ヒーローの夢を経て

枯尾花

  第一回 融合


 妻子が死んだ。今まで色んな不幸を味わい、そのつど立ち上がって来たつもりだったが、今度ばかりは何もかもが真ッ暗になった。

 土曜日の夜中である。オレが運転する軽自動車の助手席には二つ年上の妻が座り、後部座席には今年で四歳になった息子の佳秋よしあきが、疲れ果てて眠っていた。それでもお気に入りの特撮ヒーローの人形はしっかりと握り締めている。本人いわくお守りだそうだ。

 道は混んでいて、前方の大型トラックは、ある時は止まり、ある時はチンタラと動いては、それを繰り返す。オレの車は無数の車で出来た行列の最後尾らしかった。虫の知らせといっては大袈裟だが、渋滞で苛立つのとは異なる焦燥を感じていた。オレが指でハンドルを何度も叩くと、妻の千春ちはるは年上という事もあってか「こら!」とあやすように注意する。

 突然、どこからかクラクションの音が響き渡った。背後にある十字路のかどから大型トラックが現れたかと思うと、りにもってこちらに向かって暴走して来るのを、オレはバックミラーで確認した。

オレは慌てた。すぐに逃げようとしたが、前方には大型トラックが通せん坊、右側の対向車線も渋滞していて入れる余裕がない。左側に至っては二メートルほどの段差があり、その下は田圃たんぼである。オレが妻に目をやった刹那、バックミラーが暴走トラックのヘッドライトを反射し強い光を放った。次の瞬間、背後から爆発のような音と、今まで味わったことのない強い衝撃を受けた。眼前の大型トラックが迫って来る。いな、オレの車が衝撃で押し出されたのだ。もちろん、その時はそんなことは分からない。妻の悲鳴が聞こえた。オレは思わず目を閉じた。


 小さい頃、オレは特撮ヒーローになりたかった。銀河の彼方かなたからやって来た光の巨人、華麗な飛び蹴りを決めるベルトの戦士。彼らの活躍に幼き日のオレは胸を躍らせ、テレビにかじり付いた。成長するに連れ、ほかの子供と同じように、オレも彼らの存在が幻だと誰から教わることなく自然と悟る。だが、ヒーロー達は実際に存在していなくても、テレビの中で活躍する姿は間違いなく本物である。運動神経にそれなりの自信があったオレが、スーツアクターの道を目指すことは不思議なことではなかった。

 大学卒業後、オレはスーツアクターを抱える俳優事務所に入ったが、当然それだけでヒーローを演じられる訳ではない。長い下積みの中で、出番など殆どない小物や、大勢いるうちの雑喉ざこの一人という、誰が演じても変わらないような早くを全力でこなした。スタントもやったし、時代劇では登場と同時に主役に斬り殺される小悪党もやった。要は仕事が来たらなんでもやったのだ。仕事や練習によって常に体のどこかには擦り傷があった。

 だが、現実は厳しかった。二十八歳での結婚を機に、オレはスーツアクターをやめたのだが、結局は憧れのヒーローを演じる機会が無いどころか、スーツアクターや役者の仕事だけでは生計を立てることが出来ずにアルバイトをしていた。

 早い話が、オレにはヒーローになれるだけの才能が無かったのだ。


 気付けば事故から六ヶ月も経っていた。

 どうやら大惨事だったそうだ。手許には、それを伝える新聞記事があるが、茫然としていたせいか、誰から聞いたのかも、事故の細かな内容もまるで覚えてはいない。だが、正直そんなことなど頭に入って来れる訳がなかった。オレとって重要なのは、この事故によって妻の千春と、息子の佳秋が死んだということなのだ。

 誰かが言った。

「あの事故で後遺症らしい後遺症が無いなんて、奇跡ですよ」

 オレにはそう思えなかった。

 妻と子が死んでしまったのなら、いっそ一緒に死にたかったとすら思う。これから一緒に生きていこうと誓った妻も、人生を懸けて立派に育てなければならない息子も、もう自分の傍にいないどころか、この世界のどこにも存在しない。

 弔ってやることすら出来なかった。

 夢であって欲しかった。だが、夢は覚めなかった。

 もう、なんのために生きてきたのかすら、分からなくなっていた。

 不幸にしてオレは生き延びた。だが、妻と子はほぼ即死の状態だったそうだ。それはそうだろう。二台の大型トラックに挟まれて潰されたのだ。自分のように生きているほうが不思議だ。

 妻と子は、オレの親の実家近くにある墓地に埋葬されたそうだ。親の実家といえば、すでに他界しているオレの祖父母の家である。成人して十四年になるが、大人になって祖父母の家を訪れたのは、オレが結婚する以前に死んだ祖母の葬儀以来である。

 集落から少し離れた小高い丘を、オレは供花くげと線香を持って上る。日は西に傾いて、墓地は薄暗い橙色だいだいいろを帯びていた。高い場所にあるせいか墓地の空気は冷たく、そして狭いこともあってか物悲しい。オレの親戚たちが眠る区域に、見慣れない新しい墓石はかいしが二つ増えていた。

 酒井さかい千春。酒井佳秋。

 妻と息子の名が、それぞれ刻まれている。

 正直、これを見るまでは、実は生きていましたなんて、下らないオチが実際には有り得ないのに少しばかり期待していた。「笑えない冗談するな」って、泣きながら笑って怒れるんじゃないかと、心のどこかで思っていた。

 オレは静かに花束を捧げ、線香に火をけるとそれを供える。手を合わせて目をつむった。途端に涙が止めどなく溢れてきた。

「千春……佳秋、ごめんな……ごめんな」

 目を覆い、嗚咽おえつしながら赦しを乞うた。そしてそのまま泣き崩れた。

 どれだけ時間が経ったのか分からない。気が付くとすでに日は沈み、西の彼方から頼りない残光が、墓地に闇を落とすのを僅かに阻んでいた。丘をくだり、ふもとに止めておいた知り合いの自動車に乗る。墓地から自宅に帰るには、途中で十キロほどを電燈のない山道やまみちを進まなければならない。妻も子もいない自宅に戻ったところで……とも思ったのだが、その日はなぜだが親の実家に泊まろうという気持ちになれなかった。

 山道をしばらく走り続ける。自動車一台分しか通れないほどの狭い車道の左右には、鬱蒼と木々が生い茂っており、オレはその枝葉のトンネルを抜けて、穏やかだが長めの曲がり道に来る。片側は崖になっていて、その下には川が流れている。田舎いなかの山道なのでガードレールなんてものは無い。オレは意識せずとも慎重に車を走らせた。と、突然なにかの物音が下の河原から響き渡った。それだけじゃない。オレの目の前で山から川に向かって土砂が滑り落ちた。オレは急いでブレーキを掛けたが間に合わない。

「わああああ!!」

 オレは土砂崩れに巻き込まれて河原に転げ落ちた。その途中、視界に入った川が段々と大きくなっていったのは覚えているが、そこから意識が途切れた。気付いたときには顔面が血塗ちまみれだった。車は転倒していて上下が逆になり、オレはシートベルトで椅子いすからぶら下がった状態だと気付くまで少し時間が掛かった。まったく運が悪い。半年前に大事故から生還してしまったと思えば、また事故に遭った挙げ句に、今度もまたしぶとく生き延びてしまった。

「……最悪」

 シートベルトをはずして天井に落ちる。幸いなのか窓ガラスは割れていて脱出は簡単そうだったが、そこで脚が動かないことに気付いた。痛みを感じないのは不思議だったが、恐らくは骨折かなにかだろうと、妙に冷静だったのは覚えている。ただ、脚だけではなく全身が言うことを聞いてくれず、全身が凍ったのか、それとも重しでも付けられているのかと疑いたくなるほどに動けない。どうにか匍匐ほふくして自動車から抜け出したオレは、携帯電話で救助を呼ぼうとしたが、さすがはド田舎……圏外である。電池の残量も僅かだ。

「まあいいか」

 オレに絶望は無かった。無理に助かる気は無かったし、死んだら死んだで構わない。むしろ、そのほうがいい。そう思うと気が楽になった。オレは仰向けになり空を見た。河原の周囲は木々もなく、枝葉から解き放たれた星空をオレは全身で受け止めることが出来た。

 このままオレは死ぬのだろうか。死んだらどうなるのか。あの世はあるのか。あるとすれば天国・極楽のようなところへ逝くだけだろうか。家族と……妻と子と再会できるだろうか。それとも、やはりあの世は幻想で、オレの意識は消えて無くなるだけなのか。オレの体はここで腐り果てるのか。獣か虫かなにかに喰われるのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると腹の虫が鳴った。そういえば、今日はなにも食べていない。家族の死で食欲なんて湧かなかった。今でもそんなものは無いが、腹の虫は素直らしい。

 ふと、頭を向けていた方向に目をやる。手を伸ばしても届きそうもない距離に、見慣れないキノコを見つけた。笠がピンク色で、そこに赤・青・黄色の斑点があり、輪郭は緑色である。形そのものは子供が絵にきそうなくらい普通のキノコであるが、明らかに色が怪しい。オレは匍匐してそのキノコに近づいた。と、また腹の虫が鳴った。

「そんなに腹が減っているのか」

 オレは苦笑する。オレはキノコを掴み、そして食べた。毒キノコだったとしても構わなかった。キノコの味は美味うまくもないが不味まずくもない。口が拒絶することはなかった。食べ終えて一息ついた瞬間、神経と五臓六腑が握り潰されるような痛みと不快感がオレを襲った。全身が圧迫されるような感覚だ。全身が震え出す。脂汗も出て来た。オレは思わず口を強く塞いだ。口からゆっくりと手を離して何度も深呼吸を繰り返す。そうしている内に、オレは貧血にでも成ったかのように視界が暗くなっていき、そのまま意識を失った。


 自宅のリビングで、息子の佳秋が両手に握った特撮ヒーローを戦わせて遊んでいる。光の巨人とベルトの戦士の夢の共演である。ただ、自分が親しんだ古いヒーローではなく、二〇〇〇年以降に登場した比較的新しいヒーローである。なんとか光線、なんとかキック。どんな技かは知らないが、その息子の姿に幼き日の自分が重なって見えた。

「なんで正義のヒーロー同士が戦っているんだ?」

「だって恰好かっこいいから」

 真面目に返す息子の姿に思わず頬笑んだ。息子が振り回しているヒーローの一体を見て、オレはふと思い出したことがある。

「お父さん、そのヒーローの友達のヒーローと友達だったんだぞ」

「え?! ホント!」

「ああ。昔、一緒に仕事をしたことがある」

「え! すごーい! ねえ、その人だれ?! どんな感じだった?! 恰好かっこよかった?」

「お父さんは、悪い奴と会うことが無かったから、ヒーローになった姿では会わなかったけど。えっと、変身したときは……なんて名前だっけ?」

「ホントにあったの?」

「本当だって」

 もちろん嘘ではない。実際にオレの先輩がスーツアクターとして、そのヒーローを演じていた。残念ながら主役のヒーローではなく、主役を補佐する脇役のヒーローではあったが。ただ、いわゆる『中の人』と知り合いだったとは、小さな子供に言う訳にもいかなかったので、結局は息子に嘘っぽいと不審がられた。


 意識が戻る。最初に目に映ったのは純白の天井だった。病院だろうか。オレは上体を起こして、ぼんやりと辺りを見る。自分が載っているベッド以外はなにも無い。殺風景な部屋だ。病棟でも棚とかテレビとか、そのくらいは有りそうなものだが、本当に何も無い。窓すら無いのだ。と、天井に目をやると、監視カメラらしきドーム型の物が付いている。

 病院、なのだろうか。まるで見当が付かなかった。

 妙なことだが、別に怖いとか不気味とか、そういう感情は持たなかった。ただ、状況に流されているといった感じである。オレは自分の姿を見た。浴衣ゆかたのような病衣を着せられていた。やはり病院なのだろうかと考えながら、オレはボンヤリとだが再び真ッ白な部屋を見回した。

 扉からノックの音がする。オレは黙って扉のほうを見ると扉が開いた。スーツ姿の優男やさおとこが立っている。年は二十代半ばから後半らしかった。

「初めまして、酒井佳春よしはるさん。早速ですが、一緒に来て下さい」

 なんてことを目が合うなり言われた。どうしていいのか分からず、オレは素直に彼に付いて行った。

 やはり真ッ白な廊下を歩き、途中エレベーターに乗って、オレは研究所のようなところに連れて来られた。SF映画などで見るような、妙な実験用の装置が並び、やけに大きなコンピューターが置かれている部屋である。ガラス越しに見える隣の部屋では、白衣を着た研究者らしき人達が、なにかの研究をしている。オレが入った部屋では、スーツ姿の女性と傍には白衣を着た七十歳ほどの老人が立ってオレを待っていた。

芹沢せりざわ博士、連れて参りました」

 優男が言った。うむと老人は答えた。

「君が、酒井佳春くんだね」と続けて尋ねてきた。

「ええ。はあ」

 状況が読めず、オレはどうしていいのか分からなかった。

「あの、なんで私の名を?」

「お前のことは調べた」

 優男だ。

「酒井佳春、三十四歳。体育大学卒。元は売れないアクション俳優で、現在は親の酒屋を手伝っている。半年前に交通事故に遭い、半年間意識不明に陥るが奇跡的に復活し、しかも後遺症らしい症状もない。だが、その事故が原因で三十六歳になる妻・酒井千春と、四歳の息子の酒井佳秋を亡くす。違うか?」

 すべて当たっている。

「なんなら、もっと細かなお前の学歴・病歴、かつての友達連中の名前も言おうか?」

 オレは困惑した。一体こいつら何なんだ。そう思っていると今度は芹沢だ。

「まあ、混乱するのも当然だ。だが、今から君が知る現実は、常識を逸脱した摩訶不思議なものなのだ。しっかりと聞いてくれ。

 ……君は、山で事故に遭い、そのあとに奇妙な色をしたキノコを食べたね?」

「ええ。はい……。それがなにか?」

「それが大問題なのだよ」

「や、やっぱり毒キノコでしたか?」

「それならまだマシだった」

 またあの優男だ。

「ダンくん。……まあいい」

 オレはダンとやらを見た。芹沢はまだ話し続ける。

「彼は一文字いちもんじダン。おっと、失礼。自己紹介が遅れたな。私は芹沢悟郎ごろう。そして、私の隣にいる彼女はみさき涼子りょうこくんだ。私を含めた三人は、公安の秘密組織である『機密特殊科学捜査課』の職員だ」

「公安? 機密捜査?」

「公安とは、警察の中でも機密性が高い職務を行う部署であり、ほかの警察官は公安がなにをしているのかすら知らない」

「ええ。ドラマとかで見たことあります」

「うむ。その公安の中でも、一般的に心霊現象や怪奇現象と呼ばれる、現在の科学において未知の存在・現象とされるものに関わる事件を対象に捜査するのが、我々……機密特殊科学捜査課という訳だ」

「つまり、幽霊とか宇宙人とか?」

「まあ、多少意味合いや理解に差はあるかも知れないが、基本的にそう思ってくれて構わない」と、ここで芹沢が一息ついた。

「それで、君についてはどこまで話たかな?」

「キノコを食べたところです」と岬だ。

「そうだ、そうだ。ここから奇想天外な話になるから、覚悟して聞いてくれ」

 すでに十分、奇想天外なのだが。

「君が食べた、あのキノコ。あれは休眠状態に入った『夢幻亜人イリュージョノイド』なる生物だ」

「Illusionoido《イリュージョノイド》?」

「最近発見された知的生物だ。彼らの生態は極めて特殊で、人間でいう死の状態になると、休眠しキノコの形態になる。そして再生するまで力を蓄えるのだ」

 オレは自分が食べたキノコを思い出す。

「あの変なキノコが、その夢幻亜人イリュージョノイドとかいうヤツなんですか?」

「そうだ。岬くん。例の映像を」

 岬と芹沢が振り返るのに釣られて、オレも彼女らの後ろにあったモニターを見た。岬がリモコンを操作すると、モニターに映ったのはピンク色の笠に、赤・青・黄色の斑点、そして緑色の輪郭をした、あのキノコ。間違いない。オレが食べた変なキノコだ。

「これは……」とオレは尋ねた。

「これがお前が食べた夢幻亜人イリュージョノイドの休眠の姿。早い話が連中の脳味噌だ」

 一文字の言葉に思わず吐きそうになる。

「ベニクラゲというクラゲは、有名だから名前くらいは知ってるだろ? クラゲは幼生期にポリプという植物のような形態になり、そこから一般的に認識されるクラゲの姿になる。だが、ベニクラゲは成長した段階からポリプの状態に戻ることが出来る。早い話が、蝶々ちょうちょさなぎの状態に戻るようなものだと思ってくれればいい。ポリプからクラゲに、またポリプにと繰り返して不死同然の生態を獲得したわけだ」

「ああ。なにかで聞いたことがある。キノコも、その蛹なんですか?」

 芹沢に尋ねたのだが、一文字が答える。

「そうだ。夢幻亜人イリュージョノイドの生態が分からないから、キノコが緊急事態を乗り越えるための形態に過ぎないのか、成長過程の一形態なのかは不明だが、奴らは瀕死になるとキノコの形態となり、恐らくだが元に形態に戻る」

「恐らく?」

「キノコから元の状態に戻った夢幻亜人イリュージョノイドは、まだ確認されていないんです」

 岬だ。続けて言う。

「ですが、我々はすでに二体の夢幻亜人イリュージョノイドを駆除し、そのキノコのサンプルを使って研究した結果、元の人間に近い形態に戻ることが科学的に推測できたのです」

「人間に近い姿……」

 今度は芹沢が言う。

「まあ、ベニクラゲはポリプからクラゲの姿になるときに、無性生殖で大量に個体が発生するが、幸いなことに夢幻亜人イリュージョノイドではその可能性はない」

「あの、私が食べたキノコが奴らの脳味噌だというのは?」

 岬が答える。

「キノコを構成する細胞の構造や反応が、人間の脳と近く、恐らくは脳と同様の働きとしているものと推測できます」

「ということは、意識は?」

「恐らくあるだろう」

芹沢だ。

「研究の過程で、キノコの状態の夢幻亜人イリュージョノイドは別個体、特に人間との融合が示唆されていたが、細胞の構成素材などから拒絶反応の危険性があった。なので、仮に夢幻亜人イリュージョノイドと別個体が融合したとき、どのような反応や現象が発生するのか調べようとした矢先、君が夢幻亜人イリュージョノイドを食べて、しかも融合を果たしてしまったのだ」

「そうだ。お前が夢幻亜人イリュージョノイドの脳味噌を喰ったから、そいつと一体化したわけだ」

 一文字が結んだ。オレは顔をゆがませて、奴から目を背けた。

「確かに脳味噌を食べるなんて、狂気的で異常だが気にするな。こんな猟奇的なことは特にフランス料理だが、欧米では牛や豚の脳みそを美味うまい美味い言いながら喰うらしいぞ。中国でも喰うらしいし」

「もうめてくれ」

 オレは思わず呟いた。

「おっと、失礼」

 一文字が悪びれる様子もなく、そうかしやがった。芹沢が咳払いをする。

「ここで問題が発生するわけだが、酒井佳春くん。君には二つの選択肢がある」などと突然言われた。

「え?」

「あなたが夢幻亜人イリュージョノイドと融合したため、我々公安の駆除対象となりました」

 岬が淡々と言うが、オレは驚いた。

「当然だろう。お前は夢幻亜人イリュージョノイド、化け物なんだから」と一文字だ。

「だからって!」

「無事に治療して逃がすだけなら、わざわざ親切丁寧に説明する訳がないだろう」

「まあ、待て」

 芹沢だ。彼は再び咳払いをする。

「酒井くん。君の選択肢なんだが、一つは『夢幻亜人イリュージョノイドとして研究対象となるのと同時に、ほかの夢幻亜人イリュージョノイドの駆除に協力すること』と、『今この場で駆除されること』の二つだ。当然ながら後者は勧めないが、選んだ際は安楽死させるつもりだ」

 安楽死。心地いい言葉だった。オレの心は死に傾いた。

 芹沢が言う。

「先の説明でも分かる通り、今は夢幻亜人イリュージョノイドと融合した個体がどうなるのか不明だし、当然ながら分離……君と夢幻亜人イリュージョノイドの融合を解く手段も不明だ。ゆえに我々の管理下に入らなければ、のちの憂いを絶つためにも君を駆除しなければならない。なぜなら食べられた夢幻亜人イリュージョノイドが君の体内で復活し、しかも君の体を乗ッ取るなんて可能性も否定できないからな。だが、君の駆除……つまり君を殺すことは我々の本意ではない。融合した君にもまだ望みはある。それに夢幻亜人イリュージョノイドの特殊な生態を駆使すれば、君の家族を生き返らせることが出来るかも知れない」

 オレは目を丸くした。続きは岬が話す。

「現在では虫などの下等生物に限られますが、夢幻亜人イリュージョノイドの細胞を利用することで、死体の一部から生命個体を復元することが可能なのです」

「つまり生き返るということだ」と一文字。

「でも、妻と子はすでに火葬されてしまっています」

 オレは芹沢に言ったが、一文字が話を続ける。

「無論、まだ研究の過程であり、人間のように複雑な臓器や高度な知能を持った生き物にも応用が可能かどうかは不明であり、あくまでの可能性の話だ。だが、現に下等生物では、まあ原理こそ不明だが、体の一部から記憶の復元にも成功している。それにお前の家族がすでに火葬されているといっても、骨自体も体の一部にすぎない。よって復元……つまり、お前の家族の蘇生は『可能だと思われる』、というのが我々の現在の見解だ」

 話を聞いているうちに、オレの中にあった死への欲求が綺麗に消えていった。

「もちろん、我々としてもお前という恰好な研究材料を見つけたんだ。夢幻亜人イリュージョノイドとの融合による現象や、融合分離についても研究し、特に分離の技術さえ確立できれば、お前を元の状態に戻してやる。お前が我々公安に協力する代わりに、我々はお前もお前の家族も助けてやる。いい話だろ? さあ、どうする?」

 一文字の言葉で、オレは覚悟を決める。

 再度、芹沢が訊いてくる。

「では、酒井くん。我々に協力してくれないだろうか。そうすれば、我々は君も、君の家族も救い出せるかも知れないのだ」

 妻と子が、千春と佳秋が生き返るかも知れない。その望みがあるだけで、オレはなにも悩むことはなかった。

「はい! 宜しくお願いします!」とオレは頭を下げた。

 芹沢博士と岬の顔はほころんだが、一文字は無機質だった。

 すぐに芹沢博士が言う。

「では、早速だが、君は我々公安の機密特殊科学捜査課の臨時職員となってもらう訳だが、それに際して君には酒井佳春という名前を捨ててもらう」

「え?」

「安心しろ。お前と夢幻亜人イリュージョノイドとの分離に成功し、お前の妻子の蘇生が成功すれば元に戻してやる」と一文字が言った。

 また芹沢博士が言う。

「それでは酒井くん。我々が君に用意した名前だが、これから君の名は『早田はやたたけし』だ」

 早田猛。その名前を貰ったオレは、妻と息子を生き返らせるため、夢幻亜人イリュージョノイドなる意味不明の化け物と戦うことになるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る