不思議の国のロリーナ
澁谷晴
不思議の国のロリーナ
ロリーナは自宅の庭にいる。目の前には妹のアリスが立っている。先ほどから姉に「待て!」と何度も言われ、うんざりしている妹だ。もう十分に時間は稼げたし、本来のタイミングから逸脱しただろうと考えてロリーナは口を開いた。
「さてアリス、そろそろ話を始めようじゃないか」
「なんですか姉さん、さっきから私を拘束して、いったいどういうつもりなのです」
「どういうつもりかと言えば、救うつもりだったんだ。君には分からないことだと思うけど、君は本来ならばいまごろウサギの巣穴に落下しておかしな世界に迷い込んでいるころなんだ。それじゃあ困るので、今回はあたしの都合でここに残ってもらったんだ」
アリスは顔をしかめて姉を見た。
「私が落下するほど大きなウサギの巣穴なんてありませんよ。それにおかしな世界って? 姉さんの都合というのも気になりますが」
「まあ待ちたまえ、まず基本的な話をしようじゃないか。質問はそれからにしてくれ。そもそもあたしたちがいるこの場所は現実ではなく作り物の世界なんだよ。始まりはドジスンという男が知り合いの家の女の子に話した物語で、それがいろんな経緯を経て出版されて広く読まれるようになったことなんだ。多数の言語に翻訳されたし映画とかアニメとかにもなったし二次創作も相当な数が生まれた。つまるところこれもそのひとつなわけだけど、このあたしことロリーナはあることを画策した。そのために本来なら外部者であるあたしが、こうして物語の本編に突入した。その目的とは無数に分かたれた君を救出するためなんだ」
「何を言っているのかさっぱり分かりませんが、姉さん」
「あたしが『外部』の象徴だという話をしているのさ、アリス。ウサギの巣穴の中に広がる不思議の国の、『外』に立つ登場人物。今回は君もそうだけど。それで今からほかの世界へ行ってそこにいる君を救出する。それこそが計画だ。ではいこう」
ロリーナはアリスの手を引っ張って庭を移動する。そして、大きな穴の前にやって来た。
「ほらほらこれだよ、遅刻魔の白ウサギが入っていった穴だ。異なる世界への入り口だよ」
「これは一体……陥没孔でしょうか、まさかこの中に飛び込むつもりですか姉さ――」
「さあ四の五の言わずに行くぞアリス!」
強引に手を引かれアリスは姉とともに暗く冷たい地の底へ落下していった。
■
気がつくと二人は廃墟の街にいた。
周囲には崩れかけたビルと、瓦礫だけが広がっている。
ひしゃげた消火栓から水が噴水のようにあふれ出ている。炎上する車が黒く煙を噴き上げる。アリスは呆然としていた。
「姉さん、これは――」
「ここは派生した物語のひとつで、原作に
「なんですかそれは。そのいかれ帽子屋って誰ですか」
「文字通りいかれた帽子屋だ。原作では別になんでもない日なのにパーティーをやっててそこに君が迷い込むんだ。三月ウサギっていういかれたウサギもいてよく分からん歌を歌っていた」
「その帽子屋さんがなんで怪獣になってて私と戦うんですか」
「さあ知らないけど、物語にモチーフがあると読者は入りやすいし作者は話を作りやすいからね、普通に怪獣と戦うのより深みが出るからじゃないかな。さて今からの行動を説明する。これからここにいかれ帽子屋がやって来るので、この世界のアリスが来る前に君がやつを倒す。そして遅れて来たこの世界のアリスをあたしが救出する。万事解決ってものだ」
「姉さん、私がどうやってその怪獣を倒すっていうんですか? 街をこんなふうに破壊するやつなんですよね? 無理じゃないですか」
ロリーナは首肯する。「もちろん普通に考えれば無理、〈いかれ帽子屋〉は百二十メートルほどの身長で、全身にある荷電粒子砲から〈マッド・ティー・パーティ〉というやばいビームの乱射を放つ。だけど考えてもみなよアリス、あたしたちは別にこの物語の登場人物じゃなくて言うなればメアリー・スーだから別にビームとか食らっても無傷だしさ」
「そのメアリーっていうのも原作に出てくる人ですか?」
「いやむしろ出てこない。つまりなんていうか、二次創作に出てきて原作をぶっ壊すバランスの悪いオリジナル・キャラをそう呼ぶんだ。だぶん普通に殴ってもやつは粉砕されるであろうが、初めてだしアリスも勝手が分からないと思うから武器をあげるよ」
ロリーナが右手をかざすと、そこに一振りの剣が現れた。
それを差し出されたアリスは重そうなので力をこめて握り締めるが、意外と軽くてつんのめった。
「これぞヴォーパルの剣、あのジャバウォックをも屠った恐るべき武器だよ」
「そのジャバウォックっていうのがまず分かりませんが、それも怪獣なんですか?」
「あたしも知らない、ジャバウォックっていうのは原作でも良く分からない怪物として描写されてるからね。ああでも、この世界にもジャバウォックは出てくるよ、最強の怪獣、ラスボスとしてね。ヴォーパルの剣はこの世界では衛星兵器で、最後はそれでジャバウォックが倒されるんだ。つまり、各世界のアリスごとに設定が異なるってわけで、物語をぶちこわすために存在しているあたしたちにとって、この剣はまさに二次創作を壊すための強力な鍵となるってわけだね」
■
まったく理解できぬまま、アリスの前に〈いかれ帽子屋〉が廃墟の向こうから姿を現した。アリスは姉の指示通りに何も考えず剣を一振り、すると帽子屋のみならずその背後のすべてを切り開いて、巨大な亀裂が穿たれた。
驚愕するアリスと計画通りの運びに一人頷いているロリーナの前に、軍服を着た女性が現れた。
金髪碧眼で長身であり、アリス以上に驚愕しているようだった。
「おでましだぞ、この世界のアリスだ」
「私とはずいぶん容姿が異なるようですね」
「ヴィジュアルとしては君と同じように、リボンと青いエプロンドレスの金髪少女というのが一般的だけど、派生作品の設定によってはその限りではないからね。じゃあ君がしっかり仕事してくれたし、次はあたしの出番だな」
この世界のアリスは近未来のテクノロジーで作られた機械仕掛けの銃を抜いて「止まれ! 民間人がなぜこの区域に――」と詰問しようとしたが、ロリーナは彼女が反応できない速度で接近し肩をつかんだ。
その瞬間、ガラスがひび割れるような音とともにこの世界のアリスは砕けて光の粒となり、ヴォーパルの剣を持つアリスに吸い込まれていった。
「姉さん、何をしたんですか? あの人は一体――」
「あんたに統合したのさ。これでこの世界のアリスは、苦しい戦いを強いられることもなくなった。いいかいアリス、物語の主人公を演じるというのは責め苦なんだ。時には死ぬことだってあるだろう。そうでなくてハッピーエンドの始終幸福な物語だとしても、作者の筋書き通りに作られた世界で動かされる。それがどこの誰とも知れない、虚無から作られた人物ならあたしは気にしないさ。
だけど分かたれた主人公たちは君だ。あたしの妹だ。自分の愛する妹が、無数に分裂した世界で何かの役を演じさせられているというのなら、そんなの我慢できやしないさ。だから、あたしは君をすべてひとつに収束させ、最後は現実の――ドジスンの聞き役だったアリスに還す。それがあたしの役目なんだよ、アリス」
物語の主人公を失ったがためか、世界そのものにひびが入る音がし、空間に亀裂が走る。
廃墟の街は黒く暗転し始める。まるで原作において、ハートの女王の処刑から逃げるアリスが、現実へ帰還するときのように。
アリスは姉を見つめ、次にヴォーパルの剣に目を移した。
どう考えてもこれはまともじゃない。姉の計画とやらをやめさせるべきだろうか。
そう逡巡するも、彼女の脳裏にいくつかの光景が浮かんだ。
先ほど消えた、この世界のアリスの記憶だ。
彼女は怪獣〈白ウサギ〉に家族――ロリーナという姉を含む――を殺され、苦しい戦いを選んだ。
そして原作のアリス。白ウサギを追って穴に落ち、数々の奇妙な体験をし、現実へ帰還し、姉と再会する。
アリスは理解した。
自分もまた、奇妙な世界に迷い込んでしまったのだ。
白ウサギの代わりに、姉に導かれてこの剣を握り、他の世界の自分を消していく旅に出る。
そんな物語が、既に幕を開けてしまった。
アリスは姉を見ながら頷いて、ともに歩き出した。
廃墟の都市が砕け散り、アリスとロリーナは次の世界に向かった。
無数に広がる、不思議の国のひとつに。
不思議の国のロリーナ 澁谷晴 @00999
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