この花を貴方に


 今日こそは彼に花を渡そう。彼女は目が覚めるなりそう決めました。


 カーテン越し差し込む、柔らかくて新しい朝日を浴びながら、彼女はベッドから跳ねるように脱出しました。栗色のふわふわとした髪には、寝癖がもしゃりとついていましたが、そんなこと今の彼女には関係ありませんでした。とにかく、いますぐに、あの花を見に行かなければ気が済まなかったのです。

 彼女はまだ寝ている家族を起こさないように、そうっと家の外に出ました。そうして温室の前に立ち、ビニールがぴたりと張られた引き戸に手をかけて、いつものように開けました。戸が土を噛んでいるのか、爽やかな朝には少し似つかわしくない音が聞こえてきましたが、彼女の耳には届いていない様子でした。

 温室の中はしっとりとした空気が満ちていて、外とはまるで違いました。彼女専用の温室の中には、それはそれはたくさんの植物が互いに寄り添うようにみっしりと置かれていますので、温室内は花と緑と土の匂いが充満していました。彼女はその、愛しい大好きな匂いと、湿り気を含んだ空気を肺いっぱいに吸い込みました。

 もうこれ以上入らないぐらいに吸い込み、数秒息を止めた後、大げさに息を吐きました。肺から追い出した空気の中に、いままで彼女自身が抱えていた不安も、躊躇いも、全部全部溶けていったように思えました。彼女は小さく微笑むと、目的の花の前へ向かいます。


 それは、彼にプレゼントしたい一心で世話を続けた花でした。真っ赤なアネモネ。彼女が一から育てた、特別な、特別な、アネモネの花。


 その細い茎に指を這わせると、彼女はもう一度、微笑みました。


***


 私は花です。アネモネです。彼女に丹精込めて育てていただいたアネモネです。アネモネなりに、彼女の事が大好きなのです。


 私と彼女の付き合いは長いのです。出会いは園芸店でした。安っぽい袋に入って、棚に並べられていた私を、彼女は見つけてくれたのです。手に取ってくれたのです。なんと運命的なのでしょうか。私と彼女が巡り合ったのは、きっと、必然なのです。彼女は私の為に、栄養がたくさん混ぜこまれた土を用意してくれたのです。丁寧にお世話をしてくれたのです。水が欲しいときに水を与えてくれたのです。彼女は私にとって、特別な人なのです。だからでしょうか、私の色が赤いのは。

 彼女が教えてくれたのです。赤いアネモネの花言葉。赤い私の花言葉を。教えてくれたのです。『君を愛す』、が私に与えられた言葉だと、彼女は言うのです。もどかしい限りです。誰がこの言葉を、赤いアネモネに授けたのでしょうか。『君を愛す』それはきっと、人間が私たちに託した言葉なのでしょう。私たち花を、文字のないラブレターへと変えるために与えた言葉なのでしょう。

 しかし、私はラブレターになんかなりたくないのです。人と人との間に身を置く、憐れな代弁者になんてなりたくないのです。私は、私が愛するのは、彼女なのです。この言葉は、他の誰でもない、彼女にこそ、伝えたいのです。

 ですが、私には口がないのです。文字を書くことも出来ないのです。私が、こんな思いを抱いていることを、彼女に伝えることは、永遠に出来ないのです。私は咲くことしか出来ません。私が無事に咲くことで、彼女が笑顔になれるのならば、花に産まれてこれ以上幸せなことはないのだと、自分自身に言い聞かせることしか出来ないのです。

 きっと彼女は、いつか私を手折るのでしょう。そして、その足で誰かのもとへ向かうのでしょう。『君を愛す』という言葉を、私に託して。


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