07 取り引き
ヨアフォードは嘘をつかなかった。
アンエスカは神殿の地下牢で、実に高待遇を受けていた。
若い騎士たちが両手を拘束され、足枷をはめられたのと同じように。
(このような老いぼれ騎士をここまで警戒するとは)
まんじりともせぬ夜を送った彼は、苦笑のようなものを浮かべた。
(それでも殺さずに監禁など、ヨアフォードもやきが回ったか)
目先に捕らわれ、どうしてもアンエスカから薬草の件を聞き出さねばと考えている。手がかりが〈峠〉の神殿にあることはヨアフォードも予測がついているだろうに、そこを調査するよりアンエスカを生かして聞き出す方を選ぶとは。
(私であれば)
(秘密を洩らさない男など殺してしまって、自分で探すがな)
もっとも、生かされていることに文句などはない。生きてさえいれば、挽回の機会はある。どんなに小さな可能性でも。
(心配なのは、ハルディール殿下のご対応だ)
(私を案じ、くだらぬ約束をせぬとよいが)
騎士団長を救いたければ首を差し出せ、などという直接的な脅迫を神殿長がやるとは思えず、ハルディールもまさかそれは呑まぬだろうが、何かしらの取り引きを持ちかけられたら応じてしまうのではないかと危惧した。
実際のところはハルディールの方が取り引きを持ちかけようとしていたが、演技とは言え、知れば騎士団長は渋面を作っただろう。場合によっては取り引きも有用だが、ハルディールの方から言い出すべきではない。
だが彼は、それを忠告し、相談に乗ることのできる場所にいなかった。
「取り引きは、いかがですか」
まるで彼の考えを読んだかのように、薄闇から声がした。
足音も立てず、角灯も持たず、闇が喋ったかのような印象を与えるのはほかでもない、黒ローブ姿の魔術師だった。
「おはようございます、アンエスカ殿。よくお休みになれましたか」
「今度は何だ」
うんざりした声音を隠さず、アンエスカは言った。
「また魔術でも使う気か」
「ええ、また魔術でも使う気です」
魔術師はどこか面白そうに繰り返した。
「私の立場もですね、難しいんですよ。ヨアフォード殿の命令には従い、なおかつ自分の、そしてアル・フェイルの利益も追う。〈兎を仕留めた狐を捕まえる〉のみにとどまらない、言うなれば兎を仕留めた狐を捕らえた猟師を手に入れる、とでも言う辺りですね」
「欲深だ」
短く、騎士は呟いた。
「清貧を美徳とする方々には、受け入れられないでしょうね」
「貪欲に物事を追いかけるべきときもある。ヨアフォードの捕縛、裁判、処刑、アル・フェイルへの牽制、ハルディール様の即位、未来永劫平穏なるシリンドル」
「それは欲望と言うより夢想です、アンエスカ殿」
イズランは肩をすくめた。
「未来永劫の平和など、有り得ない」
「理想を追うのが騎士だ」
「それはそれは」
感心した口調でイズランは拍手などしたが、揶揄としか取れなかった。
「申し上げましたように、あなたの今後に気を使う必要さえなければ、魔術であなたの記憶を全部引っ張り出すことが可能です。ですができればそれは避けたい。積極的に話していただけるのがいちばんと思っています」
「何故、避ける? 先ほどは、ヨアフォードにばれては面倒だからという理由のようだったが、いまやその心配は要らない」
「神殿長殿は、あなたが白状するより先に、魔術があなたを殺してしまうことを案じています。私とて死なせるつもりはありませんが、事故というのは往々にして起こるものですから」
「成程。事故だと言い張れば、協会の批判からも逃れられるのか」
「よくお判りで。ですが、それを最初から企んでいるのではありませんよ。あなたは私をヨアフォード殿の、ヨアフォード殿は私をアル・フェイルの犬だと思い込んでいる節がありますが、私はこれでも、真面目な魔術師なんです。協会をごまかそうなんてしませんとも」
「真面目な魔術師というのは、他国の事情にくちばしを突っ込むものなのか」
「魔術師に国境は存在しませんから」
イズランは笑みを浮かべて、いまひとつ的を外した答えを寄越した。
「ふざけおって」
アンエスカは鼻を鳴らした。
「お前は自分を『ただの魔術師』であるかのように言う。だが、いまお前自身も言った通り。アル・フェイルのために動いているのではないか」
「ヨアフォード殿がそうお思いだ、と言ったんですよ」
「私はお前がアル・フェイルの人間であるという以上のことを知らないが、ヨアフォードは知るのだろう。その上で奴がお前を犬だと言うのならば、お前は犬だ」
「おやおや」
イズランは目をぱちぱちとさせた。
「不思議なことを仰るんですね。ヨアフォード殿の判断を信頼なさるんですか」
「対立することと、一から十まで否定して回ることは違う」
「成程ねえ、いや、面白い。先ほどの、あなたと神殿長殿のやり取りも興味深く拝見させていただきましたが」
「覗き屋め」
「否定できませんね」
悪びれずに魔術師は肩をすくめた。
「魔術というのは、容易に覗きを成し遂げます。他人の私生活、隠しごと、標的を絞ってそれを知ろうと思えば、簡単です。下世話な話をすれば、他人の風呂や性生活を覗くことだって。普通は、やりませんがね」
「普通でなければ、やるか」
「それは何にだって言えます。普通でないシリンドル神殿長は、シリンドル王に刃を向ける。普通でないシリンディンの騎士は、神殿長の暗殺を躊躇わない」
「前者の前提があれば、後者は当然だ」
「どうでしょうね。あなたが強く牽引しなければ、若い騎士たちは躊躇うと思いますよ。王子殺害を躊躇った僧兵たちと同じように」
イズランは首を振った。
「重要なのは、指導者です。指導者の資質と話す内容次第で、烏合の衆は何にでもなる。僧兵の件は、ハルディール殿下の資質が、失礼ながらヨアティア殿を大いに上回った結果ですな」
「当然だ」
アンエスカはまた言って唇を歪めた。
「だが、そんな話をしにきたのではあるまい。取り引きだと言ったな。魔術で脅しながら、何の取り引きか」
「脅していませんよ。だいたい、脅したところで屈する人ではないでしょうに。もっとも、私は拷問係じゃありません。それにはヨアフォード殿が自ら名乗りを上げておいでですし」
「は」
騎士は乾いた笑いを洩らした。
「他人をいたぶる趣味はない、が聞いて呆れる」
「楽しくてやるのではないと思いますが」
「どうだかね」
今度はアンエスカがそう言った。
「とにかく。あなたは魔術にも、鞭にも屈しまいとするでしょう。ですが、頑健な戦士というほどでもない。ご自分で思っているほど、抵抗はできないかもしれませんよ」
「ふん、やってみるといい」
「そうした挑発は、賢いとは思えません。私はかまいませんが、ヨアフォード殿はそれならばと本当に『やってみる』でしょうから」
「私が白状しない限りは、どう言おうと『本当に』やるのだろうよ」
「ええ、そうなりましょう。ですから」
そこでイズランは、こほんと咳払いをした。
「私が、仲裁いたしましょう」
にっこりと魔術師は言った。
「何だと?」
騎士は眉根をひそめる。
「はい、取り引きという訳です。私は何も『王家の秘密』を暴露するつもりはありません。ただ、話に聞くような毒草、薬草……知られていない貴重なものである可能性が高い。魔術薬に応用できるものだろうと推測しています。私はそれを協会に持ち帰りたいんです」
「誰がどんな目的を持っていようと同じだ。私は、言わぬと決めたことは言わぬ。たとえ話したところで、お前には理解できまい」
「最初からそう言われては話が進みません、アンエスカ殿」
イズランは取りなすようににこにことしていた。それは違和感のある表情だった。
「腹を割って話しましょう。私はその秘密を協会以外には決して洩らしません。協会は、もちろんそれを言いふらしたりしない。判りますか、アンエスカ殿。私はヨアフォード殿にも、アル・フェイル王にも、秘密を伝えない」
「そのような話を信頼できるものか。第一、私が魔術師協会とやらを信じる理由がどこにある」
「どこにもありませんね。協会は政治に干渉しないという大前提を持ちますが」
「お前がやっていることは何だ」
「協会から派遣されているのではありませんから」
「首都アル・フェイドから、とでも言うか」
「そうなります」
宮廷魔術師の弟弟子である、とイズランは簡潔に説明した。
「語るに落ちる」
アンエスカは鼻で笑った。
「一魔術師のふりをする、アル・フェイル人ではないか」
「アル・フェイル人の前に一魔術師なんですよ。……と申し上げても、判っていただけないでしょうね」
「判るはずがない。信じるはずがない、と言うべきか」
「信じていただく努力をします」
そう言うとイズランは――杖を取り出した。アンエスカはぴくりとする。
「魔術で、信じさせると?」
「そうとも言いますね」
「ふざけたことを」
「そうは言わないでください」
あくまでも笑んだまま、魔術師は杖を片手に印を切った。アンエスカは身を固くした。
だが、彼の心が魔術で支配され、「目前の男は信頼に足る相手だ」と思うようになった、というようなことはなかった。
その代わり、足元で小さな音がした。
「……イズラン」
驚いて、アンエスカはそっと足を動かした。間違いなく、足枷が外れたのだと判った。
「これだけでは、あまり役に立ちませんね。こちらも」
続いて、目の前で音がした。イズランは牢の扉を開けた。
「逃亡のお手伝いをします。これはヨアフォード殿にも、引いてはアル・フェイルにも裏切り行為だ、とお判りいただけますよね」
やはりにこにことしたままで、イズランは確認するように尋ねた。アンエスカは、うなった。
「だが……信頼はできん」
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