第8話 見えない壁

「い……一花先輩? 」

 だが、華の声は廊下にしんなりと流れるだけでどこからも反応は全くない。


「い……一花先っ輩っっ‼ 」

 今度は両手で拳を握り気合を入れて名を呼ぶと、ようやっとその瞳に光が灯り、解りやすく「はっ」と、一花は肩を揺らした。

「な、なに? 華、どうしたの? 」

 その表情に、華は思わず息を呑んだ。一花の元々綺麗だった大人びた顔が緊張と興奮で少し汗ばみ呼吸は乱れ。頬をほんのりと桜色に染め、最早それは中学生の乙女のそれを遥かに逸脱した異様な色気となっていた。


「あばっ‼ あばばばばば……」華の顔に、みるみる熱が籠り目がぐるぐると回る。

「……だいじょうぶ? はな? 」

 あ、あなたこそ本当に中学生女子ですか⁉ と言えたら、どれ程楽だったろうか。

 多分、この後の展開があと3分遅かったら華は鼻血を吹き出し、出血性ショックを引き起こしていたかもしれない。


「あ~、おねえちゃ~ん、はなちゃ~ん」

 底抜けに明るい声が聴こえると、華の全身にそれは突っ込んでくる。

「うぐぅ‼ 」照準通り華に命中。熱にあてられた顔の方へ、少し甘酸っぱい汗の臭いの混じった少女の香りが漂ってくる。

「どーっだった? どーだった? アタシ、少しは先輩らしいトコ、見せられたかな~~」

 そう言いながら、華に止めを刺すかの様に小さな頬にグリグリと自分の頬を擦りつけて無邪気な声を挙げている。


「こら」

 そんな継葉の脳天に、すっかり正気に戻った一花の手刀が脳天に突き刺さった。


「いだーい。おねえちゃん。ひど~い」

 頭を擦りながら、継葉は華から離れると姉を睨みつける。


「うっさいツグ‼ なんなの、あの無駄なアテンプトは。あんたは直ぐに調子に乗って無駄に跳躍したり、コーディネーションに頼ったりする‼ 丁寧にカウンターバランスをとって慎重に進めていたらもっと違う結果になってたわ‼ 」


「おい~その辺にしとけ~」

 その様子を見て、気怠そうに谷寺がこれまた脱力した声を発する。

 そして、頭を擦る継葉と怒り冷めやらぬ一花の間に立つと、一花の耳元でそっと艶やかに囁いた。

「なんだ、あの時野村の事ばかり見てると思ってたら、しっかり継葉の事を見ていたんだな。そうかそうかあいつ、また無理矢理跳躍で解決しようとして落ちたのか。やれやれ」

 首を横に振りながらそう言うと、軽く二度三度一花の肩を叩き、来た道を戻る。


「え⁉ 男子の予選、見てかないの? 」その背中に、継葉が驚いた様に言う。

「私は別にいいが、華を休ませた方が良いだろう」と、背中で返答。

「華ちゃん? 」その言葉で継葉は華の方へ視線を移した。

「ちょ‼ 」今度は、一花が慌てた声を出す。


「あばばば、あばばばばばばあ……」そこには頭と目ををクラクラと回して顔を茹蛸の様に顔を真っ赤にした華が今にも倒れそうな状態だった。



 ――その翌日、女子決勝は大方の予想通り、野村と継葉の一騎打ちの様な形になり、結果。経験の大きさで、野村が辛くも連覇を成し遂げる。




 ――帰り、新幹線の中。

 谷寺はビールを何本か飲むとすぐに椅子を倒して寝息をついていた。

 席を動かして四人は向き合う様にして座っている。決勝本戦後、少しだけ男子の決勝を観る事になったが、会場の客が継葉に気付いた事で騒ぎになりそうになったので、そこで谷寺と一花の判断で帰郷となった。

 だから、まだ新幹線の窓の外では陽の光が地に残り、夏の近付きを告げている。


「そいえば、晶ちゃんからライン来てたよ。

 お姉ちゃん――日本大会出場るんだね‼ 確か、冬休み前に予選だよね‼ 」

 そんな時、不意に継葉が無邪気な声を挙げた。それを受けた一花は解りやすく肩を揺らして動揺を見せる。

 それを隣の席の華がまだ赤い鼻を隠す様に、両手でお茶を飲みながら横目でそれを観察。少し距離をとっておかないとまた興奮状態にあてられてしまう。


「あ、あれは……しゃ、社交辞令というか……の、野村さんにああいう風に言われたら……こ、断れないし……」

 どうにも、一花は野村晶が絡むとその凛々しさを失うようだ。と華は推察する。因みにそれは実に的を射ている。


 凪海一花にとって野村晶とは、スポーツクライミングの象徴であり、憧れであり、そして頂点である。

 そもそも彼女がクライミングを知るきっかけとなったのが、5年前のある日の朝夏休みで偶然見たニュースで野村晶が特集されていた事だった。

 ボーッと眺めていたその瞳があっという間に彼女のクライミング技術の数々で奪われた。最初は何かくっ付く物が手に付いている、手品の様なものなんだと思っていた。

 それが、チョークという滑り止めだけを付けた素手だと知ったのは、その女性に憧れて父親に頼み込み近場のボルダリングジムへ連れて行ってもらった時だ。


 初めて挑戦した10級の課題でも何度も失敗し、ようやっと達成した時に彼女は予感した。自分はこの競技をする為に生まれてきたのだと。


 そして、常に姉の後ろを付いて回っていた継葉が彼女の後を追ったのは、必然的な事だったのだろう。


「いいじゃん‼ お姉ちゃん、普通に練習だと出場者平均の段位登れるじゃん‼ 」

 一花は、口元をもごもごと動かすと、すっくと急に立ち上がる。

「どこいくの? 」継葉の問い掛けに「お手洗い」とだけ返すと、すたすたとその場を離れてしまった。


「……一花は、すっかり逃げ癖がついちまったな」

 二人は驚いて、その方向を見ると谷寺が伸びをしながら欠伸をしていた。

「起きてたの? めいちゃん」

 継葉の言葉に「興味深い話題だったからな」と、谷寺は呟いた。


「あ……あの……」そこに、華も口を挟む――が、そこから先の言葉はやはり内に留めた。あまり関係の薄い自分が口に出すのも悪いと思ったのだ。

 その様子を見ながら、谷寺は残っていたビール缶を飲み干すと。


「一花は、実力者だよ」と、華の心を読み取った様に語り出す。


だが「アタシもトイレ。ジュース飲み過ぎちゃった 」それと同時に今度は継葉がその場から立ち去ってしまった。

 その様子に何となく空気の悪さを感じながら華は、小さくなる継葉の背中を見つめる。


「そもそも、ボルダリングを始めたのも一花が先だし、コンペで名前が出たのも一花が先だ。

 フィジカルの訓練も、テクニックの訓練も。

 ボルダリングを始めて、1日も欠かさず行う根性と努力の胆力も持ち合わせている」

 その話を聴くと、華はより解らなくなる。


「一花を苦しめているのは、継葉の存在だよ」

 その言葉を聴いて「え⁉ 」と、華は思わず驚いた声を出してしまい、周囲をキョロキョロと見渡した。少し息を吐いて「いいか? 」と谷寺の言葉に華が頷くと、話は続く。


「一花にとって、継葉は、ボルダリングを始めた時には恐らく気にも留めてない存在だった。

 それが――ある日を境に。

 遥かに自分よりすごいボルダーになっていたんだな。

 そして、遂に決定的な事が起こる。

 自分が全く歯が立たなかったコンペで、継葉が圧勝して優勝を納めたんだ。

 そのコンペには、一般の部であの野村も出場しててな。

 だから、一花はきっと人生で一番の努力ってのを、そのコンペの前にはこなしたんだろうな。あいつが、野村に対して並々ならん気持ちを持ってるのは、今日の様子で気付いたか? 」

 華は、縦に首を動かした。


「同じ日に産まれ落ちたのに、あいつには姉としての大きな自尊心もあったし、実際に継葉は何一つ一花より抜きんでるものなんて、それまで一つもなかったそうだ。

 ――それが、最も一花が欲しがったそれを……唯一継葉は持っていたんだな」


 しみじみとそう話すと、少し間に困った様に、谷寺は空のビール缶に口を付けた。

「そして、いつしか一花がクライミングをしている時に、周囲の人間が雑音を放つ様になった。

 或る者は『同じ外見なのに』と。

 また或る者は一花を『可哀想』と。

 あいつは、それを怖がるようになっちまった。

 その瞬間。あんなに希望と夢に溢れていた壁が。正に高く聳え立つ、未来をただただ遮る壁になっちまったんだな。

 だが、それは継葉のせいじゃない。それを乗り越えるのは……一花の問題なんだ」

 そこで、急に話を止めると、谷寺はバツが悪そうな顔を浮かべて、華に向き直った。

「……いかんな。酔って話し過ぎちまった。この事は、あいつらには言うなよ?

 ……でもな、華。お前が入部してくれて本当によかったよ」

 華が「へ? 」と呆気にとられた言葉を発すると、その鼻先に、谷寺の意外に逞しい指が当たる。

「この話は終わりだ」

 終わりも何も。話したのは一方的に谷寺の方なのに。

 少し納得いかない華の顔を見ながら谷寺は静かに心の中で囁いた。


 ――お前なら、あの2人の見えない壁を消してくれるかもな。

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