同じように後味の悪さを感じた。しかし、およそ犯罪とはそういうものなのかも知れない。


 刑事課のデスクで取り調べから帰った刑事たちと高野を加えた五人がぼんやりと座っていると、廊下から課長が走ってきた。

「えらいこっちゃ、やられた……!」

 その声に刑事たちは顔を上げた。

「何です?」代表して高野が訊いた。

「たった今、水上警察から連絡が入ったんやが……」

 課長は息を呑んだ。「今朝、大阪港で乗用車が海に飛び込んだそうや。乗ってた四人は遺体で引き上げられたんやが、その四人と言うのが──」

「まさか……」

「ああ、丸山の一味や」

 刑事たちは唖然と口を開いて課長を眺めた。

「車は盗難車で、トランクからは盗まれた宝石の一部が出てきた」

「でも、四人って?」

「丸山譲次、藤川敏蔵、工藤達彦──」

 そこまで言うと課長は顔を曇らせた。「運転してた残りの一人は、丸山和子」

「嘘だろ……」

 と芹沢はきつく目を閉じて舌打ちした。

「……どうしてなの?」一条は独りごちた。

「彼女のバッグから遺書が見つかったらしい。それによると、昨夜遅くに丸山から連絡が入って、彼女は彼らと心中するつもりで会いに行ったようや。『この手で彼らに罪を償わせます』と書いてあったって」

「──やっぱり、誰かがついとくべきやったんや」

 鍋島は言って頭を抱えた。 「娘がダンナのせいで殺人犯になったんやから、そんな気にもなるやろ」

「今となっては仕方がない」課長が言った。「係長、行ってくれるな?」

「ええ、分かりました」

 そう言うと高野はがっくりと肩を落とした四人の仲間を眺めた。



 いやな気分やな、と鍋島は思った。

 丸山和子が娘の言うとおり、夫を頼って生きて行くだけしか能のない女だったというのなら、最後に彼女がやったことにはどんな意味があったのだろう。

 夫に愛人ができたと知ってもじっと我慢した。その夫が犯罪を犯し、そのせいで自分と娘が何者かに命を狙われていると知らされても耐えて仕事を続け、生活を守ろうとした。その結果が、娘の逮捕だった。

 そして夫からの遅すぎるラブ・コール。彼女はそのとき何を考えたのだろう。

 娘を人殺しに走らせた憎い連中への報復だったのか。自分だけが何も知らされていなかったことに逆上し、夫に初めての抵抗をしたのか。それとも、やっぱり自分独りでは生きていけないことに悲観し、思い余って死を選んだのか。

 鍋島にはまるで分からなかった。彼にしてみると、女性に頼ってこられることは一番の苦手だった。挙げ句に心中なんか思いつかれたのではたまったものではない。

「──巡査部長」

 声を掛けられて彼は顔を上げた。いつの間にか刑事部屋には彼一人で、他の連中は見当たらなかった。芹沢の姿も見えない。

 廊下に振り返ると、婦人警官が一人の女性を連れてこちらを見ていた。

「お客様ですよ」

「ああ……」

 鍋島は立ち上がり、客というその女性に言った。

「久しぶりやな」

 その言葉にチャーミングな笑顔を見せた女性は、野々村真澄だった。



 署を出て、中之島の堂島川沿いの遊歩道を歩きながら、鍋島は真澄に振り返った。

「──この前会うたん、いつやった?」

「五月よ」と真澄は即答した。「ゴールデンウィーク明けの日。麗子の家で」

 彼女はいつでもこうだった。鍋島と会ったときのことは、何でもよく覚えている。

「せやったな」

 逆に鍋島はこれまた相変わらずで、刑事のくせに、過ぎたことは一つ一つ細かく覚えていない。

「ぱっと見たとき、どこの美人が俺を訪ねてきたんかと思たで」

「また、からかって」と真澄は嬉しそうに微笑んだ。「中年オヤジみたいよ」

「そうか?」と鍋島も笑った。「けど、ほんまやで」

 真澄ははにかんで俯いた。そして再び顔を上げたときには真顔になっており、鍋島をじっと見つめて言った。

「この前、中大路が来たんやってね」

「あ、ああ……そう言えば、来られたっけ」

 鍋島はわざとらしいとぼけ方をした。真澄はそんな彼の様子に顔をほころばせた。

 鍋島は言った。「ええ人やな」

「普通の人よ」

「それって、大事やぞ」鍋島は大真面目だった。「それに──真澄のことをほんまに大切に思ってはるよ」

「あの人、勝ちゃんにつまらないこと言うたみたいね」

「せやったかな? 何を話したのかよう覚えてへん」

「しらばっくれちゃって。あの人に聞いたから」

「そうか」

 鍋島は頷いた。誰にでも、何でも隠さずに喋る男やなと思った。

「勝ちゃん、否定してくれたんやてね」

「当たり前やろ」

「言えへんわよね、本当のことなんか」

「だいいち、今となってはそんな話は遠い記憶の彼方やろ」

「さあ、どうかな」真澄は悪戯っぽく言って鍋島を見た。「今でも勝ちゃんの方が好きかも」

「アホなことを」

「でも、何で分かったのかな、あの人」

「それだけおまえのことが好きって証拠や」

「そう言えば、あたしかて勝ちゃんが麗子のことを好きやって分かってたもんね。勝ちゃん自身が気づくよりも先に」

「俺のことはもうええから」

「ごめんごめん」

 真澄は笑って言うと、やがてその笑みを消した。「──勝ちゃん」

「うん?」

「あたし、あの人と結婚するわ」

「そうか」と鍋島は頷いた。「良かったな。おめでとう」

「あたし、気がついたの。あたしは勝ちゃんのことが忘れられへんからあの人との結婚に踏み切れへんかったってだけやなくて、自分がいい奥さんになれる自信もなかったんやって。もちろん、あたし今でも勝ちゃんのことは大好きよ。けどそれだけじゃなくて、いつまでも気楽に、楽しくワイワイやってたかったっていうのもあったのよ」

「誰かて、結婚してすぐにええ嫁さんやええダンナになるわけやないのと違うか」

「そうなのよね。でも、あたしは世間知らずのくせに何にでも完璧を求めようとするでしょ。せやからどうしても二の足が出えへんかったの」

「相変わらず、完璧主義なんやな」

「それに、あたしがいつまでも迷ってると、それだけで麗子や勝ちゃんに気を遣わせるもんね」

「結婚は他人の顔色を見て決めるもんやない。自分の気持ちだけで決めることや。だいいち、俺も麗子もそんなこと気にしてないよ」

「そんなことないわよ。麗子、やっぱりあたしに遠慮してるもの。ほんまは早く勝ちゃんと結婚したいって思ってるに違いないわ」

「真澄……」

「勝ちゃんはそのつもりなんでしょ?」

「ああ……うん」鍋島は俯いた。

 真澄はそんな彼を見てちょっと困ったように笑った。

「ほらまたあ。自分のことになると急に自信がなくなっちゃうんやから」

「そんなことないよ。あいつしかいてへんと思ってる」

「それを聞いて安心したわ。麗子もきっと喜ぶわ」

「あ、でも──」

「分かってる。あたしからは何も言わへんから。勝ちゃん、いつか麗子に言うてあげてね、今の言葉」

「うん」

「嬉しい。あたし、そのうち勝ちゃんと親戚になるんやね」

 真澄は飛びきりの笑顔を見せると、そのまま光が溢れる堂島どうじま川に振り返った。その拍子に、淡いピンク色のワンピースの裾が、心地よさそうに踊った。

「大阪に来るのも久しぶり」と真澄は言った。「去年までは、ほんまによう来てたのに」

 その横顔を眺めて、本当に綺麗になったなと鍋島は思った。


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