08 神は騙せない

「強情な方だ」

 イズランは苦笑した。

「ではこのこともお伝えいたしましょう。いまハルディール王子殿下は、ヨアフォード殿と話をすべくこちらに向かっておいでですよ」

「何だと」

 アンエスカは素早くイズランに近寄ると、拘束されたままの腕を伸ばして、黒ローブの襟首を片手で捕まえた。

「どういうことだ!」

「どうもこうも、あなたが捕まっていることくらいはお気づきでしょうから」

「この、蝙蝠カイルンめが」

 彼は憤りを込めて魔術師をそう呼んだ。

「お前の目的は何だ!」

「言っている通りですよ。あれもこれも」

 長身のアンエスカに襟首を持ち上げられた状態のまま、イズランは肩をすくめた。

「なるべく死人の出ないようにしつつ、欲しいものを持っていく。目的はそれです」

「お前と取り引きなど、できん。ハルディール様に万一のことがあれば」

「だからこそ、取り引きをしないとどうしようもないでしょうに。ここで吠えていたいんですか?」

 その指摘にアンエスカは詰まった。

「手を放してください。ヨアフォード殿も、いきなり殿下を手討ちになんて無粋な真似はしませんよ。公開処刑は暴動を起こしかねませんから、こっそり明け方にでも、なんてことになるかもしれませんが、ハルディール殿下が巧く立ち回れば処刑自体が取り消しになることも」

「私がここでお前と、殿下が上で反逆者と取り引きか」

「無難でしょう? 未来永劫とは言えませんが、とりあえずは平穏が訪れますよ」

「有り得ん」

 きっぱりと彼は言った。

「くすぶる火種を飼うことは危険だ」

「お互いにね」

「判っているのではないか」

「ええ、判っていますとも。でも人生、ときには妥協も必要です。殿下はお若いのに判っていらっしゃる。あなたは頑固です」

「騎士を救うために王子が譲歩など、馬鹿らしい。殿下をおとめしなくては。イズラン、すぐに」

「ここから逃げ出しますか? さすがにそこまではお手伝いできませんけれど」

「ええい、態度の判らん奴め」

「それは仕方のないことです。私はヨアフォード殿側ですとか、王子殿下側ですとか、容易に分けられない位置にいるのですから」

「それをして蝙蝠こうもりであると言っているのだ。ヨアフォードを手酷く裏切る男が、同じことを殿下や私に対してやらないとも言えない」

「おや、それはもっともな警戒です」

 困りましたね、などとイズランが嘯いたときである。

 キィ、とかすかに扉の音がした。

「まずい」

 イズランは舌打ちした。

「ヨアフォード殿だ。さすがに、この光景を見られる訳には」

 魔術師は手を振った。アンエスカの指は、彼の意志に関わりなく、イズランから離れる。

「すみません、鍵と足枷も元通りにしておきます。またきますので」

 小声で素早く宣言すると、イズランは宣言通りのことをして――余計な真似を、とアンエスカは思った――ぱっと姿を消してしまった。

 それからおよそ十トーアと経たぬ間だった。魔術師が魔術で見て取った通り、神殿長がやってきた。

「何の用だ」

 アンエスカはじろじろと相手を見た。

「拷問の準備でも整ったか」

「ハルディールがどうしているか、聞きたくはないか?」

 ヨアフォードはそう返した。

「賢く立ち回ったと言おうか、正面からの戦いを避け、逃げている」

 その説明に、アンエスカは沈黙で答えた。

 イズランの言葉が真実であるものかどうか、彼には判らない。仮に真実であるとすれば、魔術師は王子の動向を掴んでいながら、それを神殿長に告げていないということになる。

「どうした。私がハルディールを認めれば奇妙か?」

 その沈黙を違う形で解釈して、ヨアフォードは尋ねた。

「生憎と私は公正なんだ、アンエスカ。父親への嫌悪をその息子に向けはしない」

「嫌悪」

 アンエスカは顔をしかめた。

「白状したな。お前はラウディール様を好かなかったのだ。お前を動かしたのは神の啓示などではない、個人的な好悪だ」

「私が一度でも、ラウディールを好いていたと言ったか?」

 ヨアフォードは笑った。

「無論、嫌っていたとも。神をないがしろにする王に媚びへつらう神殿長などいるはずがない」

「本当のところを言え、ヨアフォード」

 厳しい声で騎士は命じた。

「どこまでが、本心だ」

「何を尋ねたいのは判らんな」

「私は……知っている。お前とてシリンドルの民、代々シリンドルを守ってきたシリンドレン一族だ。イズランのような余所者がお前を似非神官のごとく考えるのとは異なり、お前は本当に、〈峠〉の神への信仰心を持つ」

「無論。余所者には狂信的と取られかねない故、似非神官のふりをする場合もあるが」

 少し笑ってヨアフォードは答えた。

「お前は決して、悪い神殿長ではなかった。僧兵団などを組織しても、それを私が警告しても、ラウディール様が取り合われなかったのはそのためだ」

「上手に騙した、とは言わないのか?」

「たとえラウディール様や私は騙せても、神は騙せない」

「成程」

 騙せないなとヨアフォードも言った。

「だからこそだ。私は判定しきれていない、ヨアフォード。私は、お前の行動を私利私欲のためと糾弾したが」

 アンエスカは格子越しに、じっとヨアフォードを見た。

「お前は本当に、ラウディール様を殺すことでシリンドルがよくなると思っていたのか、それとも――」

「思っている。いまでも。私は国王の座や権力を欲するのではない。ただ、シリンドルのために」

 シリンドルのために。

 それは、シリンドル王子が、シリンディンの騎士が、シリンドルの民が、心から口にする台詞と同じであった。

「……シリンドルのために」

 まるで唱和するようにアンエスカは繰り返した。

「ヨアフォード。お前は」

「お喋りはまたにしよう、シャーリス」

 前髪をかき上げて、ヨアフォードは言った。

「お前も、をつけたかろう」

「それはお前の死を以て成されることだな。自決の覚悟でも決まったのか」

「面白いことを言う」

 言葉の通りに、男は少し笑った。

「私は自死などしない。する理由がない。お前にないのと同じだ」

「ちっとも同じではない」

 アンエスカは鼻を鳴らした。

「恥を知れ――などと言っても、無駄だろうが」

「ハルディールは、お前を救いたかろうな」

 騎士の台詞を無視して、神殿長は肩をすくめた。

「お前を人質に、王子に何かを迫る手もあるが」

「私を?」

 アンエスカは皮肉めいた笑みを浮かべた。

「演出家の才能はないな、ヨアフォード。王子殿下が助け出す相手役には、年若い娘でも用意しておくべきだ」

「お前が老人なのは私の責任ではない」

「年上のお前に老人呼ばわりされる覚えはない!」

 状況にも関わらず、憤然とアンエスカは叫んだ。ヨアフォードは笑った。皮肉も嫌みもない、楽しげな笑い声だった。

「こうしてお前と話せば――懐かしいな。若い頃のようだ」

「……昔を懐かしむならば、違う状況にありたかったもの」

「もう、その機会は訪れぬであろう」

「であろうな」

 小さな国のなかで同じ神を崇め、国を愛したかつての友同士の道は、いつから離れたか。

 一リアの追憶がどちらをも訪れていたが、訪れたときと同じ早さで、それはどちらの心からも去った。

「お前を取り引きの材料には使わない。そのようなことをせずとも、物事は万事、私によいようになるだろう」

「大した自信だ」

 どこからくるのか、とアンエスカは皮肉を込めて呟いた。

「それはな」

 ヨアフォードは笑った。

「神は我に、味方するからだ」

「調子に乗りすぎだな」

 アンエスカは簡単に評した。

「さて、シャーリス。少し外の空気を吸いたくないか」

「何だと?」

 突然の言葉に、彼は口を開けた。

「ここの空気の悪さは、酷いものだ。たかだかひと晩とは言え、気分が悪くなったのではないか。散歩にでも連れていってやろう」

テュラス扱いか」

 アンエスカは頬を歪めた。

「何を企んでいる」

「ちょうどよいようだ、と思うのみ」

 ヨアフォードは懐から、鍵を取り出した。

「お前を痛めつけてみても私の胸がすくばかりで、思う効果を得るには無駄に時間がかかるだろう」

「無駄に終わる」

「それは判らないな」

 きっぱりと言ったアンエスカに、ヨアフォードは少し笑った。

「だが私は、お前の忠誠心を試すのではなく、お前の忠誠心を買うことにした」

「何だと?」

「お前は〈シリンディンの騎士〉。神の認めた王に忠誠を誓う者――だな?」

「いまさら、そのようなことを確認するのか」

 アンエスカは唇を歪めた。

「そうであれば、何だ」

「新王候補者が〈峠〉の神殿で神の許しを得るとき、神殿長のみが同行するというのが通例だ。だが」

 ヨアフォードは肩をすくめた。

「此度は騎士団長もその傍らにあり、神の御前で新王への忠誠を誓うというのはどうだ?」

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