02 幸あれ

「もう戻れよ。国中が、お前の両親の死を悼んでるときに、見送りなんかやってる場合じゃないだろう」

「僕が参列すべき儀式はみな済んでいます。あなたをひとりで旅立たせる方が、両親の気に障ると思いますね」

 少年はまた言った。今度は戦士も、死者はそんなことを気にしない、などとは言わなかった。

「じゃ、な」

 彼は踵を返そうとした。

「待ってください。聞いておきたいことがあります」

 だが、ハルディールはまだとめた。

「うん?」

「あの日……〈峠〉の神殿でのことです。タイオス、あなたはルー=フィンに何と言ったのですか」

 あれからルー=フィンは、敬虔な僧侶のような生活をしていた。いや、単に敬虔な僧侶なら、ここシリンドルにはたくさんいる。それに輪をかけてと言うのか、銀髪の若者は黙行でもしているように口をつぐみ、食事は小鳥のように細く、毎日〈峠〉を訪れて、祈りを捧げていた。

 と言っても、ルー=フィンが剣の道を捨て、本当に神官となったのではなかった。

 僧兵団の事情も、変わっていた。

 雇われだった名ばかりの連中にはそのときまでの給金を支払った上で契約を解かれた。シリンドル出身の出戻りのなかには、改めて〈峠〉の神への帰依を誓い、神官となる者もあったが、多くは無事に外された腕輪を捨ててシリンドルを出ていった。

 もともと神官であった本物の僧兵は、しかしそのまま神殿の守りにつくことになった。但し、僧兵団は騎士団の旗下となる。全ての行動は騎士団長の許可を必要とし、その後は報告が義務づけられた。

 言うなればルー=フィンは、僧兵の一員のように時を過ごしていたと言える。どの僧兵よりも神儀を重んじたが、訓練も滞らせることはなかった。

 ただ、ハルディールとふたりで話すことは避け続けていた。

 叛意ありなどとは、ハルディールはもとよりアンエスカですら思っていない。ルー=フィンは実に立派にやっていた。

 まるで復讐も恨み辛みも、聞かされた受け入れ難い話も、不慮の死を迎えた恋人のことも忘れたように。

 だがもちろん、忘れたはずはない。

「大した話はしなかった」

 タイオスはあのときのことを思い返しながら言った。

 あのとき、再び開いた緑色の瞳は、怒りも哀しみも宿していなかった。絶望すら、感じられなかった。何もなかったのだ。

『おい、しっかりしろ、またガキと罵られたいのか』

 タイオスはルー=フィンを貶める目的で子供扱いしたのではなかったが、そのときはそんなふうに言った。

『もう一度言うぞ。ミキーナだ。ヨアフォードが死んでお前も死んだら、その子はどうなるんだ?』

 あのときは、彼らはまだ、娘を襲うことになる怖ろしい運命を知らなかった。愛しい娘の名を聞いたルー=フィンの瞳には、惑いが映った。

『何かを恥だと感じ、シリンドルではおめおめと生きていられない、とでも言うなら、その子を連れて国を出るって手もある』

 突然の提案――駆け落ちの――はあまりにも思いがけなかったか、死者を導く精霊ラファランの手から戻ってきた若者は、ゆっくりとまばたきをした。

『だが、お前たちはきっと、シリンドルが好きでたまらないんだろ。だからこうするといい。お前は――』

「シリンディンの騎士になれよと、言った」

「……ああ」

 少年王子は納得とも、ただの相槌とも、嘆息とも取れる声を発した。

「返事は、しなかったんですね」

「そうだな。黙ってた。だが、角を折られた牡鹿みたいにおとなしくなった」

 タイオスは茶化すように言った。

「ミキーナのことは、気の毒だった」

 彼は追悼の仕草をした。ハルディールも同様にした。

「俺は、それでまた奴が生きる希望を失っちまうんじゃないかと心配したんだが……どうにか、乗り切ったみたいだな」

 ルー=フィンは二度と自害など試みなかった。ヨアティアを追うと言い出すかとも思ったが、それもしなかった。その代わりに若者は、本当の神官のように神殿に籠もりきって、死んだ娘と、もしかしたら父代わりだった男の追悼をも、続けていたのだ。

 あれからタイオスは、ルー=フィンと顔を合わせていなかった。

 彼の方でも訪ねなかったが、向こうも同じだった。

 ただ噂ばかりを聞いた。よいものも、悪いものもあった。

 タイオスはどちらにも与しなかった。あとは――。

「あとは奴が決めることだ。技能は十二分にあるんだから、アンエスカが認めるかどうか、ってことにもなるだろうが」

「先ほど、ルー=フィンがアンエスカに、時間を取ってほしいと話しかけているのを聞きました」

「へえ」

 やる気になったのか違う事情か、どちらにせよ変化がありそうだった。だがタイオスは、見届けなくてもいいだろうと考えた。あとはルー=フィン本人と、そして騎士団の問題だ。

「いい方向に向かうだろうよ」

 タイオスはそう言った。そうあるといい、という望みに過ぎなかったが、心から言った。ハルディールは礼を返した。

「ヨアティアの行方が知れないことだけは、気がかりですが」

 あのとき、タイオスがヨアティアに刺されたあと、神殿は上を下への大騒ぎだった。

 タイオス自身はどうにか意識を保ったが、医者の治療をどうしても必要とした。レヴシーも同様だ。

 アンエスカと、負傷を押してクインダンがすぐさまヨアティアを追ったが、神殿長の息子は、そこにきて有能さを発揮していた。

 神殿にも王家の館のような隠し通路があったと見え、男はそれを駆使して神殿の外へ出ると、ケルクを一体連れて素早くシリンドルの国境を越えていた。

 カル・ディアル側に出たということは判ったが、アル・フェイルも隣接している地域だ。どの方角へ行ったかも判らず、単純に人手も足りず、追っ手を放つことは困難だった。

「もう戻っちゃこないだろう」

 戦士はそう推測した。

「戻ってきたら絞首刑だ、ってことくらいは判ってるんだろうし」

 あのままヨアティアがおとなしく療養し、父親の不忠を誠心誠意――うわべだけでも――謝罪すれば、神殿で細々と生きるくらいは可能だったろう。おそらくハルディールはそれを許し、アンエスカも認めざるを得なかっただろう。

 だが、騎士を刺して、逃亡した。

 レヴシーが助かったのは運に過ぎない。タイオスもだ。それは神の加護であったかもしれないが、助かったのだからかまわないと鷹揚に許すことはできない出来事だった。

「もし、どこかで行き会えば、痛めつけてでもやるさ。もっとも……」

 戦士は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「あの箱入りが、シリンドルを出てひとりでやっていけるとは思わんね。俺がやらなくても、どっかの山イネファが肩代わりしてくれる可能性が高い」

「アンエスカは、ヨアティアを手助けた者がいるのではないかと考えています」

 ハルディールは息を吐いた。

「大きな負傷をした身で、手際がよすぎた……と」

「それは、自分の手際が悪かったことへの言い訳だろ」

 タイオスは鼻を鳴らした。

「逃がしちまったのは自分の失態じゃないと言いたいのさ」

 戦士はそう言ったが、王子もタイオスが本気でアンエスカをけなしているのではないと気づいて、特に反論をしなかった。

「まあ、仮に助力があったんだとしても、ひとりかふたりだろう。ヨアティアに与したと言うよりは、ヨアフォードの死をまだ知らずに、その息子の興を買っておこうとしただけかもしれん。気に病むことじゃない」

「アンエスカもそう言いました」

 ハルディールはうつむいた。

「ですが……」

「何だ?」

「『どうせ、どこかで死ぬ』。それで……いいのだろうか」

 王子は表情を曇らせた。

「おいおい」

 タイオスは苦笑した。

「やっぱりお前は、あれにも『死なないでほしい』と?」

「誰かに死んでほしいとは思いませんよ。ただ、あなたの思うように、神職のごとく考えているのでもありません。そうではなく」

 王子は少し、間を置いた。

「そうではなく、少しだけ、思うのです。神が彼を逃がしたのであれば、それは神の――」

「まあ、待て」

 こほん、とタイオスは咳払いした。

「何でもかんでも神様が決定したと思うんじゃない。助けた奴がいたとしても、それは神様じゃなくて人間だ。或いは、ヨアティアが巧いこと隙を突いただけだ。運はあったということになるかもしれんが、神の加護じゃない」

「どうやってその境界を決めますか?」

 ハルディールは尋ねた。

「強運か、神の守りか。神秘がはっきりと顕現しなければ、僕らにその区別はつかない」

「そうさ、つかないんだ」

 タイオスはうなずいた。

「だから、自分の好きに、自分の都合がいいように考えろ」

 無責任な台詞に、少年は目をしばたたいた。

「お前や俺や、レヴシーもクインダンもクソアンエスカも、今日生きてるのは神の加護ってことにしよう。それでヨアティアは、単なる悪運だ。いや、もう死んでるかもしれんし」

 さらりと戦士は言い、今度は王子が苦笑した。

「自由な考え方をする人だ」

「ご不満かね?」

 タイオスはにやりとした。

「やっぱり護符を返そうか?」

「まさか」

 少年は首を振った。

「あなたの言うことは、判らないこともある。あまりにも思いがけなくて、驚かされたことも多かった」

「俺は普通のことを言ってたつもりだ。いつだってな」

「目を開かされた思いです。シリンドルの外にも世界はあること、僕を連れ出したアンエスカではなく、出会ったあなたが教えてくれた」

「大げさだ」

「でも、そう思うんです」

 真摯にハルディールは言い、タイオスは面映ゆい感じがした。

「さあ、いつまでもお喋りをしてたら日が暮れちまう」

 もう行く、と戦士は言った。やはりハルディールは名残惜しそうだったが、それ以上引き止めることはしなかった。

「タイオス。――〈白鷲〉」

「ああ」

 ここでタイオスは、その呼びかけに否定的な言葉を発しなかった。

「どうか、元気で。〈峠〉の神は必ず、あなたを見守っています」

「せっかくだが、お断りする」

 今度は戦士がそう言えば、王子は戸惑った顔を見せた。それを見て、タイオスは得たりと笑う。

「神様は、俺よりシリンドルとお前さんを見ておくべきだ」

 幸あれ――と、タイオスはハルディールの金髪に口づけた。

「またな」

 それから気軽に、戦士は言った。同じ町に暮らす友人に、またいつもの酒場で明日も会おう、とでも言うように。

「ええ」

 また、と王子も答えた。

 そう、今生の別れという訳でも、ない。

 手を振って、タイオスは歩き出した。ハルディールはただそれを見送った。

 〈シリンディンの白鷲〉はそしてシリンドルを離れ、神秘的な日常の国から、現実的な伝説は去っていった。

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