第5話 世界2位

 顔面蒼白となった華を気遣い、一花が声を掛ける。

「ごめんね、華。怖かったでしょう? 」

 それに対し思わず「はい」と答えてしまった。


「ごめんね。でもあの人達は怖い人じゃなくて、純粋にツグにサインをもらいたかっただけなの……悪く思わないであげてほしい」

 継葉のサイン――それが、どういう事を意味するのかこの時の華には全く分からなかったが、何故か一花が誠心誠意それを伝えるので、華もそれに頷いた。


「おい、2人ともこっちだ。ツグのエントリーするから、離れるなぁ」

 少し離れた場所で谷寺が呼ぶので、それを尋ねる事は出来なかったが。


「この辺で見るとするか」

 継葉と受付で別れた三人は会場へと進んでいた。


「すごぃ……」とても広い会場に圧倒的な存在感をみせる大きな壁。

「これがボルダーの設備だ」

 足を止めて見つめる華に谷寺が近場のパイプ椅子に腰かける。

「ボルダー? 」


「ボルダリングの略称よ」一つ席をずらしてそこに華を誘導しながら一花が説明する。


「ふむ、今年は予選では無難な課題のようだな」

 席に着き、目の前の舞台に目を向けると、その壁は間に巨大な液晶モニターを挟み、二つのボルダリングの舞台が並んでいる。


「二つ壁が……」

「そう、二つの壁に分けられた10の課題がこの予選の課題になるの。まず、出場選手はその内の8の課題に挑み、完登。つまり登り切れた数が多い人から6人が明日の本戦に進めるの」


 華はそれを聞いて首を捻った。

「でも、それじゃ皆が全部登っちゃったらどうなっちゃうんですか? 」


 それを聞いて谷寺が「くくく」と小さく笑った。

 一花は華の方へ向くと「そうね」と微笑みを浮かべる。

「その場合は、トライの回数や、課題の中にあるボーナスフォールの数を掴んだ回数で細かく順位付けされるの。だから、オブザベーションをしっかりする事が重要になるのよ」

 専門用語が出たので、華は記憶の引き出しを開ける。


「トライが、その課題への挑戦の回数で

 オブザベーションが……」

 続きが中々出てこない。それを見て一花は優しい言葉で教える。


「オブザベーションは、課題に挑戦する前の作戦組み立てみたいなものね。

 ボルダリングの課題という物は、それを作るルートセッターさんが考えるものなんだけど、所謂パズルの様なもので、攻略に適正する技術が存在するの。

 それを持ち時間の中で見つけるのが、オブザベーションね」

 谷寺が、にやにやと課題を見ながらそれに付け加える。


「要するに、登るのが肉体的フィジカルだとしたら

 オブザベーションは頭脳的インテリジェンスだ。

 互いが選手を助け合う事も在れば。

 互いが足を引っ張る事も在る訳だな」

 それに、呼応する様に一花が続ける。


「要するに、ただ単に身体能力が高いだけでは駄目という事よ」

 華は、感心した様に頷き返答する。

「奥が深い競技なんですね……」


 そして舞台を見つめる2人を谷寺は横目で見ると、静かに視線を戻した。


「ところで……今日の大会には一花さんは出られないんですか? 」

 会話が途切れた空気に耐え切れず、華がそんな事を口にする。

「え……」その端正な顔が一瞬驚いて目を見開いた。


「……いいかぁ? 天塚ぁ? 」

 谷寺が助け舟を出した時に「すいません! 私、お手洗いに失礼します」と、勢いよく一花が立ち上がって一目散にその場を離れた。

 あまりに急だったので、思わず華は固まる。


「……やれやれ……

 すまんな、天塚。ここに来る前にお前にきちんと教えておくべきだった。

 今日のこの大会はな?

 フリークライミング世界大会の予選なんだ」


 余りに、勿体付ける事も無く。授業の前の号令の様に。

 抑揚も無く、淡々とそういうものだから。


「え? 」と、華は自分の中で理解出来ず訊き返す。


「天塚ぁ、今のフリークライミングの世界王者って誰か知ってるか? 」

 まだ、先の状況が上手く呑み込めていない華に少し考えた後、谷寺はそう言った。


「いえ……すいません……」おどおどと華が答えると、続けて谷寺は質問する。

「じゃあ、どこの国のヤツだと思う? 」

 華は、色々なスポーツ選手を思い浮かべて、やがて「アメリカ」と答えた。


「確かに、欧米人は力や四肢の長さ等体躯も恵まれている。でもな天塚ぁ、筋肉とか体格の良さが全部クライミングに有利に働く訳じゃないんだ。特に女子選手でこのボルダーは、体重の軽い者の方が強い。

 今の世界王者はな?

 日本人なんだよ」

 谷寺は一切感情を籠めずにそう言うと、華の反応を窺った。


「え……あ? 」

 その言葉と今の状況が、ある驚愕の事実に花を誘う。

「ま、まさか世界王者って――」


「世界王者は、社会人クライマーの野村晶のむらあきら。名前を聞いた事ないか?

 クライマーの世界だと、この女の名前と顔は親の顔よりもよく見る。

 7年連続日本大会優勝。

 3年連続世界大会優勝。

 そして――3年後に正式種目となる。東京オリンピックの……メダル獲得最有力候補だ」

「そうなんですか……」

 華は、少し残念そうにその話を聴き終えた。それはこの話が出て来た時、華の脳裏にはある人物が浮かんでおり、その人物が解答ではなかったからだ。

 しかし、実はこの話には続きがあった。

 話しの組み立てに抑揚がないから、非常に分かり辛かったが……本当はこの後半が本命の話題だった。


「そしてな。

 実は、この絶対王者に昨年日本大会予選で土をつけた奴が居る。

 そいつは、2年連続で日本大会で準優勝と、野村に一歩譲ってはいるが、間違いなくオリンピックで野村を脅かす存在メダル候補はこいつだと言われているんだな。


 それが――継葉だ」

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