04 命に換えても

「……そんな」

 信頼していたアンエスカの裏切り――たとえ王子の命を守るためであっても、王子にとってこれは裏切りだった――に、自ら見つけた戦士を頼みにと思っても、彼ももはや王子のもとにいないのだと言う。

 少年王子は、目眩のようなものを感じた。

 重なった疲労と衝撃のため。湧き上がるのは怒りなのか落胆なのか、彼自身にも判断がつけがたかった。

「僕は……お前を信じていたのに」

 少年は悲痛な声で呟いた。従者は沈黙した。

「部屋をご用意していただきました」

 そののちにアンエスカが口にしたのは、全く関係のない台詞だった。

「使用人に案内させます。少しお眠り下さい。殿下には休息が必要です」

「ふざけるな」

 低く、王子は呟いた。

「休んでなど、いられるか! 僕が……僕がここでこうしている間に、エルレールに何かあったら」

「何もありません」

 きっぱりとアンエスカは答えた。

「王女殿下は安全です」

「もちろん、騎士たちのことは信じるが」

「そうではありません。ええ、私も彼らを信じていますが、私が言うのはそのことではない」

 息を吐いて、それからアンエスカは続けた。

「ヨアフォードは王女殿下を庇護します。かねてからの予定通りエルレール様をルトレイスの巫女に据え、新たな予定として彼の息子との婚姻を入れるでしょう」

「な……」

 ハルディールは絶句した。

「おそらく、それがあの男の考えだ。王をしいしたというそしりは免れないが、その血筋と自らの血筋をめあわせることで、それをかわそうと」

「エルレールが……ヨアティアに? 冗談じゃない!」

 少年はのどが枯れるほどに大声で叫んだ。

 コミンの裏道で耳にした言葉を思い出した。

 王女は自分たちのものだと、ヨアティアがそう言っていたこと。それはこのことを意味していたのだと王子は気づいた。アンエスカが既に気づいていたことにも。

「そんなことを許すのか! アンエスカ、貴様という奴は」

 激高して王子は、彼の人生で知る限りの、侮蔑の言葉を口に上せた。アンエスカはしばらく黙って聞いていたが、ハルディールが罵倒をとめると、そっと片手を上げた。

「ご安心を。そのような真似はさせません。しかし、彼奴がそう企んでいる限り、王女殿下のお命は無事だ」

「確かに……それは確かにそうだろうが」

 少年は勢いを落とした。

「……お前、いま、何と」

「エルレール様はご無事ですと」

「そうじゃない。どうやって『そのような真似をさせない』つもりでいる」

 王子はそこを問うた。従者は嘆息した。

「申し訳ありません。私は、シリンドルへ戻ります」

 男は告げた。

「殿下をおひとりにすることは、心苦しい。ですが、キルヴン閣下は信頼できる方だ。お会いしてお話をして、このアンエスカ、確信いたしました。彼ならば殿下をお守りしてくださる」

「だ……駄目だ」

 ハルディールは顔を青くした。

「すまない、アンエスカ、すまない。僕は、お前に酷いことを言った」

 少年は男の決意を知った。王子を安全な場所に託すため、王子を騙して危険な旅をしてきた彼は、危険を承知でシリンドルに単独帰還するつもりでいたのだ。

「でも、駄目だ。お前をひとりで帰すなんて」

「ひとりでは、帰りませんとも」

 男は鼻を鳴らした。

「ヨアティアとルー=フィンを引っかき回して引き付け、首級を手土産にでもしてやりましょう」

「無茶を言うな! お前が、ルー=フィンに敵うはずがないじゃないか!」

「ええ、正面から剣を合わせれば、その通りです。私に剣の達人の腕はありませんが、その代わり、経験があります」

 伊達に年を重ねてきた訳ではない、と男は嘯いた。

「殿下に罵られ、蔑まれ、憎まれ、恨まれても致し方ないと思っておりました。しかし、殿下は私の行動をご理解下さった」

 アンエスカは立ち上がると、彼の王子に向けて最高級の礼を表す仕草をした。

「このシャーリス・アンエスカ、ハルディール王子殿下とシリンドル国のため、命に換えてもエルレール王女殿下を生命の危険から、そして不埒な婚姻から、お守りいたします」

「命に……命に換えるなどと、言うな」

 ハルディールはまたも声をかすれさせた。

「お前に何かあったら、シリンドルは、僕は、どうすればいいのか」

「キルヴン閣下をお頼り下さい」

「お前が言うのならば、キルヴン殿を信じる。だが、僕の欲しい言葉はそれじゃない」

「殿下をお連れすることはできません」

 先を制するように、アンエスカは首を振った。

「どうか、ご立派に成人をお迎え下さい。そして、そのときにヨアフォードがどんな企みを進行させていたとしても、シリンドル国王をお名乗り下さい。大国に頼るのは望ましくありませんが、ヨアフォードがアル・フェイルを頼るのであれば、カル・ディアル王は対抗してハルディール様をご支持下さることも考えられます。キルヴン閣下も、そのために既に動いてくださっている」

 アンエスカは頭を下げた。

「いまは、お休みを」

「僕が休んでいる間に、お前は去ってしまうつもりだろう」

 ハルディールは指摘した。図星を指されて、アンエスカは顔をしかめた。

「駄目だ。アンエスカ、駄目だ」

「致し方ない、明日の早朝に発つ予定であることをお伝え申し上げます」

「見送らせればいいというものではない。ひとりで帰るなど駄目だと言っているんだ」

「そのご命令は聞けません」

 男は踵を返そうとした。

「アンエスカ!」

 王子は怒鳴った。

「言え。誓え。必ず……生きて戻ると。僕を迎えに、お前がやってくると!」

「私もそう望みます」

 男は答え、今度こそ、王子に背を向けた。ハルディールは唇を痛いほどに噛みしめて、自らの幼さと無力さを嘆いた。

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