02 アル・フェイルの間者

「シリンドルに、ほかの神は存在しないのですか? つまり、どんな事象も〈峠〉の神が司る?」

 その代わり、イズランはそんなことを尋ねた。

「ほかの神はいないと思うが」

「ああ、尋ね方が悪かったです。身近におわすかどうかではなく」

 それについてはさまざまな考えがありましょうが、などと間に挟んで、魔術師は続けた。

「アル・フェイルでは、風が吹けば風神イル・スーンの仕業と言う。運がよければ幸神ヘルサラクの導きと言う。病になれば精霊フォイルが憑いたと」

「ああ」

 判った、とルー=フィンはうなずいた。

「シリンドルでもイル・スーン、ヘルサラク、フォイルと言った類の名は日常的に使用される。だが、同時にその影には〈峠〉の神がいると考えられる。風が吹くのも幸運が訪れるのも病を得るのもみな、〈峠〉の神がそれを許した結果だ」

「では〈峠〉の神は全能の神なのですか?」

「全能――と言うのかは判らない」

 シリンドルの若者は眉をひそめた。

「ただ、シリンドルは彼に守られている」

「少し判ったようです」

 イズランはほっとしたように笑んだ。

「余所では伝説と書物と神官の頭のなかにしか存在しない神の奇跡が、シリンドルには存在する。ここでは神は身近だ。だからこそ、ヨアフォード殿の理屈が正義としてまかり通るのですね。おっと、私が神殿長殿に何か含むところありなどと思われては困りますが」

「私は判らない、イズラン」

 ルー=フィンが言えば、イズランは目をしばたたいた。

「何がです」

「お前がそうして、シリンドルの常識を知ろうとすること。何の益がある」

「それは、ときどきヨアティア殿と噛み合わなくて困るからですよ。ヨアフォード殿だとそうしたこともないんですけどねえ」

 ふうと息を吐いてから、イズランははっとしたように手を振った。

「私がヨアティア殿の悪口を言った、なんて思わないでくださいね? ほら、〈魔術師協会では魔術師の言うことに従え〉と言います。シリンドルではシリンドルの常識に。この場合、常識がないのは私だということなんですし」

 媚びるようにイズランは笑い、ルー=フィンは気に入らなかった。

 どこかわざとらしいように感じられるのは、彼が魔術師を必要以上に警戒しているせいなのか、それともこれは必要な警戒なのか。

(アル・フェイルの間者)

 若者は恩人の言葉を思い出していた。

(この男はアル・フェイルに益をもたらすために、ここにいるのだ。そのことだけは、忘れてはならない)

 警戒しすぎるのもよくないが、全面的に信頼はするまい。若者は改めてそう思った。

「ご理解していただけるものかは判りませんが、魔術師という職種に携わる人間は、何でもかんでも知りたがるものなんです」

 言い訳めいて、イズランは言った。

「あまりよい趣味とは言えないな」

 ルー=フィンは顔をしかめた。

「ああ、誤解なさらないでいただきたい。何も噂話を好くという意味合いではありませんので」

「判っている」

 ルー=フィンは淡々と応じた。

「〈峠〉の神について知りたいという訳だ。だが何か物珍しい動植物でもあるかのように観察され、研究されるなど、私もヨアフォード様もシリンドルの民も、神も望まない」

「違います違います」

 慌てて――或いはそのふりで――イズランは両手を振った。

「ああ、でも、そうとも言えてしまうのかもしれませんね。興味、好奇心……向けられる側は心中穏やかでない」

「その観察、好奇心でも何でもいいが、ヨアフォード様はアル・フェイルを通してであろうとお前を雇っている。私は魔術師を好かないが、魔術師ではなく、アル・フェイル人イズランと話をすると考えることにしている。お前は、アル・フェイル人というものは厭らしい趣味を持っていると私が解釈することのないようにすべきだ」

 遠回しにルー=フィンは、覗き行為をするなと告げた。魔術師はまた、謝罪の仕草をした。

「私も、そちらに尋ねてみたいことがある」

 次にルー=フィンはちらりと、神殿の上層階を見るようにした。

「何でしょう?」

 両手を広げて、魔術師は続きを待った。

「タイオスですか?」

 少し意外そうにイズランは繰り返した。ルー=フィンはうなずく。

そうだアレイス。ヨアティアは彼を雇った。そのことについてどうこう言うつもりはないが、お前はあの男をどう思う」

「ただの、金に弱い、よくいる戦士ではないかと」

 イズランはどうと言うこともないとばかりに首を振った。

「戦士としては、なかなか優秀だと思いますよ。ですが、言うなれば所詮、戦士です。剣を振るって金を得ることを仕事としている。あくまでもそうした意味合いでは頼れると思いますが、人間として信頼できるかは」

 肩をすくめて魔術師は続けた。

「別です」

「その辺りだろうな」

 ルー=フィンは同意した。

「何か気にかかるのですか?」

「カル・ディアでは気のないようなことを言っていた。われわれに……ヨアティアに雇われるつもりは毛頭なさそうだった。それにも関わらず、わざわざここまでやってきた」

「賭けごとで金をすったのだとか。あれだけの大金を全て賭けたとなると、いざこざも起きたものと想像できます。ほとぼりが冷めるまで遠くへ行くついでに、高額な報酬をくれた人間を求めたと考えれば、何も不自然ではないですが」

「そうだな」

 またルー=フィンは同意した。

「不自然ではない」

「……そこが、気にかかっているのですね」

 イズランは言い当てた。

「ルー=フィン殿は、こう考えておいでだ。彼は、金さえもらえればいいという打算的な戦士である、と」

 タイオスが聞けば、ぎくりとしただろう。まさしく、彼がやっているのはその通りのことであったからだ。

「見せかけているのであれば、目的は?」

 魔術師は尋ねた。剣士は首を振った。

「判らない。考えすぎかもしれない。ヨアティア様に巧く雇われれば金になると思い直しただけかもしれないが」

「その辺りでしょう」

 今度はイズランがそう言った。

「気にかかるのでしたら、ルー=フィン殿が目を光らせておけばよろしいのでは? ヨアティア殿に忠告をするという手もありますが、自分の判断を危ぶむのかとお怒りになるやもしれませんからね」

 魔術師は提案した。少し間を置いてから、ルー=フィンはまた「その辺りだな」などと答えた。

「――ルー=フィン様。湯浴みのお支度が……あ……」

 そのとき角を曲がってきた娘は、ルー=フィンのほかにイズランもいることに気づいて戸惑った。

「ミキーナか」

 若者が彼女を認めれば、神殿の娘は、剣士と魔術師に一礼をした。

「訓練が終わられたようなので、きっとこちらだと」

 彼女の手には、ルー=フィンの着替えや新しい石鹸などが抱えられていた。

「いつもすまない」

 銀髪の剣士が言えば、娘はふるふると首を振った。

「私にできるのは、これくらいですから」

 そう言った娘の瞳は、崇拝のような色を伴ってルー=フィンを見つめた。ルー=フィンもまたそれを見つめ返して、再び礼を述べた。

「……これはこれは」

 イズランは目をしばたたいた。

「よいものですね、若い方たちというのは」

「何?」

「とぼけられずとも、けっこうですよ。言葉にせずとも、瞳は正直なものです。ああ、神殿長には内密ということなのでしたら、ご安心を。誰にも言いませんから」

「おかしなことを考えているのではあるまいな」

 渋面を作ってルー=フィンは言った。

「ミキーナは、神女としての誓いこそ立てていないが、神殿で神と神官のために働く敬虔な」

「おや。ルー=フィン殿は神官ではありませんでしょう」

「だが、神に仕える気持ちは同じだ」

「それからヨアフォード殿に、ですか」

「何だと」

「いえいえ。神と神殿長にお仕えする、神官ではないおふたり。立場も近しい、年齢も近しい、お似合いですよ」

「つまらぬことを言うな。下世話だ」

「恋情は下世話なことじゃないと思いますけれど。〈峠〉の神は神官に婚礼を禁じていないのでしょう。ヨアフォード殿もご結婚されて、一子をもうけている。何も」

「いい加減にしろ。ミキーナが困っている」

 娘は顔を赤くし、どうしてよいか判らぬ風情だった。イズランは謝罪の仕草をした。

「失敬。邪魔者は去りましょう。あとはごゆっくり」

 にこにこと笑みを浮かべながら、魔術師は礼をして踵を返した。ルー=フィンはその背中に厳しい目線を送っていたが、イズランが姿を消すと息を吐いてミキーナを見た。

「余所者の言うことだ。気にするな」

「いえ、私は何も……ルー=フィン様こそ、私のような者とおかしな誤解を受けては、ご迷惑でしょう」

「馬鹿なことを。私は」

 若者は何か言いかけ、しかし首を振った。

「お前と私が似た立場だというのは、イズランの言う通りだな。私はお前を立派だと思っているし、ヨアフォード様や、ほかの神官たちも同じだ。妙なことを考えるのは余所者だけ」

「……ええ」

「着替えを持ってきてくれたのだな。助かった」

 そこで彼は手を差し出し、はっとしたように娘は持ってきたものを手渡した。

「食事は?」

「お部屋にご用意いたします」

「私のではない、お前のだ」

「これからです」

「ならばまた、ともに取ろう。約束していた、カル・ディアルの話を聞かせる」

「有難うございます」

 娘は顔を輝かせて礼を言った。ルー=フィンはうなずき、風呂場へと向かった。衣服を渡す際にかすかに触れた指先を娘がそっと握っているのを彼が見ることはなかったが、娘もまた、彼がその手の温もりを思い返していることを知りはしなかった。

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