第八回 マドイ
繁華街で
「本当にここで
オレが一文字に尋ねる。
「どこかの建物に隠れたのかも知れない。これだけ建物があったら、いくらでも気配を消して隠れられそうだからな。闇雲に捜すよりは、調査班の報告を待ったほうがいいかも知れない」と返してきた。
路地裏を歩いていると、看板が読めないほどに汚れていて、かつ店の入り口が地下への狭く薄暗い階段の奥といった胡散臭いバーを発見する。
オレがなんとなくそこを見ていると、「なにを見ているんだ」と一文字がオレの視線を追った。それと同時に、店から客と思われる男が出てきた。一文字はその男が失せるのを待って、オレ達に言う。
「この店の中に、
「え?」とオレ。
「扉を開けた瞬間、ほんの少しだが
岬が「分かりました」と答えたのと同時に、一文字は「じゃあ行くぞ」と階段を下りる。オレは渋々、奴に付いて行った。
店の扉を開けた。夕焼けを思わせる淡い
「薬物中毒者とアルコール依存症の連中の溜まり場みたいだな」と一文字は呟きに、「全くだ」とオレも続いた。
オレ達はバーテンダーの男の前に座った。バーテンダーが「なにに為さいます?」と尋ねて来たのだが、一文字は慣れた様子で「連れと待ち合わせしているから酒はまだ要らない」と答えた。
「そうですか」とバーテンダーは、取り敢えず水だけくれた。
ここで一文字の携帯電話が鳴った。何度か「そうか」と返して電話を切ると、オレの耳許で「この店は違法性の高いバーで、この辺の警察も目を光らせているらしい」と囁いた。
「ぼったくられるのか?」と、オレは小声で尋ねる。
「そういう方向ではなく、薬物の密売とかだそうだ。まだ証拠が挙げられないから、営業を認めているそうだ。この水も飲むなよ。なにが入っているのか分からないからな」
「わ、分かった」
一文字が携帯電話を操作している間、オレは店の中を見回してみる。バーには舞台があって、そこでは歌手がなにかを歌っている。音楽の雰囲気と周囲の演奏者が奏でる楽器から察するにジャズだと思うのだが、ジャズに興味を持ったことがないからよく分からない。オレは特にすることも無かったのと、楽曲が趣味に合わないものではなかったために暇潰しを兼ねて聞き入っていた。
「この曲ってジャズかな」と一文字に尋ねてみたのだが、奴は「知らん。ちょっと黙ってろ」と無愛想に返しやがった。
「冷たい奴」とだけ言ってやって、オレはまたジャズらしき音楽に聞き入る。
入り口からカラン、カランと鐘の音がした。目をやると岬が入ってきた。岬はオレ達に目もくれず、距離を取って椅子に座った。バーテンダーが岬になにか近づいてなにかを話している。岬は安そうな酒を一杯だけ貰って、それに口を付けることなく携帯電話を
歌が終わる。オレが舞台を見ると、歌手の女性は舞台裏に去って行った。それと入れ違いになるように別の女性が現れるのだが、その女性を見てオレは驚いた。妻の
一文字が千春似の女性を見た瞬間に、オレの耳許で「奴は標的だ」と告げた。ということは、千春似のあの女は
いやいやいや。
穏やかな気持ちになっている場合ではない。
一文字がバーテンダーを呼んだ。
「彼女、歌がうまいね。名前はなんて言うの?」と尋ねている。
「彼女はみんなからハルと呼ばれています」とバーテンダーは答えた。名前まで似ている。
「この店のオーナーが
バーテンダーの言葉に、なぜだかオレは嬉しくなる。オレは再びハルを見ると、さっきまで無かった
オレの後ろから「何歳くらいなんですか」と、一文字がバーテンダーに尋ねる声が聞こえた。
「さあ。オーナーなら知っていると思いますが、私は知りません。三十の半ばくらいじゃないですかね。もしかして好みなんですか?」
「そういう訳じゃ」と一文字の笑う声がした。
一文字がオレの脚を蹴った。オレが奴のほうを向くと、また耳許で「あれだけ人に囲まれているんじゃ、襲撃するにも出来ない。しばらくしたら、いったん
「わかった」と、オレはもう一度ハルを見た。彼女を囲んでいる連中には、老若男女問わず色んな奴がいてしかも多い。この店にこんなに人がいたのかと疑いたくなるほどだった。ハルが観客にウインクをする度に、キャーだのオーだのと歓声が上がって、さらに歌い終わった彼女が投げキスすれば、その方向にいた観客は男女問わず全員が卒倒する始末である。ふと、ハルの視線とオレの視線が重なった。彼女はニコリと頬笑みを見せたので、オレは思わずドキッと胸が高鳴って一瞬目を逸らした。すぐにハルに視線を戻すと、嫉妬でもしたのか周囲の観客がオレを睨みつけてきた。なんだか怖いのでオレは再び目を逸らす。ハルはまた同年代の別の楽曲を歌い出した。
「おい、いつまでここにいるんだ?」
オレは一文字に囁いた。
「彼女に対する熱気は異常だ。説明は後にするからすぐに出よう」と一文字が立ち上がる。オレは「店から出ていろ」と言われたので店の前へと移動した。すぐに一文字が出てきて言う。
「あいつは恐らくは【№《ナンバー》11】のマドイという
「オレと相性が悪いってどういうことだ? オレのカミさんに似てるってところか?」
「そんな事はどうでもいい。問題なのはお前みたいに単純に殴ることしか能がない奴は、接近戦以外じゃなんの役にも立たない。混乱させられないために近づかないのなら攻撃できないし、近づいて混乱させられて暴走でもしたら邪魔で邪魔で仕方がない」
「あ、確かにそうね」
正論なんだが言いかたが腹立つ。
「それにしても、なんであいつはオレのカミさんに似てるんだ」とオレは続けた。
「知らん。お前の奥さんが死んだのが半年前。
「偶然なんて事があるのか?」
「お前の奥さんが有名人なら、それを基に擬態した可能性はあるんだが一般人だろ? こちらもお前の奥さんが、実は有名人だったなんて情報は入っていない」
「実はブログかなんかで有名人だったりして」
「それならすぐに有名だと分かるはずだ」
そんな話をしているときに岬が出てきた。それと同時に一文字の携帯電話が鳴った。
「なにがあった?」と訊くと、「マドイが店の裏口から出てきた」と一文字は告げた。さらに「調査班が尾行しているから、僕らもすぐに彼女を追うぞ」と続ける。
オレ達は調査班からの情報を頼りにマドイを追った。と、遠くで親衛隊を連れた彼女を発見する。
「あんなに人が周囲にいれば、攻撃したくても出来ませんね」と岬だ。
「親衛隊の人数は十一人だそうだ」
一文字が調査班からの報告を教えてくれた。
オレ達はそのまま遠巻きに彼女を追い続ける。マドイと親衛隊の連中は『テナント募集』と書かれた、汚れた看板が掛けられている四階建てのビルに入って行った。それを向かいのビルの陰から確認した。
「ここで待機だ」
一文字が言った。なんでも「あのビルには廃墟でいまは誰も使っていないらしい。どう対応してマドイを駆除するか上のほうで対策を講じている」そうだ。
しばらく待つ。一文字の携帯電話が鳴って、出た一文字が電話を切るなり「煙を確認次第、突撃する」と告げて来た。
「煙?」とオレだ。
「そうだ。マドイが逃げないように放火して攻め込む」
「マドイを取り巻いている人達は、どうするんですか」と今度は岬だ。
「そうだ。取り巻き連中が死んだらどうするんだ」とオレも続いたのだが、一文字は「尊い犠牲ってやつだ。それに、こんな時間から酒を飲んだり、危ない薬を決めているような連中だ。死んだところで社会的損失はない」と断言する。
「だからって――」
「いまマドイに逃げられるほうが危険だ。奴の
そう言われてオレも岬もなにも言い返せなかった。
「マドイは
オレ達がビルのほうを見ると、黒く細い煙が昇りだしていた。
「先に言っておくが、万が一マドイを庇ったりするような奴がいれば殺しても構わないそうだ。じゃあ、行くぞ!」
一文字の掛け声と共に、オレ達はビルの陰から飛び出した。マドイ達のいるビルに入ったのと同時に、一文字がオレに
「この人達は、ほかの駆除班に回収してもらうよう伝えておきます」と立ち止まった岬が、オレ達に言った。
一文字が走りながら「任せた」とだけ返して、オレと共にマドイの許に向かった。
四階の奥の部屋の扉を開ける。なにもない部屋の奥で、左右に男を侍らせたマドイが座っている。ただ、マドイはさっきまでと見た目が違った。淡いピンク色の肌と、睫の上部および頬骨の辺りを横一線に赤色だ。特に頬骨の赤い一の字は、漫画などで頬を赤らめたときの線のようだった。
「貴様! 何者だ!」
「この化け物め!」
オレ達から見て左右の死角にいた男数人が襲い掛かってきた。オレはそいつらを殴り飛ばして、一文字は男らの頭を撃ち抜くとすぐさまマドイに銃口を向けた。
「死ね、マドイ」
一文字が引き金を引いた。光弾はマドイに向かって飛ぶが、オレ達から見てマドイの右側にいた男が盾になって肩に被弾した。一文字は容赦なく連続で銃撃する。盾の男は踊るように体を振り回す。
「おい! いい加減にしろ」
オレがそう言うと、「当初の予定通りだ。いちいち気にして居られない」と一文字は言って
仕方がないので言いかたを変える
「違う。弾の無駄だ」と言うと、今度は「確かにそうだ」と銃撃をやめた。
踊りをやめた男はそのまま倒れて周囲には血が広がった。マドイは頬笑みを湛えてこちらを見ている。
「あの男は死んだのか?」
「だろうな」と一文字は冷たかった。
一文字はいったん銃を下ろすのだが、マドイの左側の男の表情が一瞬緩んだ瞬間に、今度はその男の顔面を狙って撃った。光弾が油断していた男の顔に当たってそのまま倒れた。恐らくは即死だろう。一文字は休まず、さっきオレが倒した男たちの頭を撃った。
「階段の前に三人、お前の左右で二人、僕らの周り斃れているので四人。あと二人のお人形もすでにほかの仲間が斃したはずだ。下らないお人形遊びは止めて、さっさとほかのお仲間みたいに、僕らに殺されろ」
一文字が銃口を再びマドイに向ける。マドイはなにを思ったか、一文字に向かって投げキスしたのだが、一文字は一切動じずに「そんなお
マドイが立った。一文字が銃撃する。マドイはそれを
一文字は銃撃を続けて、千春いやマドイは悲鳴を上げ続ける。オレにはマドイに妻の千春が重なり、
「馬鹿! 罠だ!」
「だからなんだ!」
「騙されるな! 偽者なんだぞ!」
オレ達がこんな言い争いをしている隙を突いて、マドイは素早く立ち上がってオレのほうに飛び出して来た。
「早田! 来たぞ!」
一文字の言葉にマドイのほうを見た。オレはマドイに抱き付かれた。ほんのりと甘い香りがした。いや、違う。甘くはない。甘くはないが、ほかの匂いとも違う。どう例えていいのか分からないが、とにかく心が落ち着く匂いだった。
「ありがとう」
妻の声でそう言われた。オレはマドイと呼ばれていた妻を抱きしめた。
「ぬいぐるみみたい」と妻は少し笑った。
「早田! 目を覚ませ!」
眼鏡を掛けている
ハヤタ? ハヤタって誰だ?
優男と女がハヤタとかいう奴が盾にされて、攻撃がどうこう仲良くお喋りしているようだが、なんだかどうでもいいや。知ったことじゃない。
激痛が走った!
脇腹と腕になにかが当たった。
「目を覚ませ!」と男の声も聞こえたのだが、なにから目を覚ます必要があるのか理由や言葉の意図が分からない。
「痛いの、痛いの、飛んで行け」
優しい声で千春は言った。二つ年上の姉さん女房のせいか、たまにオレを子供扱いする。そういえば一度だけ冗談で――息子の
妻が言った。
「この建物、火事だよ」
じゃあ、早く逃げないとな。
「一緒に連れてってくれる?」
当たり前だ。好きなところへ行ってやる。
「怖い人たちが道を塞いでるけど、大丈夫?」
怖い奴ら? そんなもんオレが斃してやる。
「怖くないの?」
お前のためなら大丈夫だ。これでも小さい頃は特撮ヒーローに憧れてたんだ。
オレは扉の前に立っている男女を睨んだ。恋人同士にも見えなくないが、奴ら拳銃を持っていて、しかもこちらに銃口を向けている。女が男から少し離れる。
オレは奴らが怖くなかった。むしろ弱そうで拍子抜けすらした。
ふと思った。あの眼鏡の男、オレのカミさんを銃撃したクソ野郎だ。
赦さない。銃撃しただけでも言語道断なのに、もしも後遺症や傷跡なんて残ったら、どう責任を取るつもりなんだ。忌々しい。
殺すか。
オレらに拳銃を向けているんだ。それだけで殺されて当然だし、本当に死んだところで正当防衛ってやつだろう。
おや? 男がこんな状態で耳になにか当てたぞ? 携帯電話か?
なにか言ってる?
ハヤ……タ、サカイヨシハル、ウラギ……、イリュージョ……イド、ンダ。
カゾク……、チハル……ヨシアキ、イコ……、ハキ。
ソセ……カクハ……クシ?
ハヤタ……イマカ……ストトシ……ジョスル?
どこの国の言葉だ?
野次馬染みているが、オレはそれが気になって男の言葉に耳を傾けた。
「繰り返す。
日本語だ。今度はちゃんと聞き取れた。
酒井佳春はオレだ。早田……なんでオレは早田なんて呼ばれてるんだ?
そうだ。公安の連中に捕まって、そう呼ばれてるんだ。
あれ? なんで捕まったんだ?
そうそう。変なキノコを食べたせいで、化け物と融合したとかで。
変なキノコ? なんでそんなものを?
そうだ。あのときの土砂崩れだ。あの土砂崩れのあとに腹が減って食べたんだ。
あれは確か、家族の墓参りの帰り。……墓参り?
死んだのか? そうだ。死んだんだ。
そしてあいつらが言ってくれたんだ。
化け物の力を使えば、千春も佳秋も生き返らせれると。
オレも化け物から解放してくれると。
だからオレは、訳の分からない化け物どもと戦って来たんだ。
…………待て。
オレが戦うのが家族を生き返らせるためなら、この千春は誰だ? 千春? 千春なのか?
千春じゃない。千春に似た別人だ。
じゃあ、誰だ。
まどい? まどい……マドイ!
このときオレは目を覚ました。
「放せ、化け物!」
オレはそう叫びながらマドイを横に振り払うと、マドイは舌打ちして今度は岬に向かって駆け出した。一文字と岬が銃撃をするが、肩や腹には当たるのだが頭部にも脚にも当たらず、そのまま岬の首に抱き付いた。今度は岬を操るつもりだろう。岬が顔を背けながら両腕を胸元に出すと、そのまま左手の甲をマドイの左頬に当てる。マドイは岬の顔を両手で挟んで無理に視線を重ねた。マドイが正面を切って岬に迫ったそのとき、マドイの頸から大量に血が噴き出したのと同時に、岬は左手でマドイの頸を折るようにして横に傾けた。右手に持つ拳銃でマドイの頸を撃ったんだと、オレが気付くのに少し時間が掛かった。岬は「気持ち悪い」と珍しく愚痴を零しながら、自分に抱き付いているマドイを押し倒した。ハンカチを取り出して顔と手に付いた緑色の血を
「早田! もう火が廻ってきている! マドイを回収後、早く逃げるぞ」
一文字がオレに言った。
「そんな事よりも! さっきの蘇生計画の破棄を取り消せ!」
オレがそう叫ぶと、奴はオレに携帯電話を見せた。
「電源は切っている。あれは芝居だ」
そうかい。まあ
「ゴミ袋かなにかに入れて、人型の状態で持ち帰られないのか」
オレはそう言うと、「そんなもの持ち歩いている訳ないだろ」と一文字に言い返された。
結局、岬がキノコを回収したときにはすでに部屋の入り口まで火が廻っていた。
「もう逃げ場がないぞ!」
オレがそう慌てると、窓の傍にいた一文字が「こっちに来い」と言う。
「なんだよ」
オレが一文字の傍に寄ると、奴は拳銃の持ち手部分で窓ガラスを叩き割った。
「僕らを抱えて、隣のビルに飛び移れ。その姿なら出来るだろ」
成る程とオレは右腕で一文字、左腕で岬を抱えて隣のビルの屋上に飛び移った。着地後すぐに一文字が、オレに人間に戻す注射を打つ。ヒトに戻ったオレがさっきまで居た部屋を見るとすでに火の海だった。
「間一髪でしたね」と岬が言った。
「そうですね」とオレだ。
「緊急事態だ」
いきなり一文字が言った。手に携帯電話を掴んでいる。
「どうしたんですか」と岬。
「別の
どうやら今日は、まだ終わりそうにない。
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