04 シリンディンの騎士

 窓の外は、曇っていた。

 奇しくもそれは、タイオスが思い浮かべた彼の故郷の風景に似ていた。

 白い雲が全天を覆っている。

 それはまるで、窓辺に佇む人物の心を表しているかのようだった。間違っても、晴れやかであるとは言えない。

「あまり窓辺に近づかれませんよう」

 背後からそっと声がかけられた。金の髪を持つ娘は、窓の外を眺めたままで答える。

「いまの私には、何もない。窓の外を眺めて、シリンドルの天気を知る権利すら」

「――エルレール様」

 二十代前半ほどの、明るい茶の髪をした男が、シリンドル国第一王女を呼んだ。エルレール・シアル・シリンドルはゆっくり振り向き、謝罪の仕草をした。

「ごめんなさい、クインダン。お前に当たるなんて」

「われわれの不甲斐なさ故に、殿下ラナンにご不自由をおかけしている。私めに何でも吐き出すことで殿下のご気分が紛れますのなら、このクインダン、誇りに思います」

「ああ、クインダン。お前たちのせいだなんて思っていないわ」

 エルレールは首を振った。

「全て……あのヨアフォードのせい」

 その名を口にしたとき、力なくうなだれていた少女の、弟とよく似た青い瞳に、強い光が宿った。

 十代も後半という、彼女はいま、稀少な季節を迎えている。

 美しき姫、シリンドルの宝玉と称えられた王女はいま、乱れた長い金髪を大雑把に結わえ、下町娘のような木綿の服を着ていた。

 ひと月近くに渡ろうという逃亡生活は、不自由のない暮らしをしてきた娘の心と身体を痩せさせた。

 だがそれでも、エルレール王女は美しかった。

 悪夢のような出来事。王と共にシリンドルを支えるべき神殿長ラクラシルの謀反。

 エルレールとハルディールの目の前で父王ラウディールは殺害され、幸か不幸か目にしなかったものの、母王妃エリアシェンも同じ運命をたどったと聞かされた。

 〈シリンディンの騎士コーレス〉と呼ばれる男たちと忠実な召使いたちの機転で子供たちは難を逃れたが、すぐさま反逆者を成敗するには、彼らには戦力が足りなかった。

 その日までシリンドルは平和であった――平和の仮面を身につけており、王家を害する者など、いるはずがなかったのである。

「私が男だったら! 剣を持ち、いますぐにでも彼奴の神殿に乗り込んで、復讐を果たしてくれるのに」

「たとえ王女殿下が王子殿下でいらしたところで、そう簡単にはいきません。神殿には、このときのためにヨアフォードが鍛え上げた僧兵が、大国の軍隊のごとく殺人者を守っている」

 王女の激高を抑えるように、騎士は静かに言った。

「そうね。ヨアフォードが王様をしたいだけだと考えて、それを咎めなかったお父様は……判断をお誤りになった」

「王が神殿長を信じたと弾劾されるべきではない。ラウディール陛下は、ご立派でいらした」

 騎士クインダンは敬意を表す仕草に、身分ある者に向ける追悼の仕草を続けた。エルレールは身内としての返礼をして、それからクインダン同様に、王だった男への敬意と哀悼を示す。

「ハルディールの消息は?」

「ヤーベイで途絶えたきりです」

「ああ……」

 王女は両手で顔を覆った。

「あの子はまだ子供なのに!」

「それでも、唯一のお世継ぎです」

「女に継承権がないことを恨めしく思う日がくるなんて、考えてもみなかったわ」

 エルレールは顔から手を離すと、両手の指を組み合わせた。

「どうか〈峠〉の神よ。あなたに仕える者をお守りください」

「ハルディール殿下には我らが神と、それからアンエスカがついています」

 クインダンもまた祈りの仕草をして、うなずいた。

「そうね」

 王女はまた言った。

「信じているわ。〈峠〉の神のご加護も、アンエスカのことも、ハルディールのことも」

 でも、とエルレールは呟いた。

「不安でたまらないの。私はこんなことで、ルトレイスの巫女になれるのかしら」

「なれますとも」

 クインダンは請け合った。

「ハルディール殿下が王陛下に、エルレール様が巫女に、それが正しいシリンドルの、未来の在り方です」

「そしてその傍らに、〈シリンディンの騎士〉ね」

 エルレールはつけ加えた。クインダンは腕を胸の付近に上げて敬礼をする。

「順調に行っていれば、もうカル・ディアに着いているはず」

 彼女は弟の姿が見えないかとばかりに、遠い北西を眺めた。

「しかし、気にかかることもあります」

 クインダンは表情を暗くした。

「殿下とアンエスカが発って以来、ヨアティアの姿が見えない。ルー=フィンもです」

「やはり、ハルディールを追っているのね」

「おそらくは」

「歯がゆいわ。私には祈ることしかできないなんて」

「とんでもございません」

 騎士は首を振り、王女の前にひざまずいた。

「こうしてエルレール様がヨアフォードの手を逃れていらっしゃいますことは、彼奴らの暴虐に苦しむシリンドルの民たちの希望。支えです」

 まっすぐに王女の瞳を見つめ、クインダンは続けた。

「彼奴らより殿下をお守りするのは私とレヴシーの務めでありますが、エルレール様が心労のあまり身体を弱らせるようなことになっては、騎士には手の打ちようがない」

「判ったわ、クインダン」

 王女は笑みを浮かべた。浮かべてみせた。

「闇は、心弱くなった者に取り憑くと言うわね。嘆きは嘆きを呼ぶとも」

「ご立派です」

 クインダンも笑みを浮かべた。それは、眩いものを見て目を細める様子に似ていた。

「エルレール様、そしてハルディール様が再びシリンドル城にお揃いになること、それがいまや、シリンドルの民の願いです」

「ヨアフォードに与した者を除いて、ね」

 王女は言い、騎士は黙った。

「それとも、処刑のために揃うことを望むのかしら。……いいえ、駄目ね、私ときたら。希望を見ようと決めたばかりなのに」

「ご不安を覚えるのは至極当然のこと。時に殿下はそれを隠さねばなりませんが、私どもの前では、何ひとつ包み隠すことはございません」

「クインダン……有難う」

 エルレールの瞳がかすかに潤んだ。

「こうして私が無事にいるのは、お前とレヴシーのおかげ」

「――クイン!」

 そのときである。慌てた声が、簡素な部屋に飛び込んできた。

「まずい、こっちにくる!」

「何」

「僧兵の一団がこっちに向かってるんだ。急がないと」

「落ち着け、レヴシー」

 年上の騎士は、まだ幼さを残す騎士に命じた。

「状況を」

「北街区をしらみつぶしに捜索している。これまでみたいな、通り一遍の調べじゃない。ホーウィの酒屋の隠し部屋も見つかったと、彼が知らせてきてくれた。地下に隠れるだけじゃ、やばいかも」

 黒っぽい巻き毛を持つ少年騎士は、青い顔をしていた。

「いったい、どこから洩れたんだ」

「それを考えてる場合じゃない」

 クインダンは唇を噛み締めた。

 彼は訓練を受けた。騎士としての自信も誇りも、若い彼の内にある。

 だが、彼には経験がない。繁栄していた頃の騎士団であれば、彼を指導し、有事の際には的確な指示をくれたはずの先輩騎士は、この場に存在しない。

 老ウォードがいれば、クインダンを導いただろう。だが不幸なことに、ウォードは王女の逃亡を手助けた際、僧兵の剣の露と消えた。立派な人間ばかりが死んでいく、とクインダンは歯がみした。

 しかし、存在しない相手の指示を待っていても仕方がない。

 二十歳を越したばかりのクインダン・ヘズオートが、まだ十代のレヴシー・トリッケンとふたりで、シリンドル王女を守らなければならない。これが現実だ。

「追い込まれる前に、強行突破をしよう」

 それが正しいのかどうか、判らない。だがクインダンには、迷っている暇はなかった。

「レヴシー、支度を」

「ようし」

 シリンディンの最年少騎士は、ぱちんと指をはじいた。

「びくびくと隠れているなんて、もう嫌だ。突破、そうこなくちゃな」

 台詞ばかりは威勢がよかったが、レヴシーの唇は青くなっていた。

「殿下」

 クインダンはエルレールの傍にひざまずいた。

「危険のただなかに飛び込むこととなりますが――」

「私とて、危険がやってくるのを座して待つつもりはなくてよ」

 エルレールは立ち上がった。

「神は我らを必ずお守りくださる。クインダン」

「は」

「レヴシー」

「はい」

 騎士たちは頭を垂れた。

「祝福を」

 もしもこの場にとある中年戦士がいれば、何を悠長にしてる、早く行動しろ、とでも怒鳴っただろう。

 だが彼らには、これは重要なことだった。

 〈峠〉の神の加護を受けし王女の祝福が、〈シリンディンの騎士〉を守り、シリンドルを守る。

 たとえヴォース・タイオスが絵空事と鼻で笑っても、それが彼らの真実だった。

「行きましょう」

 王女は凛とした表情で告げた。

 身につけているものが汚れた木綿の衣装であっても、王女の威厳が損なわれることはなかった。

 制服を脱いだ騎士たちもまた、誇りは彼らの心に抱いていた。

 王女を守る。シリンドルを守る。

 王子が〈白鷲〉を連れて戻る日まで。

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