夜勤中に女子大生の刺殺死体と遭遇してしまった鍋島と芹沢の両刑事は、明け方近くに西天満署に設置された事件の捜査本部にそのまま入ることになった。刑事課一係からは彼らの他に二名の刑事が本部入りした。

 宿直の勤務時間は朝の八時までだったが、殺人事件の担当になった以上は時間が来ればハイ上がりというわけにはいかないことはよく分かっていた。しかし引き続いて丸一日の勤務が始まるとあっては、いくら刑事の中では若い方だといっても、さすがにちょっときついと主張しても良かったかも知れない。

 それでも二人はたいした愚痴もこぼさず、と言うよりむしろそんな職業を選んでしまったことをあっさりと諦めることにして、そのかわり第一回目の捜査会議が終わったあとで少し長めの休憩時間をもらうということでとりあえずは納得したのだった。


 捜査会議では、司法解剖や現場検証の結果と、被害者の身辺について判っている限りの事実が報告された。要約すると、次のようになる。

 司法解剖結果──死因は鋭利な刃物で胸部、背中、右大腿部の三箇所の刺し傷を受けたことによる失血死(血液型はA型)。激しい抵抗の跡は見られず、生前の性交渉の痕跡も無し。胃の内容物も夕食らしき食べ物やスナック類、やや多量のアルコールの検出が認められた他は、薬物類などの特に不審な物質は検出されなかった。死亡推定時刻は六月二十一日の午前一時から二時の間。

 現場検証結果──凶器らしきものは発見されず。現場は地下鉄南森町駅から百五十メートル北東の小学校裏手の路上のため、指紋の検出は不可能。周囲に争った状況も見当たらなかった。被害者の鞄等からは本人以外の指紋も数個検出されたが、いずれも数日が経過した古いもので、人物の特定は難しいと思われる。携帯電話の着信・発信履歴やメールの送受信履歴、住所録の内容については分析中。

 被害者について──山蔭留美子、満十八歳。大阪市北区同心どうしん1─△△のマンションで母・幹江みきえ(四十七歳、飲食店勤務)と二人暮らし。現在六甲女子大学文学部イタリア語学科在籍中。

 被害者の事件当日の行動──母親の証言によると、被害者は前日の六月二十日午前九時、アルバイトに行くと言って家を出た。彼女は週三日の歯科受付のアルバイトの他、今月から休日に百貨店でも働いていたという。母親はお初天神の近くの小料理屋で雇われ女将をやっており、その日は午後三時頃に出勤し、帰宅したのは夜中の二時をまわっていた。しかし被害者がまだ帰宅していなかったので被害者の携帯電話に電話を掛けたが、被害者が電話に出ることはなかった。母親は心配して心当たりの友人へ連絡を取ろうと していたところに、警察からの電話を受けた。被害者と母親は二人きりの家族であったため非常に強い信頼関係で結びついてはいたが、母親が夜に働いていることもあって娘の行動をあまり厳しく監視するようなことはしなかったらしい。従って、被害者が当日バイトに行った百貨店の名も、バイトの内容も不明。

 やがて会議は終わり、捜査員たちはそれぞれに与えられた任務を遂行するために署を出ていった。鍋島と芹沢の二人は二時間の休憩を許され(たった二時間!)、芹沢は署の仮眠室で眠りにつき、鍋島は昨夜からもう二十時間近くも着ているスーツを脱ぐためにアパートへ帰っていった。


 今、刑事課の時計は午後二時二十分を指していた。六月もあと十日ほどで終わりというこの時期のこの時刻になると、窓のブラインドを通して部屋に射し込む陽の光はデスクに反射する分余計に目にしみた。刑事課には四つの係があり、それぞれ警部補を係長として九人ずつの刑事で構成されていた。そしてその全員が男だった。他に庶務を担当する婦人警官がいるにはいたが、実質男所帯のこの部屋は、廊下から伺っただけでも雑然として汚かった。今は六人の刑事が自分のデスクに着いて電話をしたり互いに話をしたりしている。部屋の埃が立ちこめて、射し込む光の筋が部屋を横切っているのがよく分かった。

 廊下の向こうから、階段を上がってきた鍋島の姿が現れた。今朝までとはうってかわり、洗い晒しのジーンズに黒のデニムジャケット姿で、中には白のTシャツを着ていた。

「──おい鍋島、ちょっと来いよ──」

 間仕切り戸を開けて鍋島が部屋に入るなり、同じ一係の島崎良樹しまざきよしき巡査部長がデスクから手招きをして言った。三十代半ばにさしかかろうとしているすらりと長身の刑事で、人の良さそうな顔立ちは警官というより役場の職員といった感じだった。

「あれ、島崎さん。係長は?」

「それなんや。ほれ、例の神奈川県警の刑事を連れて、宿泊先のホテルへ案内してるんや」

「ああ、来たんですか」鍋島は自分の席に着いた。「課長は?」

「……課長も一緒や」

 へえ、と鍋島は片眉を上げた。「で、どんな感じです? 島崎さんと係長が捜査協力するんでしょ?」

「それが、聞いてくれよ──」

「二人で何をコソコソやってんだ?」

 突然声を掛けられ、二人は顔を上げた。ワイシャツ姿で上着を手にした芹沢が、万引きを見つけたときのコンビニの店長のように嬉しそうな顔をして立っていた。

「島崎さん、また当たらない競馬の予想でしょ?」

「違うって。横浜から来た刑事のことや」

「あ、来たんだ? それでどこに?」

 芹沢はジャケットをデスクに置いてあたりを見回した。

「今、課長と二人で宿泊先のホテルに案内してるんやて」と鍋島が答えた。

「ホテル?」と芹沢は顔を上げた。「官舎の空き部屋じゃねえのか?」

「あ、そう言うたらそうや。何でそんなに豪勢なわけ?」

 鍋島は島崎に振り返った。

「せやから、さっきから言おうとしてたんは、そのことにも関係してるんや」

「と言うと?」

 腕を組んで椅子の背に身体を預けた島崎は、溜め息に続いて言った。

「……女なんや、おまえらより年下の」

「♪女ぁ!?」

 鍋島と芹沢は息を合わせたように揃って、しかも嬉しそうに声を上げた。

「……喜んでるな」

「そりゃあ喜びますよ。で、どんなコです? 美人ですか?」

 と芹沢は身を乗り出した。

「おまえ、もう失恋から立ち直ったんか?」鍋島が言った。

「俺は後ろは見ねえ主義なんだよ。おまえの方こそなんだよ、彼女に言いつけてやるぞ」

「おまえら、いったい何しにここへ来てる?」

 島崎は頬杖を突いて二人を眺めながら、溜め息混じりに言った。「おまえらは本部事件の担当やろ」

「だって考えてもみて下さいよ。いくらうちの課には香代かよちゃんがいるからって、あとの三十人以上は野郎ばっかですよ。一人でも女子が多いのに越したことないでしょ」

「そう、芹沢の言うとおり」と鍋島は頷いた。

「──ったく、おまえら二人は余計なとこだけ気が合うんやな」

 と島崎は呆れ顔で言った。「で、どんな女って言うのは、どっちのことを訊いてるんや? 顔か気性か」

「両方」鍋島は即答した。

「顔は可愛い」

「俺はそれだけで充分」

 芹沢は胸に手を当て、満足したとでも言うような仕草をした。

「けど、思いっきり鼻っ柱の強い女や」

「……けっ、最悪」鍋島は口許を歪めた。

「ほれ、『噂をすれば』や。戻ってきたで」

 そう言うと島崎は頬杖を突いたままの姿勢で廊下を顎で示した。

 鍋島と芹沢が振り返ると、廊下を植田匡彦うえだまさひこ刑事課長と高野茂たかのしげる一係長の二人が、間に女性を挟んで談笑しながら歩いてきた。

「ほんとだ。結構可愛いじゃん」

 芹沢が呟いた。


 その女刑事は鮮やかなクリーム・イエローのスーツの中に白黒のチェッカー柄のブラウスを着て、同じような黄色のパンプスを履いていた。顎のあたりまでのラフな感じのショート・ボブの髪は明るめの栗色で、前髪も横に流していた。

 透き通るような白い肌とまだあどけなさの残る気品のある顔立ちはどこかの社長令嬢のようにさえ思えたが、島崎の言うように少し人を見下したような強い眼差しが、この女性が確かに警官なのだと思い直させた。

 部屋に入ってくると、課長は鍋島たちを見つけて声を掛けてきた。

「おう、おまえら戻ってたんか。ちょっと来てくれ」

「……嬉しそうな顔しやがって」

 鍋島は小声で言うと立ち上がった。

 二人が課長の席まで行くと、課長は席に着いて二人を見上げ、めずらしくにこにこと笑いながら言った。

「こちら、神奈川県警山下やました署の一条いちじょう刑事や。宝石強盗事件の捜査で来られた」

「一条みちるです、よろしく」

 女刑事はにこりともせずに言った。

「えっと……鍋島に、芹沢だ」

 課長は二人をそれぞれ手で示し、一条に言った。「確かあなたより三、四歳ほど年上かな、この二人は」

「そうですか」一条は相変わらず無表情だった。「この方たちも一緒に捜査を?」

「いや、この二人は違う。本部事件の担当や」

「ならいいんですけど」

「え?」鍋島は聞き逃さなかった。

「だって、せっかくこっちが皆さんのお邪魔にならないようにって一人で来てるのに、こちらで何人もの方に手を出されたんじゃ、こっちの配慮が無意味になりますから」

 鍋島はむっとして顔を背けた。

「あの、もういいですか? 俺たちこれからまだ仕事に戻らなきゃならないんですけど」芹沢も怒っていた。

「ああ、そうやったな」と課長は言った。「まあ、とにかくそういうことやから、何かあったら協力するように」

 二人は何も言わずにきびすを返し、デスクに戻った。

「──な。小生意気な姉ちゃんやろ」

 デスクから様子を見守っていた島崎が苦笑しながら言った。

「まだ新米のくせにえらい自信や」鍋島は舌打ちして呟いた。

「新米でも警部やで」

 島崎のその言葉に芹沢が顔を上げた。「キャリア?」

「ああ。それがどういうわけか現場に出てるらしい。研修でもないのに」

「どうせ神奈川県警の話題づくりでしょ」

 そこへ、一条刑事が威勢良く足早に近づいてきた。三人は話すのをやめた。

「島崎主任、宝石が見つかった店へ連れていってください」

「え? でもきみ、これから府警本部に用があるのと違うの? 今日はもういいよ。店へは高野係長と行くから」

「構いません。本部へはそのあと行きますので」

「……それに、そこの店主のことは僕も高野さんもよう知ってるから。心配しなくてもいいよ」

 一条刑事は少し不満げに口を歪めて肩をすくめた。

「じゃあ、死んだ男の育ったって施設に行きますから、場所を教えていただけます?」

「きみ一人で行くのか?」

「いけませんか?」

「いや──」島崎は言葉を濁し、思わず向かいの二人を見た。

「せっかく言うてもらってるんやから今日のところは帰ったら? どうせ先は長いんやし、最初っからスピード全開でやってるとこの先持たへんで」

 鍋島が助け船を出して言った。

「ご心配なく。ここに長居するつもりはないから」

 一条刑事はここで初めてにっこりと笑った。「それに、本部の用なんてただの挨拶みたいなものだから、どっちだっていいんだし。そうなると他に何もすることなんてないもの」

「……じゃあママにでも電話してな」

 それまで黙って頬杖を突き、観察するように一条刑事を眺めていた芹沢がぼそりと言った。

「ちょっと、聞こえてるわよ」

「聞こえるように言ったんだよ」

「……失礼な人ね」

「失礼なのはあんただよ。捜査協力を要請してここへ来たんなら、あんたも協力の姿勢を見せるのが筋ってもんだろ。こっちのやり方に合わせる気がないんだったら、うちへ話を通すなんてことはしねえで一人で勝手にやればいい」

 一条刑事はふくれっ面になってぷいと顔を背け、そのまま窓際のコーヒーメーカーのところへ歩いて行った。

「……あれ、お嬢ちゃんがご機嫌損ねちゃったよ」

 芹沢は鍋島に言ってぺろりと舌を出した。「俺もまだまだだね。女にフラれるはずさ」

 鍋島は呆れたようにふんと笑うと立ち上がった。「行こか」

 部屋を出ていく二人を見送りながら一条刑事はコーヒーを手に島崎のデスクまで戻ってくると、溜め息をついて言った。

「まったく、どう言う人たちかしら? 女だと思って馬鹿にして」

「気にすることないよ、口が悪いだけやから。それは大目に見てやって」

 島崎は苦笑した。

「分かってます。相手にしなけりゃいいんでしょ?」

「そう、その通り」

 と島崎は笑顔で頷いた。「ただ、あいつらは僕の気持ちをまさに代弁してくれたんやけどね」

 一条刑事はまたむっとした。


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