短編まとめ

花踏 芽々

この世界に二人だけ

 私は彼女が好きでした。何よりも、誰よりも、私は彼女が好きでした。彼女のような、まるで遥か天上から舞い降りた天女のような人物を、私はこれまで見たことがありませんでしたので、彼女との出会いは、私にとって衝撃以外の何物でもありませんでした。今までの私の人生を、根底から全てひっくり返されたような、ある意味では恐ろしく、また、ある意味では神々しくありましたので、私はすっかり、彼女に魅了されてしまいました。きっと彼女は、鬼すらも虜にしてしまうに違いないでしょう。それほどまでに彼女は、筆舌に尽くしがたいほどに、秀麗で蠱惑的でした。


 黒鳥よりも艶やかなその髪が。憂いを含んだその眼差しが。花弁のようなその唇が。根雪のようなその肌が。太陽のようなその笑顔が。慈母のようなその優しさが。全てが全て、疑う余地もないほどに、完璧で、愛おしくて。


* * * * * 


 都島里枝(つしまりえ)は葛野友美恵(くずのゆみえ)の事が好きでした。それは友情の垣根をとうに越え、恋情にすっかり移り変わっていましたので、里枝当人からすればどうしようもない程にじれったく、まさに身を焦がすような想いでした。里枝と友美恵は高校からの友人ではありましたが、二人の仲の良さは他の生徒に比べても、双方の古くから慕う友人と比べても、群を抜いておりました。まるで十数年来の親友のような二人は、学校は勿論の事、休日さえも会う程でした。そんな、傍から見れば飽き飽きするような日々でしたが、二人は一つまみも飽きずに、その日常を満喫しておりました。

 高校の卒業が近づくにつれ、里枝は余りの悲しさに振り回されるようになりました。簡単に説明するとするならば、それは情緒不安定という物の他にありません。乙女の細やかな矜持からでしょうか、暴れ回ることは終にありませんでしたが、里枝はしくしくと人目を忍んでは泣くようになりました。

 これは非常に残念で残酷で、しかし一方では当然の事でもありますが、里枝と友美恵は将来歩む道が違っていたのです。それを知った時の里枝の悲しみようは名状し難いものでした。悲哀の表情を浮かべる里枝とは違い、友美恵は朗らかな表情を浮かべておりましたので、その自分とは対照的な雰囲気の友美恵を見た瞬間に、里枝は怒りにも似た物寂しさを感じました。孤独と言うよりも裏切られたような。憎悪と言うよりも絶望に近いような。その形にし難い思いは、まるで一滴の毒に似ておりました。その毒は、日に日に里枝の内面を蝕み、足音もなく静かに、確実に、侵していきました。もしも心に血が通っているのだとしたら、里枝のそれはどろどろに濁りきり、淀みきり、腐臭すら漂っていた事でしょう。そんな汚物のような心を内包しながら、里枝は毎日を、時折涙を流しながら過ごしておりました。

 そしてとうとう里枝は、その複雑なる、中毒を拗らせたような心中を友美恵に打ち明けることなく、その日を迎えることになるのです。



 それは、いつものように友美恵と会った帰り道の事でした。里枝は何気なく、普段とは違う道を通ってみようと思い立ちました。それは本当に偶然で、理由なんてないほどに何気ない事でした。家路へと続く一番の近道を外れるように、歩く道を一本変えては二本変え、家とは違う方向に曲がり、気の向くままに歩いておりました。里枝は生まれた時からこの町内で育ってきましたので、迷うなどと言う不安は欠片も持ち合わせていませんでした。わざと道を違えて、辿り着いたこの少し狭い公園も、それを囲うようにして建ち並ぶ住宅も、里枝にとっては見知った風景でした。ですが、一つだけ。ただの一つだけ、見知らぬものがありました。住宅の並びの中に、朽ちた廃墟が一軒、混じっていたのです。廃墟に立ち入ることが危険だとは重々分かってはいましたが、先程まで友美恵に会っていたからか、気持ちが高揚し、冷静さが少しばかり消えていたせいで、その好奇心を抑えることが出来ませんでした。そうして里枝は、その廃墟に足を踏み入れました。

 

 廃墟には扉がありませんでしたので、容易に中に入ることが出来ました。中に入り様子を伺いますと、窓硝子は割れ、畳は朽ち果て、虫が羽音を響かせ飛んでおりました。不気味ではありましたが、恐怖心は左程ありませんでした。ですが、入ってすぐの、石張りの土間から先に進むことは流石に出来ませんでした。きっと床が腐っている、と里枝はほんの少し冷静さを取り戻し、その場に立ったまま上を見ました。その廃墟には天井がありませんでした。いつ崩れてもおかしくない、と感じた里枝は、立ち去ろうかと考え、視線を下へと下ろした際にそれを見つけてしまいました。それは、以前この住宅に住んでいた人の持ち物だったのでしょう。里枝の視線の先には風呂桶よりも大きな水槽がありました。どう考えても土間には不釣り合いな大きな水槽が、広くはないこの空間を占めるように捨てられておりました。引っ越しの際に持ち出すことを諦めたのでしょうか。それとも処分に困ってわざと捨て置いたのでしょうか。どちらにせよ、里枝には理由を知る術はありませんでした。

 里枝はその水槽にそろそろと近づき、観察してみました。側面に少し罅が入ってはいましたが、内側まで裂けていると言う風ではなく、水を入れたとしても漏れることはないように見えました。これはまだ水槽として生きているのだと、里枝はまた何気なく感じました。

 そうしてその、まだ大きな水槽が生きていると感じた瞬間に、里枝は天命を受けたかのような感覚に襲われました。勿論、今まで天命などという物を受ける機会がありませんでしたので、あくまで妄想上の感覚、という物ではありましたが、そのような説明は彼女にとっては何ら意味を持ち得ないでしょう。兎に角彼女は、里枝は、その時天命を受けてしまったのです。

 それから卒業までの数日間、里枝はその廃墟に通いました。毎日毎日、白い百合の花を両手いっぱいに買い込んで。




 春の陽気を微かばかり感じとれる三月の某日。その日は、卒業式の次の日でした。薄曇りの宵の中、ぼやけたような光を注ぐ月を背負うようにして、里枝は公園で友美恵を待っていました。前日の大雨のせいで、手入れの行き通っていない道路の至る所に水たまりが出来ていました。その水たまりを避けながら、友美恵は手を振り、里枝の方へ近づいて行きました。


「こんな夜に呼び出すんだもの。お母さんを説得するのに時間が掛かっちゃった」

「あのね、友美恵に見せたいものがあって…。どうして今夜じゃなくちゃ駄目だったんだ。ごめんね」

「ううん。もうすぐ里枝とは会えなくなっちゃうんだもの。気にしないで」


 友美恵の言葉を聞いて、里枝は最後の覚悟を決めることになりました。この時、友美恵が別の言葉を里枝にかけていたのだとしたら、あのような事にはならなかったのかもしれません。

 しかし残念なことに、里枝は友美恵と一緒に例の廃墟へと向ってしまいました。


 物事は予想以上に、里枝の算段通りに進みました。それは思いのほか簡単に、するすると流れる河川のように、一切滞ることなく、極自然に、里枝は友美恵を殺害することが出来てしまいました。余りに滑らかに事が運ぶものですから、まるで二人が産まれる前から、この状況が訪れる事が決まっていたと錯覚するようでした。

 土間に敷いた、毛布の上に倒れる友美恵を、里枝は呆然と眺めていました。呆気なかったのです。命を奪うと言う行為が、あまりにも軽く感じられてしまい、里枝は少しだけ、その手に握った鉈を、血に染まった鉈を、じいっと見つめました。

 冷ややかな土間の空気と、湿っぽい土の臭いの中に香る温かい鉄の匂い。自宅から持ち込んだ毛布に、じわじわと吸い込まれていく友美恵の血は、闇夜のせいで墨汁のように黒々として見えます。地面に乱暴に広がった髪は、まるで黒い炎のようでありましたので、その髪色と血色の黒さ、友美恵の肌とブラウスの白さが対照的で、それはそれは、色味の鮮やかさはないものの、目が眩むほどによく映えておりました。


 死んで尚美しい友美恵の体を、里枝は無心で眺めておりました。何分特が経ったのでしょう。何時間時が過ぎたのでしょう。それすら分からないほどに、時間を忘れ、里枝は友美恵を眺めていたのです。

 暫くして里枝は、友美恵の、肌理細かく生気のない青白い肌に触れ、彼女が確かに死んだことを確認しました。まるで月の光のように滑やかで、温度がないその華奢な手を、豆腐でも掬うように里枝はそっと持ち上げます。ほろりと崩れ落ちてしまいそうな肢体から、黒く酸化した血を丁寧に丁寧に拭き取れば、肌の透明度が幾層倍にも高くなりました。すっかり汚れをふき取ったころには、それはまるで白磁器のように見えました。余りの美しさに里枝は感嘆の息を漏らすしかありません。


 前日に降った大雨のせいで、水槽の中には雨水が溜まっておりました。数日を費やして、水槽一杯に敷き入れた百合の花は、すっかり雨水に濡れておりました。百合と百合との隙間を埋めるように、水が注がれていましたので、それはまるで大きな氷細工のようにも見えました。水面に無数の百合が浮かび上がっている様は、とても綺麗でした。百合が浮かんだ水槽。幾重にも百合が敷き詰められた水槽。その、白百合が犇めく水槽に友美恵をゆっくりと沈めます。友美恵の死体は重くはありましたが、そんなことは里枝にとって、些細なものでしかありませんでした。


 そうしてやっと全ての準備が整うと、里枝は水槽の縁に腰掛け、一抱えある黒い石を抱きながら、予め用意していた薬品を一息に飲み干しました。瞬く間に喉が焼け爛れていく感覚が里枝を襲います。噎せれば噎せるほどに喉が潰れていきました。息をする事すら満足に出来ない痛みに、里枝は涙を流しました。それは決して死にたくないなどと言う戯言から零れた涙ではありません。ただの、何の感情を持たない、生理的な涙でした。里枝の心の内を代弁するとするのならば、その涙は嬉し涙と形容しても殊更問題ないでしょう。里枝は死へと繋がるこの苦痛を、大いに喜んでおりました。愛しい愛しい友美恵は里枝の手にかけられ、もう現実にはおりませんでしたので、肉体から離れたその魂が、幻想世界に揺蕩う姿を思い描き、また、そんな魂となった彼女が、現在属しているであろう夢幻の空間に自分自身が溶けゆく現状を、ただただ、嬉しがっていたのです。

 

 ぐらり。倒れ込むように水槽の中へ落ちた里枝の横顔は悲しいほどに儚く、友美恵のように美しいものでした。割れた窓から差し込む真新しい陽光が、つうーと水面を泳いでは、次から次に水底へと落ちて行きます。きらきらと。きらきらと。朦朧とする意識の中でその光を感じながら、里枝は瞼を閉じました。


 この透き通る、初心で小さな世界には、貴女と私、二人だけ。


 里枝は心の中でそっと呟くと、吸い込んだ最後の息をがぼりと吐き出し、静かに静かに、僅か十八年の短い生を閉じたのです。

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