第4章・最終章

01 平和

 ゴーン、ゴーン――と鐘の音が響いた。

 彼らの頭上に広がるシリンドルの空は抜けるように青く、雲ひとつ浮かんでいなかった。

「本当に――」

 上から下まで黒い衣服に身を包んで、少年は唇を噛んだ。

 マントまでもが光る留め具ひとつない無地の黒色であり、前を押さえたらまるで魔術師のように見えるかもしれなかった。

 黒き衣装を不吉と言うのは、魔術師のローブを連想させるためだけではない。それは、死者を弔うときに常用される色であるからだ。

 葬儀のときは、全身を黒い衣装とするか、少なくとも黒いものを身につけるのか通例であった。いつも色鮮やかな神官の記章ですら、濃い灰色から黒のものが使われる。

 この日のシリンドルは、黒一色に染まっているようだった。

「行ってしまうのですか」

 そのシリンドルの外れ、カル・ディアルとの国境を目前にした小川の前で、ハルディール・イアス・シリンドルは哀しげな表情を浮かべた。

「まだ……傷も完全には癒えていないのに」

「あんまり長居すると、出られなくなりそうなんだ」

 いつも通りの胸当てと、着古した衣服、剣帯に細い黒布を申し訳程度に巻いて、戦士タイオスは肩をすくめた。

「すまんな、喪の最中にこんなところまで」

「いえ。僕があなたを見送らなければ、故人に叱られます」

「死人は怒らないだろ」

 淡々と戦士は言った。

「――その通りです」

 少年は面を伏せた。タイオスは手を振る。

「すまん。悪いことを言った。つらいのにな」

「何度も謝らないでください」

 ハルディールは笑みを浮かべた。

「あなたの言葉は正しい。僕は、いつまでも哀しみに暮れている訳にはいかないのですから」

 王子は気丈に顔を上げ、タイオスはその頭を撫でた。

「でも本当に、もう行ってしまうのですか」

 繰り返された内容と心細そうな声に、ヴォース・タイオスは苦笑した。

「何だ何だ、情けない声だな、しっかりしろ、王様だろ」

「まだです」

 ハルディールは首を振った。

「あなたには、僕の即位まで見届けてほしかった」

「なら、さっさと即位しちまえばよかったのさ」

 戦士は肩をすくめた。

「成人前は王になれないってのは、父王が存命であることが大前提だろう。ガキに王位を譲って楽すんなって訳だ。反対派がいるなら別だが、偏屈な酔っ払い以外、みんなお前に早く王様になってほしがってんだぞ。特例としちまえばいいのに」

「そのことはアンエスカとも相談しましたが、僕がすっきりしないんです」

 真面目な顔で、少年王子は主張した。

「まあ、いまや敵対する勢力もなし、王じゃなくてもやってることは同じ、カル・ディアルはもとよりアル・フェイルもそれを隙と見て何かしてくる訳でもなし、お前の好きにしていいんだろうが」

 王のいない王国。不穏な情勢下であればそれは大いなる隙だが、いまは戦乱の世でもない。仮にそうだとしても、シリンドルを侵略するうまみは南への〈峠〉しかない。アル・フェイル王はヨアフォードの提案に興味を持ってはいたが、是が非でも通行権を欲していた訳でもない。

 あれから半月。

 シリンドルには、かつてのような平和が訪れようとしていた。

 それはかつてのような仮面ではなかったが、かつてよりももろさを抱えていた。

 あまりにも年若い王子。知識はあるが、政治に携わってきた訳ではない摂政。経験ある大臣が支えるとは言え、安定するまでは時間がかかるだろう。

 不在のままの、神殿長。シリンドレンの血筋に候補者はいるものの、その人物はヨアフォードの行為を恥に思って、その座を辞退し続けていた。そうした感性こそ欲するものだとアンエスカが説得を続けていたが、それはまだ功を奏していなかった。

 それから、人数の減った〈シリンディンの騎士〉。

 しかしここは、やがて問題が解決すると思われた。

 騎士になりたいと思う若者が増えたからだ。

 彼らにはまだ試験を行う余裕がなかったが、厳しい審査を通過する者も幾人かいるだろう。試験のために、余所へ修行に出ている若者もいると聞く。過去のように何十人とはいかなくとも、「騎士団」と言えるだけの人数が集まるのは疑い得なかった。

「もう、シリンドルには〈白鷲〉なんていなくても大丈夫だろ」

 彼は大きな手で少年の頭を撫でた。

「おっと、悪かったな、つい、ガキみたいに扱っちまった」

 いまだ王ではないとは言えども、実質的には王陛下同然である。タイオスはひらひらと手を振って、もう片手で謝罪の仕草をした。

「いえ」

 ハルディールは首を振った。

「子供みたいだと思われるかもしれませんが、僕はあなたにこうされると何だか安心します」

「そうか」

 タイオスは笑って、今度はハルディールの肩を軽く叩くようにした。王子も笑った。

「本当に……」

 それから少年は慎重に尋ねた。

「報酬は要らないのですか」

「ああ」

 戦士はうなずいた。

「伝説の〈白鷲〉が報酬なんか要求したらおかしいだろう」

「ですが、約束はそうと判る前に結びました。第一、あなたが要求したのではない。僕から」

「ハル」

 彼は厳しく、王子を呼んだ。

「金を払うなら、俺を〈白鷲〉じゃないことにしろ。〈白鷲〉なら、金は受け取らない。ふたつにひとつだ」

 タイオスがそう言えば、ハルディールは前者を主張できなかった。

「あんまり深く考えるな。帰りの旅費相当くらいはアンエスカから経費として奪い取ったし、あとはこれがある」

 戦士は自身の剣と胸当てを示した。

「ヨアティアの金だったが、騎士団長様に言わせりゃシリンドルの金だ。いいもん、買わせてもらったよ。現物支給ってやつだな」

 「アンエスカ殺害の報酬」も、戦士は全てシリンドルに返した。装備に化けた分だけもらっておくという話は、アンエスカとの間でついていた。そこまで返せとは、さすがのアンエスカも言わなかった。

 そう、彼は戦士として適切だと考えるだけの報酬も、受け取らないことにした。ハルディールは三百枚の約束にこだわると言うより、そのことに困惑していた。

「でも、そんなことでいいのか」

「しつこい」

 いいんだよとタイオスは手を振った。

「俺ぁな」

 彼は鼻の頭をかいた。

「滞在中、けっこういい気分だった。町を歩けば誰もが俺ににこにこして、〈白鷲〉タイオス様、ってな。ちょっとくすぐったいところもあったが、若い頃の夢が叶った気分だ」

 シリンドルの民は全て――約一名を除いて――ヨアフォードを退治た彼を英雄と称え、歓迎した。「卑怯千万にも」背後から襲ったなどという声は、上がるはずもなかった。それを目撃していた人物がそのことを言いふらすなど有り得なかったからだ。

 肩の怪我のことも知られれば、たくさんの見舞いももらったし、看護を申し出る若い娘などもいた。タイオスとしては名誉の負傷と言うより不名誉の負傷という感があったが、民たちはそう取らなかったようで、心から心配された。

 いい気分でいられたのだ。

 かと言って、このままシリンドルに「英雄」として暮らす気にはなれなかった。それは、彼の柄ではない。

 これはひとときの夢。そんなふうに思っていた。

「そう言や、この護符なんだが」

 彼は腰に手を当てた。

「本当に、俺が持ってていいのか?」

 今度はタイオスが慎重に尋ねた。

「もちろんです」

 王子は大いにうなずいた。

「もし、もう関わりを持つのはご免だと言うのでさえなければ」

「面倒ごとはご免だがなあ」

 彼は腰に下げたままの袋越しに、菱形の大理石に触れた。

「便宜上、何つうか形式として、俺を〈白鷲〉だってことにしたのはかまわんがね、ハル。本音を言えば、俺ぁいまでも、俺が神様に選ばれたなんてのには懐疑的なんだよ」

「頑固です」

「そうかもしれんなあ」

 頭をかいて、タイオスは息を吐いた。

「だが俺の頭が固いだけじゃない、こいつを持つのは俺より、そうだな、クインダン辺りの方が相応しいんじゃないかと感じるのさ」

「護符は褒章とは違いますよ」

 ハルディールはそう言った。

「クインダンは立派に働いてくれました。でも彼は騎士ですから」

「新たな勲章は要らんってとこか」

「新たな称号なら、ありますし」

「王女巫女の騎士、か」

 タイオスはにやりとした。

 王女が護衛を必要とする際、〈シリンディンの騎士〉がつくのは通例だが、いつしか話は、それにはクインダンが優先されるということに決まっていた。

「ああいうのは、特例と違うのか?」

「過去の文献によると、例はあるんです。僕も、アンエスカも知らなかったんですが」

 ハルディールは肩をすくめた。

「レヴシーが、療養の合間に暇を持て余して、見つけました」

「成程ね」

 あのあと――。

 気の毒なことに、神女のようであった娘は死んだ。彼女の身体は小さく、流した血の量は多すぎた。

 だが、鍛えた身体を持った少年騎士は、一命を取り留めた。

 レヴシーは、彼曰く「理不尽にも」、彼よりも重傷を負ったはずの先輩騎士に絶対安静を命じられ、長いこと王家の館に「監禁されていた」。その間に、いろいろと読みあさったらしい。

「巫女にも、騎士にも、結婚を禁じる決まりはありません。ですが、それを選ぶ者は稀だ。巫女にはそれこそ前例がなく、騎士は……ニーヴィスのように退任します」

 退任をしながら騎士の役割を果たして死んだ男の名を口にすると、ハルディールは哀悼の仕草をした。

「本当は、騎士でありながら妻を持ってもかまわないんですが、いまの団長は厳しいですからね」

「ありゃあ女に夢中になったことがないか、それとも逆にこっぴどく振られた経験があるとかで、部下に妻を持たせたくないんだろう」

 判らないか妬ましいかだ、とタイオスは根拠なくアンエスカを貶めた。終始変わらなかった彼らの関係に、ハルディールは笑う。

「まあ、今生の別れって訳でもない。手が要りそうならいつでも呼べよ。俺もこっちの方の仕事があれば、寄るさ」

「コミンに戻るのですか」

「ああ、やっぱり居心地がいいんだ」

「シリンドルではあなたの第二の故郷にはなれなかったのですね」

 残念そうな少年の言葉に、タイオスは少し黙った。

「ここは」

 数トーアの沈黙をおいてから、タイオスはぐるりと小さな国を見回した。

「居心地が、よすぎるね」

「え?」

「何、またくるさ」

 旅人は荷を背負い直した。

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