三時の空視を君は往く

王子

三時の空視を君は往く

 三時休憩の事務室に私は一人だった。室内は冷房で過剰に冷やされていて、冷気にさらされ続けた指の関節は、動かす度に音が聞こえそうなほど固まっていた。

 休憩開始のチャイムと同時に席を立つ。窓際の給湯スペースで、マグカップにインスタントコーヒーの粉をと入れて、熱湯から立ち上る湯気にほっとする。熱を逃すまいと手のひら全体でマグカップを包みながらコーヒーに口をつける。ああ、ちょっと濃すぎた。ひと控えれば良かった。

 事務室の外は手を差し出せば先端から溶け出しそうな気温で、こんな暑いなか外回りをする営業さん達は大変だ。ガラス一枚隔てたこちら側ではホットコーヒーで暖をとっています、ごめんなさい。

 ふぅ、と疲れを吐き出しながら空視する。二階から眺める景色は代わり映えがなくて気分転換にもならないけれど、青い空に涼しげに浮かぶわた雲には目を留めてしまう。しばし空を眺めていると、視界の端に白くてぼんやりしたものが。わた雲ではない、何か。

 浮遊物体は私の頭から一メートルほどの高さを、ゆっくりと左側からやって来た。目を凝らしてみると、全体は細長く、輪郭はぼやけて見える。どうやら表面が柔らかい素材で覆われているようだ。さらに近付いてくると、棒のようなものが数本伸びていることも分かった。

 ゆっくりゆっくりと、回転寿司ほどの速度でそれは近付いてくる。コンベアに乗せられて水平移動を続ける寿司みたいに、がたつくことも急停止することもなく、一定の速度を保ったまま宙を移動している。

 距離にして私の歩幅で十歩くらいのところまで浮遊物体が迫ったとき、ようやくその正体が分かった。

 猫だ。

 進行方向にお尻を向けて、首元をつままれ吊られているように、空中を漂う白い猫。触り心地の良さそうなつやつやとした毛並み。前後の脚と尻尾をだらんと垂らしている。

 呆気にとられていると、猫は横顔が見える距離にまで来ていた。苦しそうにもがくわけでも、諦めたようにぐったりと頭を垂らしているわけでもない。目は通ってきた道筋に向けられていて、何事も起きていないかのように、もしくは気付いていないかのように澄ました表情で、なすがままに運ばれていた。

 猫が私の正面までやって来ても、その猫を運んでいる誰かは見つけられないままで、ただ通過していくのを眺めることしかできない。もし、猫の空中運搬システムなのだとしても、それを止めるべきなのかは分からない。そんなものに用途があるのかさえも知らない。

 ただ流されていく浮遊猫を視線で追っていると、ふと目が合った。

「にゃー」

 ガラス戸越しにかすかに聞こえた鳴き声は、助けを求める悲痛な叫びとはほど遠い、間延びした呑気な声だった。「今日は暑いね」と挨拶されたのかもしれないし、「何見てんだ、見せもんじゃねえぞ」と因縁をつけられたのかもしれない。

 いずれにしても私に向けられた「にゃー」に無反応では礼節を欠くというものだろう。私は背筋を伸ばして、しっかりと目を合わせて応える。

「にゃー」

 猫は表情を変えず、私をつまらなそうに眺めながら、相変わらず緩やかな速度で進み続ける。どんどん遠ざかって、表情が見えなくなり、ぼんやりと白い鞠みたいになり、やがて点になっていった。

 ぬるくなったコーヒーを一口すすってから、「にゃー」と、もう一度声に出すと、休憩の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

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