第15話 秘密

 セナが扉からひょこりと顔を出す。タオルで拭いただけであろう湿った黒髪や、少し赤くなった肌から湯気を立ち昇らせていた。

「いや……、別に何でもないさ。考え事をしてただけだ」

 知られたくない、知ってほしくない。この手で彼女を汚したくない、濁りのない純粋なままでいてほしい。

「辛そうな顔してるけど?」

「問題ない、疲れただけだ」

「そんなこと言って~、えいっ!」

 適当にはぐらかしていたクロウに腹が立ったのか、セナは扉から飛び出し、クロウの脇下に手を入れて持ち上げた。真正面から同じ目線で見つめあう形だ。

「おい、ちょっとやめろって! てゆーか、お前なんて格好してやがる!」

 シャワー上がりの、文字通り一糸纏わぬ姿。

「『問題ない』でしょ? クロウだって裸みたいなものだし」

「まあ、そうだが……」

 猫が人間の裸を見たところで何かがある、というわけではないが、クロウが今まで積み重ねてきた社会的な経験や観念が拒否反応を起こすと同時に、多少なりとも興味を発生させる。

 しなやかな細身の肢体、想像していたよりは幾分か女っぽく曲線的で、セナの活発なイメージからは少し外れていた。

「じろじろ見ないで、私の目を見て!」

「み……見てねえよ、バカ!」

「そんなことより、言いたいことがあるなら言って」

「何でもないって、いいから服を着ろ」

 クロウがそう吐き捨てるように言ってもセナは聞かず、真っ直ぐとクロウの瞳を見つめる。

「……クロウが自分の仕事のことで悩んでるのは知ってる」

「なんでそれをっ!?」

 セナには話していないはずだ。と、口に出してしまってから失敗に気付いた時にはもう遅い。

「やっぱり……ま、フレッドから聞いただけなんだけどね。クロウは自分で思っているよりもずっと分かりやすいし、アイツはかなり鋭い、それも、気持ち悪いほどにね」

 大方、クロウの眠っている間にでも話したのだろう。しかし、あの会話の中でそこまで読まれていたとは。

 そんなクロウの驚愕とも感嘆とも付かない表情を読み取ったのか、セナが続けた。

「言ったでしょ、分かりやすいって。あなたが私に求めているものだって簡単に分かる。お願いだから、私に純粋さなんてものを期待しないで」

 初めて聞くセナの声の調子に戸惑う。冷たく落ち着いた、俗な表現なら大人っぽいとでも言うのだろうか。

 セナは一瞬微笑むと、クロウをゆっくり床に降ろした。そして、裸のままクローゼットの方に歩いていく。クロウはその場に力なく座り込んだ。

「俺は……そんなに分かりやすいか?」

 寝間着に着替え始めたセナの背中に向かって問いかける。

「孤独な人ほど分かりやすい。自分を偽る必要がないから」

 年端もいかない少女にこう言われるなんて、随分と滑稽な話だ。いや、彼女の方がずっと大人だった、それだけの話だった。

 着替えを終えたセナが、しょんぼりと座り込んでいるクロウに呼び掛ける。

「さ! 明日は早いし、さっさと準備して寝ましょ」

「あ……ああ」

 先ほどまでの冷静さから、打って変わって底なしの明るさへと豹変したセナの様子に、いまいち対応しきれなかった。

 遠足前日の子供のような笑顔を浮かべて、武骨なバックパックに色々と詰め込んでいるセナを黙って観察する。

 ここまでころころと人格を変えるような芸当は、とてもじゃないが真似できない。

「俺はすっかり騙されたよ。あんたのこと、全然分かってなかった」

 セナは一瞬手を止め、クロウのことは見ずに返事をした。

「当然よ、最初はそのつもりだったもの」

「なぜ心変わりを?」

「あなたが嘘をついたから」

「嘘……?」

 クロウに心当たりはなく困惑する。

「クロウが悪い人じゃないのは分かる、人っていうか猫だけど。でも、見返りなしでルーカスさんの頼みを聞くほどの聖人ではない、違う?」

「……」

 クロウは言葉に詰まる。自分でほじくり返したばかりの傷に、塩を擦り込まれるかのようだ。

「でも、それで安心した。クロウはこんなに弱いんだ、って」

 散々な評価だな、そう見られていたとは気付かなかった。

「だから、俺にも自分のことをさらけ出そうと?」

 セナは小さく頷く。

 一人で弱い自分を隠し続けることに疲れたんだろう。そこにクロウが降ってきたのだ。

 自分で言うのもなんだが、弱くて、不器用で、小心者で、孤独な存在だ。だからセナは親近感を覚えた。

「あ、ルーカスさん達には絶対に言わないでね。あの人達が私に求めてるイメージってものがあるんだから」

「ああ、了解だ」

「こういうのは、私達二人だけの秘密、ね?」

「……そうだな」

 どっと疲れが押し寄せてきた。主に精神的な面で。クロウはぐてりとその場に横たわる。

「人間っていうのは複雑だな、話していて疲れる。俺には向いてなさそうだ」

 セナの本当の姿すら見抜けず、ここまで振り回されたんだ。老獪な大人ども相手なら況んや、といったところか。

「毎回相手の本心を探ろうとする必要なんてない。知らない方がいいこともある」

「良く分かったよ」

 セナはこちらを振り向いて「ええ」と小さく笑う。表情だけは純粋な少女のそれだが、声はいやに落ち着いている。

 純粋な少女とそれに手を差し伸べるヒーロー、そんな構図ならクロウは気持ちよくいられた。それをセナは許さなかった。いや、どうだろう。現実逃避とも言えるクロウの行動を、クロウ自身が許せなくなることに勘付いて救いの手を伸ばしたのか、それともその両方か……。

 なるほど、これについて深く考えるのはよしておこう。

 クロウが睡魔と戦い半目開きになっている間、セナはてきぱきと動き回っていた。色々と達観しているように見えるセナも、外に行くことだけは本気で楽しみにしているのだろうか。

 若干意識が飛びかけた時に、セナがそっと頭を撫でてきたのに気付く。重い瞼を何とか持ち上げた。

「どうかしたのか?」

「うん、もう寝ようと思うんだけど、どうする?」

「どうするって、いったい何を?」

「一緒のベッドで寝ない?」

 子供じみたお願いと、先刻修正したセナのイメージがリンクしない。どこまで本気なのか、彼女の顔をにらみつけるように観察してみたが、答えは得られなかった。

「俺はその段ボールで寝る」

「え~、でも、結構真夜中は冷えるわよ」

「大丈夫だ、問題ない」

 多少の問答は続いたが、最終的にセナが折れた。つまらなさそうに一人でベッドに横になる。

「気が変わったら、いつでも来ていいよ」

「はいはい」

 セナは毛布に包まりながら名残惜しそうにクロウのことを見つめた。クロウはその視線を全身に受け止めながら、体を丸めて段ボールに入る。照明が落とされ、部屋には星明りがか細く差し込むのみとなった。これだけ疲れていればあっという間に眠れるはずだ。

 人生でも指折りの長い一日が終わった。

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