第3章
01 神に認められなければ
剣の訓練を終えた若い剣士は、汗を流し、身体をほぐそうと風呂場に向かった。
町には公衆浴場があるが、神殿の奥にもそうした場所がある。儀式に使うための禊ぎの場とはもちろん違って、日常的なものだ。
と言っても誰でも使える訳ではない。許可を与えられているのは神殿に詰める者たちのなかでも一部だけだ。そして彼は無論、許されていた。
「ルー=フィン殿」
その背中に声がかかった。誰の声であるか理解すると、ルー=フィンはわずかに眉をひそめた。
「少しお時間をよろしいですか」
生憎と聞こえないふりもできなかった。仕方なく彼は足をとめて振り向く。
「何の用だ、イズラン」
灰色の髪の魔術師が、にこにこしながら銀髪の剣士を追いかけてきた。
「訓練を拝見していました。あなたは実に見事ですね。アル・フェイル王がご覧になったら、近衛に欲しいと仰るかもしれません」
あからさまな世辞に、若者は何も答えなかった。
「何の用だ」
その代わりに、彼は同じ問いを繰り返す。
「少し、お話をしたくて」
「話だと? では用事はない、という訳か。ならば、時間はないと答えよう」
「お待ちください。私を信頼されていないことは判っていますが、そうつっけんどんにしなくても」
笑みを消し、残念そうな顔を見せながらイズランは首を振った。
「判らない点をいくつかお尋ねしたいのです」
「何についてだ」
渋々とルー=フィンは尋ね返した。
「シリンドルのこと」
やってきた答えに若者は片眉を上げた。
「大雑把すぎる」
「もっともです」
イズランは笑った。ルー=フィンは何か可笑しいとは思わなかった。
「私は余所者ですから、この国では常識的なことも私には未知だ。失礼ながらその点、ヨアティア殿は」
魔術師は声をひそめた。
「箱入りとでも申しますか、ご理解下さらない。ずっとシリンドルでお育ちだからなのでしょうが」
「確かに私は、余所と比すればシリンドルが特殊なようだと知っているが」
「お聞きしています。ルー=フィン殿は、他国の名だたる剣術大会に出向いてはことごとく優勝をさらっていらっしゃるとか。アル・フェイル、カル・ディアル、何とラスカルト地方の〈中心都市〉でまで」
「……誰がそのような話をするのか」
警戒する目つきで、若者は年上の相手を見た。
「ヨアティア様がお話しになるとは思えない」
「ああ、彼はあなたを褒めたがりませんものね」
イズランは彼らの確執――と言うよりもヨアティアがルー=フィンを好かないことを理解していた。
「かと言ってヨアフォード殿でもない。しかし、ほかにも知っている者はいますね。秘密という訳でもないでしょうし」
「何も秘密ではない」
ルー=フィンは認めたが、ではそれを知っている誰かから聞いたのだろう、と納得して終わることはなかった。
確かにルー=フィンが余所へ行って、彼の剣技がどこまで通用するかを試し、予想以上に通用してしまって喜ぶよりも呆れる結果を出したというのは秘密ではない。「呆れた」のは手応えを感じなかったルー=フィン自身だけで、知った者はたいてい我がことのように喜び、褒めそやした。
神殿のなかでは有名な話だ。
だがそれは、たとえばイズランが神官なり僧兵なりと話して、わざわざルー=フィンのことを尋ねなければ出てこない話題ではないだろうか。
ルー=フィンは、少し胸がざわつく感じを覚えた。
では魔術師は、そうしたのだ。わざわざ彼のことを他者に尋ねて回った。
秘密ではないことと言えども、探られるような真似をされて、心楽しくはなかった。
「それで、私が余所の常識をも知っていれば、何だ」
ゆっくりと彼は尋ねた。
「疑問はいくつもあるのですが」
イズランは両手を組んだ。
「最も不思議に思っているのは、これです。どうしてヨアフォード殿はさっさとあなたの即位を内外に宣言しないのか」
魔術師は肩をすくめた。
「ハルディール王子を亡き者にしてから、という計画だったことは判っています。しかしカル・ディアルの介入を警戒したヨアフォード殿は『王子は死んだ』から『王子は逃げた』という形に持っていくことになさった。ならば、いち早く新王ルー=フィン陛下の名乗りを上げた方がよろしいのではないかと」
「
「名乗りだけ上げたところで仕方ない。神に認められなければ」
「神に」
イズランは若者の言葉を繰り返した。
「具体的に、何らかの啓示があるのですか?」
「――王にのみ開かれる扉、というものがある」
彼は少し迷ったが、話すことにした。これもまた秘密ではない。無意味に隠し立てをして痛くもない腹を探られるのも、ご免だと思ったのだ。
「王にのみ」
興味深そうに、イズランはまた繰り返す。ルー=フィンはうなずいた。
「新たに即位する王位継承者は、誓いを述べに〈峠〉の神殿へ向かう。随行するのは神殿長だ。祭壇の前で継承者は、自らの意思と国と神のために尽くすことを口にする。それから取っ手のない扉に手を触れる」
銀髪の若者は、何もない空間を触るようにした。
「神が彼の言葉を真実と認め、王に相応しいと認めれば、扉が開く」
「ははあ」
魔術師は瞳を輝かせた。
「それはたいそう魔術的……あ、いやいや、神秘的で」
「お前の言おうとしていることは判る、魔術師」
剣士は眉をひそめて、続けた。
「嘘臭い、と言うんだろう」
「とんでもない」
慌てたようにイズランは手を振った。
「魔術師が『魔術的』という言葉をいんちきと同義で使うとお思いですか? 誤解ですよ」
「だが、疑っている」
「疑うと言うのとは違います。むしろ興味深く感じ、もっと詳しく知りたいと思うくらいです」
考え深げに灰色の髪の魔術師は首を振った。
「では、ハルディール殿下がご存命である以上、失礼ながら、神がルー=フィン殿を認めないかもしれないと、そうした危惧に基づいて即位宣言を避けておいでなのですか」
「ヨアフォード様がどのようにお考えなのかは判らない。だが私は、それは充分に有り得ることだと思っている」
血筋や権利で見るのなら、ハルディールよりもルー=フィンが選ばれる理由はない。ルー=フィンはラウディールの息子を王位に就けるべきではないと考えているが、神がどう考えるかは判らないのだ。
「ですが」
失礼ながら、とイズランはまた言った。
「随行するのは神殿長であると言われましたね。ならば、扉は開いたとヨアフォード殿が告げればそれでよいのではないですか」
「それは詐欺と言う、魔術師」
ルー=フィンは険しい顔をした。
「私は、たとえ僭主と呼ばれたとしても、偽りの王になる気はない」
「――そう高潔に仰るルー=フィン殿には、扉は開かれるように思いますが」
笑みを浮かべてイズランは言った。
「くだらぬ世辞を言うな。お前に何が判る?」
吐き捨てるようにシリンドルの剣士は言った。
「知ったふりなどするな。たとえお前がどれだけ力ある魔術師だとしても、お前はシリンドル人ではない」
「余所者、という訳です」
イズランは怒りなど見せず、同調してうなずいた。
「所詮、余所者の魔術師ですからね。判らないことだらけです」
ですから、とイズランは萎縮せずに続けた。
「もうひとつ。ハルディール殿が亡くなってもその扉が開かなければ、どうなるんです?」
「誰かには、開く」
ルー=フィンはそう答えた。
「私より相応しい誰かがいれば」
「あなたはそれでよいのですか」
「私は王位を欲するのではない。復讐を果たし、恩義を返したいだけ」
「それは、とても」
魔術師はそこで言葉を切った。「ご立派です」とでも続ける気だったのか、「神殿長に都合のよい考えです」とでも続くはずだったのか、ルー=フィンに知る術はなかった。
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