その夜、萩原は昨夜鍋島と来たピアノ・バーへ、今度は一人でやって来た。

 仕事を切り上げたのは八時半で、それから山本と二人で遅い夕食を摂った。

 二人とも疲れていて、料理屋でもほとんど話さずにビールと何品かの料理を平らげた。そして店を出ると彼らは、まだ一週間が始まったばかりなのだという考えがお互いの中にあるのを確認し、次の店へと誘い合うことなくそのまま別れた。

 しかし萩原はこのバーへ足を運んだ。今夜はどうしても一人で飲みたいと思ったのだ。

 次から次へと持ち込まれてくる、終わりのない仕事に追われる毎日。それだけなら報酬をもらっている以上は仕方のないことだとまだ割り切れるが、後輩の尻拭いに手を取られ、先輩からは出世が早いと妬まれる。いったい俺が何をしたって言うんや。上の方針に従って文句も言わずにがむしゃらにやってるだけやないか。黙ってるからって、これ以上困らせんといてくれ──。

 本来なら萩原はもっとわがままな人間のはずだった。お天気屋で勝手気ままで、それでいて人一倍頑固者だった。かつては、親友の鍋島たちがそんな彼の性格にたびたび腹を立てていたものだ。それがいつの間にか、何よりも協調することを大切にする人当たりの良い人間になってしまった。それはそれで決して悪いことではないのだろうが、萩原は何だか自分がとても小さな人間になってしまったような気がしたのだ。

 いったい俺はいつからこんなに「普通」になってしまったのか。きっと、それまでの自分を黙って支えてくれていた智子と別れてからだろう。


 バーの長いカウンターでグラスを傾けながら、萩原はぼんやりとそんなことを考えていた。斜め前方に置かれているグランドピアノでは、昨夜と同じピアニストがスタンダード・ジャズを演奏している。萩原は何気なく腕時計を覗いた。十一時半だった。

「──どなたかと待ち合わせですか?」

 カウンターの中から、それまで黙ってグラスを磨いていたいたバーテンが話しかけてきた。

「いや、違います」と萩原は小さく笑った。「ピアニストの女性も、遅くまで大変やなぁと思って」

 ああ、とバーテンはピアニストを見た。「もう終わりますよ。十二時までですから」

 萩原はふうん、と返事をしてピアニストを眺めた。細くて柔らかそうな、カールさせた髪を素肌の肩に垂らし、流れるような曲線にカットした黒いベルベットのロングドレスを着ていた。口許に微かな笑みをたたえたままであまり表情を変えることはなく、穏やかなタッチで鍵盤を叩いている。年齢は三十をちょっと過ぎた頃だと思われた。

 曲が終わった。数少ない客から拍手がおこり、萩原もゆっくりと手を叩いた。

 ピアニストは立ち上がって軽く膝を曲げ、頭を下げた。そして彼女がゆっくりとピアノから離れると、ピアノの真上のピンスポットが消えた。やがて店内にはヴォーカル曲が流れ出した。

 萩原は手許に視線を戻した。スコッチのオン・ザ・ロックはほとんど氷が溶け、水割りのようになっていた。どうしても飲みたいと思ってやってきたのに、実際はあまり酒は進んでいないのだった。

「──美咲みさきちゃん、お疲れさま」

 萩原が顔を上げると、さっきのピアニストが彼の三つ隣の椅子に腰掛けようとしているところだった。さっき着ていたのとは違う黒のワンピース姿で、同じく黒のハンドバッグをカウンターの上に置くとバーテンに微笑んだ。

「何か作ろうか?」とバーテンが訊いた。

「ええ、じゃあマルガリータを。フローズンで」低い声だった。

 萩原はさり気なく彼女を見た。額から頬の半分が髪で隠れた横顔から、搾り出すような溜め息が漏れたのを聞いて、彼はこの女性もただ仕事に疲れているだけではないのだろうと思った。

 女性の前にコースターが出され、その上にライムの刺さった白い飲み物が置かれた。

 ピアニストはグラスの足下に左手を添え、右手で短いストローを持ってグラスの液体を軽くかき混ぜると一口飲んだ。そしてバーテンに向かってにっこりと微笑んだ。

 美人だな、と萩原は昨日の再確認をした。

「あら……やだ、煙草を切らしちゃったわ」

 ピアニストはバッグの中でごそごそと手を動かして呟いた。

「うちは置いてないからなぁ。買ってこようか? 何の銘柄?」

 バーテンが濡れた手を拭きながら言った。

「──いいわ、どうせもうすぐ出るから」

 萩原は自分のグラスの横に置いた煙草の箱に手を置くと、すっと右に滑らせた。煙草は音もなくまっすぐにカウンターを走り、ピアニストの左手のそばで斜めになって止まった。

 あら、とピアニストは煙草を見た。そして萩原に顔を向けた。

「申し訳ないわ。結構ですのに」

「いいんですよ。その銘柄で良かったらどうぞ」

 萩原は照れ臭そうに微笑んだ。彼はまずこんな気障キザなことをする男ではないのだが、さっきの彼女の溜め息が、彼にはどうにも身近に感じられたのだ。

「ありがとう」

 そう言ってピアニストはじっと萩原を見つめた。

 萩原も彼女を見た。その瞳は、彼と同じ色の光を放っていた。

 今夜は彼女と過ごすことになるだろうと、萩原はこのとき直感した。



 その直感通りになった。

 黒とグレーを基調とした落ち着きのあるインテリアのホテルで、二人はベッドの上で寄り添っていた。

 彼女の名前は加納かのう美咲と言い、東京生まれの三十二歳だった。芸大のピアノ科を卒業してしばらくは音楽教師をしていたが、やがてジャズ・ピアノの世界に入り、スタジオ・ミュージシャンとして数々のジャズ・シンガーのレコーディングに参加した。

 しかしそれも今ひとつぱっとしないうち、あるドラマーと恋に落ち、結婚した。そしてわずか二年で破局。亭主の女癖の悪さに愛想が尽きたのだ。彼女は思い出のすべてから逃れるように、五年前に大阪にやってきた。その直後に知り合った男性と再婚、それもまた三年と続かずに終わってしまった。

 今ではただ流されて生きるだけの女になってしまったと、美咲は自分に呆れているように笑って言った。

 萩原はバーで彼女の漏らした溜め息が、妙に身近に思えた理由が分かったような気がした。

「──そう。あたしたち、似たもの同志なのかも知れないわね」

 萩原の左腕に抱かれながら、美咲はブランケットから白い肩を出して言った。

「何もかもが、ってわけではないやろうけど」

 萩原は美咲を見下ろした。 「きみの目を見たとき、そんな感じがしたんや」

「どうして離婚を?」

「逃げたい一心、あのときは。ただのわがまま」

 萩原は答えると小さく笑った。

「後悔してるのね」

「後悔はしてないよ。あまりにも身勝手なことをしたと思うだけ」

「それも後悔って言うのよ」と美咲も頬を緩めた。「あたしは後悔なんてしてないわ。もう金輪際、結婚なんてごめんよ」

「俺もそう思ってる」萩原は彼女の肩を撫でた。「な? 似たもの同士やろ?」

「ねえ、やってみたらどうだろ?」

 美咲は嬉しそうに瞳を輝かせて萩原を見上げた。

「何を?」

「さっきあなた言ってたじゃない。結婚とか家族とか、そういう先のことを考えないで済むんだったら、もう一度誰かのことを好きになってみたいって」

「それを俺ときみで、ってこと?」

「あたしたち二人ではダメよ。相手に何も期待してないってことが分かってるもの。そうじゃなくてほら、何て言うか──結婚とか、そういうことを抜きでもどんどん相手に惹かれていくような恋よ。それでいて本当に愛し合うと、結局はやっぱり望むようになるでしょ? その相手と一緒に暮らすことを。そういうものでしょ、本当の恋愛って」

 美咲は夢中で話した。

「女って、やっぱりロマンチックなんやな」

「いいじゃない、そんなこと考えてみたくなるものなのよ。ひどい思い出ばっかりだと」

「きみと俺はどうなる?」萩原は美咲を抱き寄せた。「今夜だけっていうのは惜しいかも」

「そうね。成り行きに任せましょうよ」

「先は考えへんってことやな」

 美咲が萩原の頬に手を添えて、二人はキスをした。それから萩原は彼女の首元に唇を寄せ、やがて身体を重ねた。

 こうして二人は急速に愛を感じていった。

 しかし、それが永遠のものだとは思っていなかった。

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