3
その日の夜、自宅を訪ねてきた三人の刑事たちからすべての話を聞かされた丸山
「──そうですか……丸山がそんな大それたことを……」
「最近、奥さんに連絡はありませんでしたか?」
長方形の座卓を挟んで和子の正面に座った鍋島が、相手をじっと見つめて訊いた。
「去年の十一月に横浜へ行ってから、だいたい週に一度は連絡を入れてくれてたんですが、二月ほど前からぱったり途絶えて……」
和子は俯き加減で言うと言葉を詰まらせた。「真面目に働いてくれてる もんやと思ってたのに、まさかこんな──」
「まだあなたのご主人と断定されたわけではないんですよ」
一条が思わず慰めた。
「そうおっしゃっていただいてありがたいですが、田中さんが殺されてしまった以上、私たちも覚悟すべきだと思っています」
「田中耀子をご存じなんですか?」
「ええ。去年の夏頃から、よく店に来られてましたから」
「そうですか」
「丸山さん、こうなった以上、我々も丸山さんとお嬢さんの身に危険が及んでいることの否定はできません。それにもしかすると、犯人は強盗犯も狙ってくるかも知れないんです。これ以上の犠牲者を出さないためにも、俺たちにお二人を護衛させていただきたいんですが、ご協力願えますね?」
それまで黙っていた芹沢が、極めて冷静とも取れる穏やかさで言った。
「ええ、でも、
和子は背にしている襖に振り返った。
すると、待っていたようにその襖が開いた。中から十五歳くらいの色白の少女が、気丈そうな顔を見せて母親を見下ろした。
少女は母親の前に膝を突き、その顔をまっすぐに見て言った。
「お母さん、あたしは大丈夫。刑事さんの言うとおりにするから」
「美登利さんね」一条が言った。
「はい」
「これからわたしたちがあなたやお母さんと一緒に行動するけど、それでも構わないのね?」
「ええ。お父さんも悪いと思うけど、その殺人犯ももっと悪いもの。刑事さんたちが捕まえてくれるなら、あたし協力します」
中学生とは思えない、しっかりとした話し方だった。
「約束するわ」
「じゃあ、お母さんの方も承知していただけますね?」
鍋島が和子に訊いた。
「私も、ですか?」
「ええ。犯人がどちらを狙ってくるか、分かってるわけやありませんから」
「でも、私は勤めが」
「ご心配なく。お勤めの行き帰りやその他の外出の際に同行させていただくだけですから。普段通りの生活を続けてもらっていいんですよ。決してお勤めの邪魔はしません」
「分かりました」
「あ、でも」と美登利が声を上げた。「あたし──部活とか塾は休んだ方がいいですね?」
「ううん、やってくれていいわ」と一条は微笑んだ。「車の送迎がつくのって、なかなか気分がいいものよ」
「申し訳ありません。元はと言えば主人の不始末からこんな……」
和子は言うと俯いて涙ぐんだ。
「お母さん」美登利は母親の肩を抱いた。
「気になさらないでください。これがあたしたちの仕事なんです」
「そうですよ」と鍋島も同意した。「あなた方も、被害者なんですから」
それから三人は明日の朝八時前には二人を迎えにくると約束し、今夜は別の捜査員がアパートの周辺を張りつくことになってはいるが、戸締まりはちゃんとするように、そして決して無断で外出しないようにと言い聞かせてアパートを後にした。
署に戻る車の中で、三人はそれぞれの役割分担を打ち合わせた。
「俺は母親につくよ」運転席の芹沢が言った。
「それって、一番楽だと思ってるからでしょ」
後部座席から一条が言って、ルームミラー越しに芹沢を一瞥した。
「そうじゃねえよ」芹沢もミラーを覗き込んだ。「あんたは娘につくんだろ。またヘマにつき合わされるのはごめんだからさ」
「…………」一条は黙り込んだ。
「あれ? 結構気にしてるじゃねえかよ」
「……あなたって、本当に陰険なのね」
「そうや。こいつは人の傷口に塩を塗り込むのが大好きなんや」
鍋島が言って一条に振り返った。「警部、言い返してやれよ。実はこいつ、一週間前に女にフラれたばっかりなんやで」
「あら、そうなの?」一条は面白そうに片眉を上げた。「それだけ顔が良くっても、そういうことあるんだ」
芹沢は鍋島を睨んだ。「……人の傷口に塩を塗り込んでるのは、おまえだろ」
「ええから、どうするんや? 俺が警部と一緒に娘についてもええけど、おまえ、母親の勤め先がどこか分かってて言うてるんやろな?」
「──どこだっけ?」
「
「げっ、そんな遠くまで行ってんのかよ、あのおばちゃん」
芹沢は声を上げた。「娘の学校は?」
「近所の公立中学」
「おまえ、八尾まで送り迎えしても構わねえのか?」
「別に」と鍋島は肩をすくめた。「どっちにするんや。早よ決めろ」
「……娘にしとくよ」
鍋島は一条に振り返った。「ということです、警部」
「いちいち時間が掛かるのね」
一条は呆れ顔で二人を見た。
こうして三人は署に戻った後、明日からの大役に備えて入念な打ち合わせをした。
事件のおおよその筋書きが明らかになった今、捜査本部にもやっとこの事実が報告された。捜査一課の連中は頭から湯気を噴いて怒ったが、今や仲間割れしている時期ではないということが彼らにも分かっていた。しかも神奈川県警の刑事までもが西天満署の連中に味方しているとなると、ここは我慢しようということになったのだろう。連中は一通り不満を口にしたあとは比較的あっさりと植田課長の示した今後の方針に同意した。
片や植田課長以下刑事課一係の面々は、おそらく次回西天満署に捜査本部が置かれたときには、間違いなく今回の仕返しをこっぴどくやられるだろうということを覚悟しながら、彼らの冷静な対応に感謝の意を示したのだった。
そういう過程を経て、刑事たちには犯人逮捕に向けて全力を上げる意気込みが出来上がっていった。
こうなったら、徹底して丸山の妻子の周辺に張りつくしかない。犯人はきっと現れる。捜査員全員、自分たちの勘に断固とした自信を持って賭けることにしたのだ。
今まで、あれこれ考え過ぎて駄目だった。大詰めを迎えたときは、信じる道を突き進むしかないのだ。
そうでなければ、いつまでたっても幕を下ろすことなどできないだろう。
萩原も、とうとう自分の思うとおりの行動に出ることにした。
とはいえ彼の場合、元はといえばそういう奔放な性格だったのだから、本来の自分に戻ったというだけのことだった。
もう自分を押し殺すのはやめだ。だいいち、望んで出世したわけやない。
しかし、大手都市銀行という大企業に身を置く彼にとって、それがどんな結果をもたらすかは彼自身も知らないわけではなかった。
──要するに、戦線離脱だ。
その日、萩原が智子の訪問を受けたのは、閉店直後の午後三時二十分だった。
「──ええ加減、うんざりしてるでしょう?」
智子は俯いたまま言った。
「そんなことはないよ」
萩原は意識して平然と言った。
智子とああいうことがあったあと、彼は次に彼女と会うときにどんな顔をすればいいのか、ずっと迷っていた。
それが今日、思いもよらず突然やって来たものだから、少し動揺していたのだ。しかし彼はそれを彼女に悟られまいとして、極力平静を保とうとした。そしてそれは、あの夜のことにこれ以上の重い意味を持たせないためでもあった。
「あの、あたし──」
智子が言った。少しでも沈黙ができるのを恐れているのがよく分かった。
「もう何も言うことはないよ」と萩原が言った。「俺が悪かったんやから」
「違うの。あたし、萩原くんに謝りたくて」
「何で?」
「だって……あたしが電話なんかしたばっかりに──」
「そんなことないって。最終的には俺自身の意志が働いてたことなんやから」
智子は何も言わなかった。彼女にもまだ気持ちの整理ができていないものと思われた。
「ご主人の顔を見るのは辛いと思うけど、その辛さが自分たちのやったことを後悔させてくれるのと違うかな」
「そうね」
「俺も、しばらく美雪に逢うのをやめるよ」
「駄目よ、そんな」と智子は顔を上げた。「それとはまた話が別よ」
「別かも知れんよ。でも結局のところ、何の問題もないきみの家庭の邪魔をしてるのは、俺の存在そのものやろ?」
「でも、美雪が……」
「……あの娘には、とことん身勝手な父親やと思われても仕方がないけど、この際その方があっさり俺から離れられるんやないかとも思うし」
「萩原くん──」
「な? 俺もきみも、ええ加減にお互いを過去の人間にしてしまうべきなんや」
「……そうなのよね」
智子は言った。そして昔と少しも変わることのない、濡れたように輝く大きな瞳で萩原をじっと見つめると、自分にも言い聞かせるようなしっかりとした口調で言った。
「ただ、これだけは信じておいてね。あのときのあたしの気持ちに、何の迷いもなかったってこと。主人への不満があったわけでも、子育ての疲れからあなたに逃げ込んだわけでもなく、ただあなたに会いたいと思って、あなたと一緒やった頃の自分に戻りたくて、それであなたに電話をしたんやってこと。本当にその気持ちだけやったのよ」
「……ああ、信じるよ」
三時半を回り、二階のフロアに残っていた客もいなくなった。萩原は智子を階段のところまで見送った。
振り返った智子に萩原は言った。
「美雪の誕生日には、何か買って送るよ」
智子は少し淋しそうな笑顔で頷いた。
「──じゃあ、俺はここで」
「ええ」
「ご主人と幸せにな」
「……ありがとう」
「さよなら」
「さよなら」
智子はゆっくりと階段を下りていった。その後ろ姿を、萩原は惜しむように見送った。
一階のフロアに下り立った智子と入れ違いに、米倉が上がってきた。
立ち去る智子をじっと見つめると、その視線を階段の上の萩原に移し、陰険な目つきに不適な笑みをたたえて一段一段、ゆっくりと上がってくる。萩原は内心、階段を踏み外せばいいのにと思った。
「何や萩原。閉店後の忙しいときに、私用で美人とお喋りとはええ身分やな」
「申し訳ありません」萩原は素っ気なく言って戻ろうとした。
「おい、待てよ」
米倉は声を上げ、急いで階段を上がってきた。萩原は立ち止まるとゆっくり振り返り、米倉をじっと見据えた。
「何か?」
「何かやないやろ。おまえのその態度こそ何や」
「特に意味はありませんよ。だいたい、何でいちいち米倉さんに説明しないといけないんですか?」
「貴様……」
米倉の締まりのない全身に怒りが駆けめぐっているのがよく分かった。肩から指先までを小刻みに震わせ、丸い顔を真っ赤にしている。口許にも震えが伝わり、何とか言ってやりたいのだが、腹立たしさに邪魔されてそれもままならないといった感じだった。
「何かと因縁をつけてくるなんて、あまり
萩原はそう言い捨てて、自分の席に戻ろうとした。
「待てよ、この野郎」米倉は萩原の肩を掴んだ。
その瞬間、萩原は振り返って米倉の顔を思い切り殴った。
米倉は大きく反り返り、バランスを崩したかと思うとフロアに思い切り背中を打ちつけて倒れ込んだ。
「きゃっ──!」
それまで黙って様子を伺っていた女子行員たちが思わず叫んだ。
その声で、フロアの一番奥のデスクで仕事をしていた課長も顔を上げた。
電話中だった山本が受話器を置いて、素早くカウンターを乗り越えてきた。
「おい萩原!」
「──おまえなんかに、いちいち文句いわれる筋合いはないんや」
無様な格好で床に伸びる米倉を睨みつけて萩原が言った。「負け惜しみの先輩面が、みっともなくてむかつくぜ」
「萩原、やめとけ」山本が腕を掴んだ。「……もうええやろ」
「……ああ」萩原はぼんやりと山本に振り返った。「いつも悪いな」
そして彼はゆっくりと自分のデスクに向かって歩き出した。女子行員や課長が唖然とした顔で見守る中、彼は席に着いた。
後ろで誰かが米倉に声を掛けていた。それで米倉はまた何かわめきだしたが、萩原は気にも留めずにパソコンを起動させ、仕事に戻った。
キーを打ちながら、萩原は何とも言えない爽快さを感じていた。
同時に彼はこのとき、今の自分を取り巻くすべての状況から解放されたことを確信したのだった。
味気のない着信音が鳴って、メールが受信された。
「──三日後、午後九時、塾の終了後。
了解、と独り言を言って、ボタンを押した。
台所へ行って、引き出しから新聞紙に包んだナイフを取りだした。
もう最初のときほど怖くはなかった。
むしろ、予定外に次のチャンスが訪れたことに少し興奮している自分に驚いていた。
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