蒼光

天神大河

蒼光

 用意。


 先生の合図を聞いて、ぼくと隣に並ぶ同級生たちは、ほとんど同時に足元へ両手の先を向けた。そして、全員が自分たちの前に広がるプールへと目を向ける。

 このプールは今日も、穏やかな細波を立てていた。まるで、今現在自分たちが受けている体育の授業のことなど、何ひとつ気にも留めていないかのようだ。それを目にしたぼくは、少しでも荒々しい波を立ててしまったが最後、プールの機嫌を損ねた挙句、水の底へと引き込まれてしまいそうな感覚になる。自分でも奇妙なものだとは思うが、間もなく自分の手によってこの静謐が打ち破られてしまうことには少なからず罪悪感を覚えた。


 やがて、先生が笛を短く鳴らす。それと同時に、ぼくたちのつま先は飛び込み台を蹴って、頭から水の中へと沈む。あちこちから、派手とも乾いているともつかない音がぼくの耳に流れてきたかと思うと、程なく水の中へと吸い込まれていった。


 大量の小さな水泡が、ぼくの眼前をすばやく通り過ぎる。やがて、ぼくの視界一面が淡い水色に輝いた。元から水色に塗られていたプールの床に、真夏の太陽の光が水に溶け込む光景は、さながらテレビで川や海の中を映し出すかのようだ。

 ぼくは、このプールの水中が好きだ。同じ水なのに、入るごとにまったく違う顔を見せてくれる。加えて、それはどれも独創的で美しい。

 ずっと見ていても飽きないぐらいだが、今は二十五メートル先のゴールを目指さないといけない。ぼくは、少しだけ寂しさを感じ取りながら、水色の中に浮かぶ一筋の赤いラインに沿って、自分の身体を動かしていく。


 足をばたばたと小さく動かして、両手を交互にかいていく自由形で泳ぎながら、ぼくは時折味わうことのできる酸素を短く、思い切り吸い込む。そうして、水中でゆっくりと空気を吐き出しながら、また泳ぎ出す。

 それは、一見簡単なように感じられて、案外難しい。なぜなら、目に見えない水圧に抗って進む分、体力の消耗も激しいからだ。だから、泳いでいると無意識に地上の空気ばかりを追い求めてしまうようになる。


 これだから、ぼくは泳ぎが苦手なんだろうな。そう思いながら、ぼくはちらとプールの底を見た。プールの中間地点、一番深いところにある黒ずんだ排水溝が目に入る。その周囲は、小さな枯れ葉の欠片やアメンボなどが集まる、ちょっとした混沌になっていた。

 ただ、そんな魅力に溢れた溝に好奇心を向ける余裕はもはやなく、ぼくの顔は酸素を求めて早々に地上へと向いていく。正直、潜ってから息をするまでの数秒間がきつくなってきた。水温は冷たさと温かさのバランスが取れて、感覚的にはむしろ心地よかったけれど、両手足でかき続けて前進するのには、やっぱり苦労する。


 残り五メートル。それを告げるのは、水中に横一文字に引かれた朱色のラインだ。ぼくは、そのラインを見てようやく安堵する。ゴールはもう近い。心の中で自分にそう言い聞かせていると、プールの中に入ってきていた太陽の光が乱反射し、水があたかも星のように煌めいた。

 プールの水が、南海の浅瀬のごとき美しい蒼光を放つ。それはまるで、二十五メートルを泳ぎきろうとしているぼくを祝福しているかのようにも見えた。


 対岸まで着いたぼくは、すぐにプールサイドに上がって、全身で息をした。地上の空気を、目いっぱい吸い込む。七月の暖かく乾いた空気が、ぼくの肺を潤していく。ゆっくりと吐き出しながら、ぼくはさっきまで泳いでいたプールに目を向けた。

 ぼくは、一緒に泳いでいた同級生たちの中では最下位だった。彼らは最初に飛び込みを行った場所まで既に移動し、ぼくの後ろに控えていたクラスメイトが、早くもゴールへと手を伸ばそうとしている。

 それでも、プールは何事もなかったかのように、穏やかな細波だけを浮かべていた。




蒼光/完

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒼光 天神大河 @tenjin_taiga

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ